【恋愛小噺その5】「好き」を直観的に自覚する尺度とは? ~あるコンサルタントのひとりごと
おはようございます。
昨晩はチームの大好き上司と飲みに行くも、
席が遠くて&場の盛り上がりから直接あまり話せず
悲しみを感じながら、つくづく場への精神的な適応性の低さを反省しました。
飲み会はやっぱり苦手なくろえです。
昨日少し書いていた記事の追記についてその後考えたので、
再度独立して掲載することにしました。
お題は、「恋愛として好き」であることを直観的に判別する方法についてです。
(いってい拗らせているときには、自分のことがわからなくなり、
「直観する」という言葉の意味すらもよくわからなくなって、
「直観」を感知する方法を言語化しようとしている、ということです。)
(でも、受動的に生きていてかつ言語化しないと物事を認識できない人間が
自分の主体的な心の動きを観測しようというのは、大事なことだと思う、
と自己正当化を図ってみたり。。。)
検索してみた
Google先生に「自分 好き 判別」と問いかけてみると、
「相手が自分を好きなのか判別する方法!」みたいな記事ばかり出てきて、
世間のニーズはそちら側なんだな、と思いつつ、
いくつかの当てはまりそうな記事を読んでわかったことを以下にまとめます。
人生のマインドシェアを獲得していること=好き?
どうやら
・相手に関する情報収集をする(相性占い、趣味、仕事についてなど)
・相手を目で追う(これはそうかもね)
・相手に会う前に高揚感を感じる(ドキドキ、わくわく、ある種の緊張、あるいは帰りたい感)
・相手と話すとき、普段どおりの性格で接することができない
・相手と一緒にいない時でも、もっと会いたいと思う
・相手のことを好きであるということを公言できない
といったことが「好き」のシグナルとして紹介されているようです。
自分の人生の時間のなかで一定のマインドシェアを獲得している
ということすなわち、「好き」と捉える、という話のようです。
ただ、上記は「好きである」という納得があっての行為でもあるように見えて、
ここで扱いたいのは、もっと原始的な身体的感覚(=「直観」)の話かなと。
自分がその人のことを好きだと思っているのか、
相手から来ているものに対して受動的に反応しているのか、
ということの境界は往々にして淡く、自覚しづらい。
だからこそ、自分のなかにある能動的(あるいは直観的)な「好き」を
知覚できる方法を探しているのです。
直観的な感覚のなかでも、重視すべきこと
今のところ、自分の中の主体的な「好き」を観測するには、
「手をつなぎたいと思うかどうか」という尺度が
最も適切な判別方法である、と思っています。
例えば私の場合、
あまり人と距離を詰めるのが得意/好きではないので、
「手を繋ぎたいなあ」とある種直観的に思った人については、
「一定距離を詰めて良い、むしろ詰めたい」と認識していることになり、
あ、これ「好きだ」と思っているのかも、ということでこれは納得がいくなと。
※「いい匂いだなあ」と思うこと、とかも候補ではあったのですが、
これは関係性の有無にあまり寄与しないのであくまで次点としました。
(自分のその人に対する距離感や態度ではなく、
ただ相手を判断するだけの尺度なので)
(でも付き合う人はみんな好きな匂いだったな、と思うと
直観のうちの大事な要素なのかも。。。)
「直観」は中長期的な関係を支える最重要事項である
個人的な感覚としては、そういう身体的(直観的)な良さを
双方に感じている関係であればあるほど、
その後仲が深まったとして、何らかの危機を乗り越えられる気がします。
(まあでも顔とかもそれに近いのかもしれないね。)
(そして、双方にそう思い合っている状態は理想的だしとても大事。
それこそ相手側のそれは認識できないので難しいわけですが。)
中長期的な関係性の維持という側面でも、
最初の身体的な直観を大事にすべきなのだと思います。
参照
「2人きりになりたいか、どうか」というのも、
先の身体的接触の話にも近いのかもしれませんね。
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さて、今日は久しぶりにお休みできそうなので(涙)、
図書館で積読消化をしてきます。乱読じゃ・・・
それではあでぃおす!皆様良き週末を!