エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

否定されることは怖いけど、それでも、これからも、他人との人間関係を、相互理解を、共感を、内包を、合一化を、求めてしまうんだろうな、という予感について。

初めての失恋ついでに、
恥ずかしいポエムでも残しておくことにする。

 

 

「こんなことになるくらいなら、
付き合わなければよかったのかも。」

 

異性とかラべリングとかにはこだわりがなく
人としての交わりを大事にしたい私と、
恋愛という契約を特別なものと捉えて
特別な関係を築きたい彼と、
重なる瞬間があったことは、
幸せなことだなと思いつつ、
その残した爪痕の大きさに、
まだ私は何の事だかわかってなくて、
今のことだか過去のことだか
はたまた未来のことだかも分からず、
ただただぼう、としています。
たぶん、人から否定されるという
世界の理、みたいなものを忘れて生きていたんだね。

 

でもね。
自分の価値観や存在なんてものは
淡くて無に等しいと思ってたのだけど、
本当に驚いたことに、確かにそこにあって、
信じられないくらいに揺るがないのだと、
はたと気づきました。

 

私は私のパーソナリティゆえ、
一度大事だと思った人とは、
好ましい関係性を未来永劫続けたい
と思ってしまうのです。

 

今回に関しては、
それが叶わない気もするので、
ただただ悲しい、のです。
自分が風化するのが嫌なのか、
相手を風化させるのが嫌なのか、
人間関係は物語だからなのか、
生きてるうちはご縁があるからなのか。
それはわがままなのかもしれないけど。

 

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私の人生一番の親友は、こう言いました。
「人生はオムニバスではない、
長編映画なのだ」と。

 

過去も今も未来も全部つながっていて、
それが一つの大きなものを築いている。
全てのものは絡まり合い、影響し合い、
自分の人生を為している。
それはパーツという概念とは少し違っていて、
多分、要素分解したり定義するのは難しくて、
もっと淡くて不確実なものだけど、
確かにそこにあって、そういう重なり合いの上で、
初めて「生」が立ち現れているのだな、
という感覚を持っています。

 

(いなくなってしまったわけではないので、
厳密に言えばそうではないのだけど、)
大事な人を失うことは、
なにもなくなってしまったような、
足場がなくなってしまったような、
どうしようもない不安との対峙を意味するけど、
その意味だって、人生を構成する一要素である、
と捉えることで、今日この場をなんとか生き切れるのだろう、
と思っています。

 

※ていうか、しみじみ思うけど、
ここで仕事に逃避しないのが、
怠惰虫の真髄だよね笑。

 

人から否定されたり、悪意を向けられるのは
もはや慣れっこなのだけど、
身近な人や大事な人からNoを突き付けられるのは、
母親との一件以来、久しぶりなので、
(というか能動的に関係を築いた中では
初めてなんじゃないかっていうレベル)
けっこう動揺しているんだなあ、と
自分を観察して、冷笑しています。

 

それでも、今後も、好ましい人とは
好ましい関係を作りたくて、
理解したくて、好きになりたくて、
好きになってほしくて、
っていう人生を送っていくんだろうなあ。

今は
「ああ、ひとりになってしまったのかな」
という思いを止められないけど、

いつか
「こんなことになってでも、
付き合ってよかったなあ」

 と思えるような未来が来るといいのかもしれないね。

 

人生は連続するものでしかないのに、
明日のことなんてなんも分からないし、
延長線上の未来が最上に見えるから苦しいし、
未練というかなんというか未練しかない・・・
ような気がしないでもないけど。

 

あでぃおす。そろそろ仕事するね。

 

追記

 

真実も虚栄も、全部全部
うわべでしかないような気もするし、
何を頼りに生きていけばいいのかなんて
もはやわかんないし、
というかもはや自分が今何をしているのか
ということすら訳が分かっていないし、
なんというか、呼吸するのも痛くて、
ぐるぐるしてしまうけど、
それでも生きているのが不思議ね。
(死ぬ気もないので、不思議でもないけど)

 

今日が、昨日が、もっと昔がそうだったように、
明日には、もっと未来には、
こんな感覚がなくなってるのかも、
ということに、言いようのない恐怖を感じながら、
でもそんなこと言ってもしょうがないので、
今日を生き切ることだけですね。

 

一日が長すぎて押しつぶされそうだ・・・