エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

【思考日記】ロールモデルは、要らない。 #去年の思考、延長戦

こんばんは。

あけましておめでとうございます、くろえです。
今年もどうぞご贔屓に。よろしくお願いします。

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昨日思考の掃除をしていたわけですが、
紅白の尊い人たち(星野源および岩沢厚治)に目が奪われ、
紅白のあまりの変わらなさに日本の斜陽を憂い、
Eテレのあまりのくだらなさに圧倒され若干ほっこりし・・・
とかやってるうちに、去年のうちに放出できなかったのを、
思い切って排出しておきます。

 

去年、自分の仕事について考えるなかでたどり着いた
にわかに非常に尊敬している知人の記事

courage4u.hatenablog.jp


こちらの記事を見て、思ったこと。

この記事に対して、そうだよなあと思ったので、
自分の立場を記載していくこととする。 

 

わたしにロールモデルは、いない。

現在所属している会社の部署には、女性が私を入れて5名しかいない。
(割合としては1~2割くらいなのかな・・・?)

そのうち自分よりも立場の上な同性は1名。
すごいなと思うけど、理系院卒、パーソナリティもケイパビリティも違いすぎて、
正直全然真似できないだろうし、やり方も全然わからん、って感じの遠い存在。

このように考えると、これまで所属したいかなるコミュニティのなかにも、
(少なくとも同性で)「こんな風になりたい!」と思った先人は
後にも先にもいなかったように思う。

どちらかというと、「社会で活躍しています!」「プロです!」
みたいなことを標榜する人に対する違和感が強いし、
まして自分の母親のように「専業主婦でヨガしてジムして資格とって
友達と楽しく生きてます♡」みたいな人もロールモデルではないと認識している。

 

わたしにロールモデルは、いらない。

私は正直、これまで「真似したい!」「こんな風になりたい!」
という人に会ったことはなかったように思う。

もちろん、尊敬する人はいる。
強くしなやかに生きている親戚、職場にいる先輩、好きな友人など、
自分よりもはるかに人間ができていると思うし、
あの人たちのような大きな器になりたいと憧れることはある。

ただ、その生き方をなぞらえたいかと言われれば答えは「否」だ。
私にないからこそ憧れるわけで、正直自分の延長線上に彼らの存在があるとは思えない。

 

それとは別に、「共感」タイプの他者は存在する。
例えば、会ったことはないが、下田美咲様とまきむう様のような
リベラルで結果を出していて、自分の弱さを出しながらも、自分の強さを持っている芯の強い女性には、
思想の面で共感する部分も多いし、その生き方やライフスタイルには確かに心底憧れる。

ただ、それもまた、「彼女たちのようになりたい」ということはない。
ケイパビリティも顔面偏差値も出自も全く違うからだ。

ここまで見ていくと、私は共感することはあれど、
ロールモデルを持つという思考自体をそこまで持ちあわせていないように思う。

 

上記のように、私自体がロールモデルになるイメージがないのは、

  • 自分の尊敬する人は自分に持っていないものを持っていること
  • 自分の共感する人は、思想が近くても個体として持っているものが大きく異なること(私のような違和感・課題意識ドリブンで生きている人間は特にそうなのかもしれないと思う)

の2点が理由であるといえる。

 

わたしはロールモデルには、ならない。

そういうわけで、誰かの生き方を踏襲して自分を高みに昇らせていくような
生き方を志向していない私は、当然、「誰かのロールモデルになろう」とは思わないし、
なるために何かをするということも多分しないと思う。

※特にこの(コンサルタントなどのプロフェッショナルと言われる仕事)界隈には、
「自分が女性の生き方のロールモデルになるんや!」みたいなことを言っている人がいるし、
自分がそういういわゆるプロフェッショナル的な振る舞いを求められる仕事をしていると、
そういう期待をされることもあるのだが。

 

それは、自分が見本になれるような項目はないと思っているから、
とかいうネガティブな理由ではなく、そういう考え方がしっくりこないから、
というだけだ(もちろん、そういうのもあるかもしれないが)。

 

ブログからの示唆 

もしかしたら上記の『重要な他者』という傾向がとても強い人は『ロールモデル』というものをそもそも意識せずに働くことができるのではないでしょうか。

そして同時に、『重要な他者』という傾向がとても弱い人はそもそも『ロールモデル』のような他者がいても影響を受けにくいので『ロールモデル』がいてもいなくても同じなのではないでしょうか。 

これは完全に仮説ですが、もしそうだとしたら、私はこう考えます。

『重要な他者』の傾向がとても強い人ととても弱い人向けには「そんな我が道を創ってあげられる会社の風土」が必要なのかもしれませんし、

どちらにも属さない人向けには「信頼してくれてかつ尊敬できる存在が常にそばにいてあげられる環境」が必要なのかもしれません。

ロールモデル有無適性論』とでも言うのでしょうか。

 

これに近いのかなと。

私はかけがえのない大事な人に貢献できればよいわけで、
そのためにロールモデルは必要ない、ということなんだなという感じ。

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社会の中で「女性の社会進出」・「女性の活用」などが取り沙汰されていますが、
まあ、そんな別にたいそうなことじゃなく、意識を高く持たないといけない、
みたいな同調圧力はいやだなーと思っているし、
そんなんなくても別にこの界隈で生きていける気がしているし、
そういう社会であって欲しいなー、なんて思ったりする。

 

ロールモデルを持て」「ロールモデルになれ」と言われて
少し生きづらい思いをしている人がもしいたら、そういうのもあるよと。