エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

思考と言語化の関係性

ずっと、思考するって何なんだろう、と考えている。

 

それに対する端的な答えは、
「思考の方法は人によって違って、
それを認知し、探究することにこそ
思考が存在するのだ」
ということなんだろうなと思う。

 

●私の思考および言語化の特徴

・網羅的に考えるのが苦手
・整理して考えるのが苦手
・圧倒的な情報量をそのまま受け止めて、
整理しないでそのままうにゃっと吐き出す
行為を繰り返すうちに、自分の中で本当に
大事なものがどれかあたりをつける
・あくまで感覚的に、理解したような感覚になる
・がしかし言語化するのが苦手なので、
人に理解されることは少ない

・・・っていう書き方をしている時点で、
物事を整理するという発想がなさそう
というのはお察しいただけると思うのだけど。

 

●思考方法について

思考の方法は人それぞれなんだけど、
大きく2つに分類できるような気がしていて

①アウトプットを意識した思考をする人
(枠組みに当てはめて考える人、というか、
枠組みの方から選択し思考する人)
※整理、枠組み思考、論理的思考が得意

②餌を咀嚼する過程で思考する人
(ゴール思考じゃないのかもしれない)
(他人に説明可能であることを第一条件にしていないので、
理解されない可能性が一定高い)
※直感、納得感が大事。で、論理、というかは分からないが、
本人の中では一貫性はある。

というたぶん二種類があって、私は多分後者なんだろうなと思っています。

 

●①の思考の型というものの存在が私からどう見えるか

私は①の人へのコンプレックスが強いと思っています。

なので、自分の人生をかけて、
・①の思考を出来るようになるのか
・①の思考を②で凌駕することができるのか
ということを問うていたりします。

でもね、思ったんだけど、
私は①にはなれなくて、
②側からしか①側の思考を
捉えられないんだなあと。

でもでも、
①の人たちが持っているとされている
思考の型、みたいなものが、
この世に存在するんだと思ってたんです。

でもでもでも、
そんなものは本当は存在しなくて。
(それを容易にする枠組みは世の中に存在するし、
それを取り入れるのはいいのだけど、)
結局それを行為するのはほかでもない自分で、
自分がそれをどう運用するかという思考錯誤のなかにしか
「思考する」という行為はうまれないんじゃないかなと。

(わたしは枠組みは「使うべきもの」ではあるが
「支配されてはならぬもの」と捉えているのかもね)

 

だから私にできることは、
①の人たちの枠組みを感じたり理解することまでで、
決して①にはなれないんだなって思いました。
(ていうか、なりたくないし)

どうやって彼らの「賢い思考といういとなみ」をこえられるのか、
それを、コンサルティング事業部にいる2016年は、
いや、一生かけて、
考えていくんだろうなと思いました。

まだ道半ばですが、
ゆっくりじっくり考えていきたいなと。

自立しなくちゃという危機感で
つい枠組みに閉じそうになっているけど、
もうちょっと自由に、でも誠実に、
日々を生きなきゃ、と思っています。
(今は意思ではなく危機感なのが残念ではある・・・)

 

今日の午前中の反省文でした。