エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

【断食体験記】断食合宿を終えて「食」について考えたら、自分のやるべきことが少し見えてきた(気がする)。

食に関するおまけ的な考察

こんにちは。三部作で書こうと思っていたのに、前後半にしたせいで3記事目がぽっかり浮いてしまったくろえです。

皆様、三連休いかがお過ごしでしょうか。

 

私はというと、
土曜日には昼はパン教室でカレーパンを作り、渋谷のタイ料理を食べ、
日曜日には親愛なる彼氏氏と物件めぐりをし(半分趣味ではないかという疑いもありつつ)、昼は馬場FLATで念願のパンを買い、三茶でタイ料理を食べ、
今日は世田谷パン祭りに行った後昼は三宿のパン屋さん巡りをし、夜は秋の味覚を愉しむ会を自宅にて開催しようとしています。

※ちなみに今日行く世田谷パン祭りはコレ。

setagaya-panmatsuri.com

 

うーん、食欲の秋、ですね・・・。(言い訳)

 

食の煩悩に取り憑かれているのは相変わらずなのですが、
先日の「IARP根府川道場での断食合宿」をきっかけに、
少しずつ、食について考えたので、記載してみることにします。
では、はじまり、はじまり。

※前半はこちら

cloalien.hatenablog.com

※後半はこちら

cloalien.hatenablog.com

 

食欲の煩悩からは開放されるのか?

今回の道場合宿明けにも強く思ったのだが、これは非常に難しい、ということを実感した。

そもそも、下界には食のコンテンツが溢れているし、そうでなくても社会生活は1日3回の「食」を前提として回っている。

学校時代からの規範として、人間はルーティーン的に(それは身体の求めるサインではなくても)無自覚的に食を摂取することを刷り込まれており、社会生活もそのように設計されている。

それが通常である一方で、たまにストレスが高じると、それが過食となったり、拒食になってしまうこともある。

これは食に限らないのかもしれないが、「自らの持つ(明確に欠乏しているわけではないのに無自覚的に求めてしまう、という意味での)狂気のような欲求」を制御するためには、自らの身体や精神への深い理解があった上で、かなりの自制心が必要なのではないかと思う。

(私は前者を認識するのもかなり難しいと思っているが、前者が進んできたとしても、後者はかなり難しいと感じる)

 

食べ物の役割

先のブログのなかでも述べたが、「食べ物はストレスや怨念を受け止める緩衝材なのかもしれない」と思っている。所謂過食症気質があるから尚更そうなのかもしれないが、食べ物というのは業を持っているように感じられることがあって、恐れの気持ちを持つことがある。そして、その呪縛はしっかり体内に取り込まれていく。

私のとても好きな作品のなかに(前回も紹介したが)安野モヨコ先生の「脂肪という名の服を着て」というのがあるのだけど、この中でも主人公のもこちゃんは「強くならなきゃ」と思いながら、食べ物を頬張る。
食べ物を食べることで内側から強くなる、という感覚は、孤独や不安を紛らわす手段として、とても理解できる。自分の弱さや社会に対する恐れの気持ちをごまかすかのように食べてしまう、ということ。

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また、過食・拒食を繰り返す主人公に対して登場するエステの店長は、以下のように切り捨てる。

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これは心にかなりくるものがある。心に醜さがあると、食べ物にすら敵意を向けてしまう。結果として、食そのものに過度に人生を囚われてしまっている状態になる。

 

食べ物とどんな関係を結ぶべきなのか

自分の美醜と食べ物を過度に結びつけてしまうことは、本当であれば、健全な関係とは言えない。ということは分かっている(行動が伴うか、また、美しくなるか、という話とは別だが)。

逆に考えてみると、そもそも、食べることは生きる上で必要なものであるが、もちろんそれだけではなく、ポジティブな要素も多分に含んでいるはずだ。

人とのコミュニケーションを円滑にするだけでなく、五感を刺激することで幸福を感じる物質が分泌されたり、心身の健康を保つために、本来であれば必要なものであるはずだ。

だからこそ、本来であれば「身体を痛めつけないような食べ方で」「過度に孤立せず(自己を攻撃しないために取りうる手段のうちの1つでしかないが)」「ポジティブに食べられる」ことを重視するべきなんだろうな、と思った。

(だがそのことは難しいのは重々承知だ。人前で盛んに食べるキャラクターを演じていると、自己の欲望との乖離が発生し、そのことが身体的に負担をかける可能性だってある。本当に、食の問題は人生に直結する根深い、そして解決困難な課題であると感じる)

 

祈りとしての「食」提供 〜提供者側として作る/作りたいべき体験はなにか

自分にそういう後ろ暗い、今もなお(もちろん、甘ったれていると言われればそこまでなのだが)戦っている「食」に対して、私は「提供者側でありたい」と思っている。それはなぜなのだろう?

