自分の思考に一旦「答えを出す」ことことは、痛みを痛みとして受け入れることだ
この世の中には答えを出せと言われることがたくさんあって、
本当は自然状態では答えなんか出さなくてもいいはずなのに、
この世の中で生きてると答えを出すのが必然であるような感じで
つい安易な答えを出しながら生きてしまうのかもしれない。
・・・と思っていた。
で、私は「安易に答えを出す」ということに耐えられないから、
そして、「考え続けること」の美しさと崇高さに憧れていたから、
「答えを出さないで考える」という選択を取ろうとしてきた。
でも、本当は、「安易な選択」なんてものはないかもしれない・・・
って最近は思い始めている。
(というより、本当は「安易な選択」はもはや選んですらいないのかもしれない)
「答えを出す」ことそのものが(どんなに軽いものでも)
痛みを伴うものなんだろうな、
自分はそこから逃げてきただけなんだな、と。
ぼちぼち私自身のいる段階にも変化が訪れているのだろう、と思う。
(意図的にそうしている、というのもあるのだけど)
・そろそろ逃げてるだけの自分でいいのか分からなくなってきた
・何も決めないでいていい時期が終焉を迎えようとしている
(外部環境や自分の持っているリソース、なくなってしまうものなど)
具体的にはこんな感じかなー。
より自分に納得感のある決断をすべきなんだな、
とうすうす勘付いて、は、いる・・・はず・・・。
※そういう風に思ったことを忘れないために、
こうやって記しているわけなんだけどね笑。
っしゃ、今週もおわり!
週末も引き続き楽しみたい所存。