エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

自分の意思決定はいかにあるべきか(人間関係しかり、仕事しかり)

◆私の結婚願望を溶かしてくれた一言 - はあちゅう 公式ブログ 

http://lineblog.me/ha_chu/archives/55175710.html

 

これにも記載があるけれど、

「全てがしっくりいくタイミングで
その時その時のご縁を大事にして
選択していけば別にどれでもいいな」

ってことだよな、と。

 

最近一事象にこだわろうとするときの態度の前提として、
(もちろん、こだわるときはこだわるのだけど)
その事象自体は多くあるうちの一つであり、
私がそのものと対峙しているのは偶然の産物である
という感覚を覚えていたりします。
(その上で対峙しているのはある意味必然によるものなのだろうけど)

 

でも、そのくらい儚い(偶然性のある)ものだからこそ、
信じようと思ったこととか、信じるものは、徹底的に信じた上で、
何が自分にできるのか、考えたいなあ・・・と。

 

代替可能性があるんじゃないか、
唯一無二のものなんてもとより存在しないんじゃないか、
ここに存在する意味なんて何もないんじゃないか、
というむなしさを受け止めたうえで、
それでもそうでありたいと願い、抗って行動する、といういとなみが、
何かを大事にして生きていくことなんだろうなと思っています。

 

そうやって抗う、こだわることは、多分に醜さもはらんでいて。
それを客観的にとらえると、醜くて笑ってしまいそうになるけど。
それでも、そういうものも含めて自分だと受け止めて、
(あわよくば誰かに受け止めてもらえればとてもうれしい)
日々を味わいきれれば、それは幸せだなって思いました。

 

その前提は、「帰ってくる場所がある」という感覚というか、
「戦って戻ってくる場所がある」ということなんだろうなと思っていて、
そういうものを(自分の内外に)築きながら、
日々柔軟にいろんなものを感じ、傷つき、治癒して
醜さとも対峙して、美しいものに思いを馳せながら
自分の意思決定や行動には責任を持ち、
色んなものを受け止め、悲しんだりしながらも
その感情の動きとかに幸せを感じて、
なんていうか、生を全うできたら、素敵だな、と思っています。

 

追記

最近思うことがたくさんあって幸せだと思う。
それはもはやプラスの感情であるかマイナスの感情であるかは
もはや問題ではなくて。
今生きていて、そういうことを感じられることに
ありがたいな、と思いながら、生きてます。
平和ボケですかねw
人生への惚気ですかねw