 

翻ってみると、前職では「ベーカリー」を立ち上げ、たまに冷凍ベーグルやミスドでドーナッツを買っては、社内のメンバーに販売していた。

これはひとえに「食におけるプラスの側面」を他人に求めたからだ。

食が充実することで人生が豊かになる人が存在することを確かめたかった。

そして、そのような業務外でのサービス提供のなかで、(男性が多い職場だったことや、頭脳労働の職場だったことに起因するのかも知れないが)多くの社員から、それぞれの趣味嗜好を聞いたり、感謝されたりする機会がちょこちょこあった。

これは、今思い返してみると、自分の原点だった。(もちろん自分が作ったわけではないが)本当に嬉しかった。自分の選んだものが、誰かの喜びとなり、そして血肉になるという感覚。

たかが食事、だけど、されど食事だ。

この食事を通じて、少しでも心の豊かさにつながってほしい・・・という願いを込めて、個々人の好きなドーナツのリサーチなども行い、仕入れの精度を上げるなどの活動を行っていった。

そして、前職でのベーカリーのオープンの回数が100回に迫ろうとしていたとき、私は前職をやめた。

 

そして現職では、ついに「それ」を仕事にしてしまった。

弊社の扱っている「オフィスおかん」というサービスは、オフィス内で、弊社が設置した置き型の冷蔵庫に、肉・魚・野菜・カレー・ご飯などのおかずを納品するものだ。従業員は1品100円で食べることが出来る。

このサービスには「従業員が仕事のさなかで食べたいものを、手軽に、安価で、美味しく食べることが出来る」というバリューがある。

そして、これによって、従業員の食生活、ひいてはライフスタイルが少しでも豊かになるのではないか、という祈りを持っている。(これは客観的効果を計測するのは難しく、もはや祈りの範疇だ。)

office.okan.jp

 

私の食との関わり方 〜それでも、食はポジティブなものであってほしい

食の福利厚生を扱っている現職の会社に入り、更に複業としてもパンのマーケティングを扱う会社に少し関わろうとアプローチしている中で、つとに思うのは、

食べ物は人を傷つけるためにあるのではなく、人が人に優しくする・幸せにするために存在するべきだ、ということだ。

これは精神論かもしれないが、自分の中で起こっていることとは別の現象として、もしくはそれを包含した上で、そういうポジティブなものをもたらしたいと思っている。

 

これまで論じてきたとおり、食べ物は揶揄しようと思えばいくらでも揶揄できるし、いくらでもネガティブな捉え方が出来る。

(糖質は悪だ、食品添加物は人をガンにする、動物性脂肪は消化にストレスがかかる、精製した砂糖の大量使用による中毒だ、食による精神の摩耗、トラブル、などなど・・・)

 

でも私はあえて、ポジティブな面に目を向けたい。

誰だって、「身体に良く、心の栄養にもなり、舌にも美味しいと感じられるもの」に出会ったことがあるのではないか。それはあるときには「おふくろの味」なのかもしれないし、辛い時に食べた弁当かも知れないし、居酒屋飯、自分で作ったご飯、ミシュラン三つ星・・・なんでもいい。

(私にとってはなんだろう?精神的に追い込まれていたときに入った、自由が丘駅構内のスープストックトーキョーで食べた生姜スープの滋味深さに、思わず泣いてしまったことがある)

私はどんな食べ物でも良い、誰に対する価値提供でもいい、そこを目指したいんだなって思った。

もちろん味覚は人間の主観だったり、いろいろな要素が絡むので、体験は綿密に設計しないといけない。もちろんそれは対個人かもしれないし、対マスかもしれない、対作り手なのかもしれない。

 

そして、そういう意味では本当は食べ物ではなくても良いのかも知れない。職業選択かも知れない、日々のメンタリングかもしれない、筋トレかも知れない、学習かもしれない。

でも、ここまでどうしようもなく惹かれ、憎み、接し、愛することの出来るものは、「食」だけなのかもしれない、とも思う。

 

・・・という意味で、(関わる全ての人間に対する)様々なところまで作り込んだ体験を、こと「食」というフィールドで実現したい、という想いを強くしたのであった。