エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

「代替不可能性」なんてものはこの世に存在しないという事実について。(そしてその事実とどう向き合うかについて。)

人生を共にする人に求める要件も、
それを満たす人の代替不可能性も、
本来的には「先に存在する」ということはなくて、
とすると、(メタ的にとらえるのであれば、)
本当は何でも/誰でもいいんだろうな
と、ふと、思っている、というお話です。

 

・・・もちろん誰でもいいわけではない。
「一緒にいれそうだ」と思える限りにおいてなら、だ。
「この人といたい」と思う段においては、
それが永続するかなんていうのは、
もはや問題ではなくて。
今この瞬間、そう思えるという気持ち、
(それを直観と呼ぶのかもしれないが)
それがあればなんでもいいんだろうなと。

 

きっとその後時間を重ねて、
ものを一緒に見ていく経験を重ねて、
どんどん一緒にいたい、と思えるだろうから。

 

(とはいえ、だからといって
本当に誰でも/何でもいいわけではない。
①「大丈夫そう」は集積であって、
一つの尺度で判断できるものではない。
即座に判断できるものでもないのだろう。
②「大丈夫そう」に適さないと思ったら、
人生を共にすることは出来ないのかもしれない。
③もし「ダメそうだ」と思ったら、
自分に正直に生きることを願う人であれば、
多分、諦めるしかないのかもしれない。)
※すいませんこの辺はちょっとまだわかってません。。。

 

そういう淡さ/不確実性/偶然性の中でも、
「今、相対している」「一緒にいたいと思っている」
という運命を受け入れ、
いつも相手に対して正直に、
真っ直ぐ真っ直ぐ向き合い続けられるのであれば、
きっとその2人の人生は、
どのような交わり方であっても
(それが「一緒にいる」という帰結には
ならないのかもしれないけど)
幸せな方向に向かうんじゃないかな、と
思った、というお話でした。

 

・・・という備忘録。

 

悲しいことを悲しいこととして
体内に取り込み、受け入れ、
ただ悲しいと感じることしかできないけど、
それだけだともう1mmも生きていられないので、
せめてもの慰めに、文章をしたためてみています。

 

物質的距離がたとえ近かったとしても、
きっと届かないであろう文章を書いて、
仕事に向かうことにします。

あでぃおす。

 

追記

また過去と同じことを言ってしまった・・・

cloalien.hatenablog.com