エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

「人にそれぞれ出来ること出来ないことがあり、それが職業という形で生かせる」という風に思える世界があればとても幸せだろうなという妄想のおはなし。

それが、夢じゃないかもしれない、
と思ってしまったから記録する。

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わが同期に、メンサ全開の男子がいる。

決して器用、というわけではない。
人とのコミュニケーションが苦手で、
言葉を言葉面としてしか捉えられない。
なのでナチュラルに会話がかみ合わない。

でも、文章の整理や構造化、
やるべきことに実直に向かう力は
本当に秀でている。処理能力というか、
The 東大生というか・・・

 

彼はかつて、
同じ事業部でコンサルティングのお仕事をしていた。
私には、彼はどこか苦しんでいたように見えた。
自己肯定感が持てない、とも言っていた。

 

今は、ライティング能力や情報の構造化、
もろもろの能力を見込まれて、
弊社の記事や本の執筆をする仕事をしている。

私からすると、彼には笑顔が
(過去との比較だが)増えたような気がするし、
労働時間はもちろん短くはないかもしれないけど、
彼は彼のペースで生き生きと働いているように見える。

 

それがすごく幸せなことだなと思いつつ、
ちょっとうらやましかったりもするんだなあ、
とも思ったりする。

(自分が不幸だとかいう話はしていない)

 

まさにこの規模間の会社だからできることなのかもしれないし、
ここまで明確な「強み」「弱み」がないと
こういうことは起きないんだろうなとは思いつつ、
自分にもいつか「これだ!」と思えるモノとの
出会いとか、変化とか、起こるといいなと思っている。
(他人事というか、もはや祈りのレベル。笑)

自分をちゃんと認識して、
どんがらがっしゃんするにせよ、
自分のレベ上げを大人しく受け入れて努力するにせよ。
(物事に没入するのが苦手なキョロ充なので、
そんな感覚は得られないかもしれないが)

 

うーん、なんか最近すごく思うのは、
自分のしたことしか返ってこないから、
ちゃんと自分で考えなきゃなということ。

そういう視座に立つと、
何者にもなれる気もするし、
何者にもならなくていい気もするし、
何も手に入らない気もするし、
何でも「手に入った」と認識できそうではあるし、
というかそもそも何もしなくてもいいような気もしており、
なんというか、ゆるやかに死に向かっている感覚を覚える。

エンジンが緩やかに空回りしている感覚。
幸せが幸せでなくなることの恐怖とか。
考えなくていいことを憂いでみたりとか。

 

私は私のしたことでできているから、
「今」「ここで」生きることに一生懸命でないのかもしれない。

(「一生懸命」な状態があるのかは不明だし、
そういう状態をよしとするわけではないが)
「今」「ここで」生きることに感謝はしているけど、
知らない、できないことに安住したままだ。
(幸せぼけなのかもしれないね。)

 

そういう意味でいうと、
今私は生きることの「悲しみ」という蜜を
味わう権利はないような気はする。
(そのこと自体はとても「悲しい」ことだと思う)
(どうしようもない悲しみや痛み、みたいなものは、
まっとうに生きることでしか得られない)


でも、悲劇のヒロインでない、
行為したこと以上の意味はない、
という自己認知があるからこそ、
今ほんのりと感じたりすることには、
何らかの意味があるのかな、と思ったりする。

 

うーん、なんだろうなあ、
(まあもちろんそんなものないかもなんだけど、)
そういう認識を持っているからこそ、
逆にもし、何か自分のうかがい知らないものが
自分に備わっていたり、
自分が見つけられたりしたらいいのになあ、
とちょっと傲慢というか、思考放棄というか、
ふわふわしていることを考えたくなってしまう今日この頃。

 

何もできないのにね。
つい多くを望んでしまってだめだね。

 

自分にできることなんて限られてるのに。
それを増やそうなんて思ってないのに。

 

そして、前に進まないのは退化だ、とは言うけど、
もう進化だろうが退化だろうが、
ここにあるものを大事に思う以上のことは
ないような気もしている。
(行動に認識の主軸を置けなくなってきたのかもしれない)

無欲に生きていきたいけど、
そんななかでも欲望を持ってしまう矛盾を、
愛せるようになるといいなあ。

 

ふゆ。