【思考日記】購買行動とか、過食とか #今年の思考、今年のうちに
こんばんは。2017年も終わりますね、くろえです。
ここで、突然ですが2017年に書いていたブログの下書きを
一気に公開することとします。
(今年の叫びは今年のうちに、ということで・・・。)
これは12月の中盤に書いたやつ。
最近感じた違和感
私の周りの方々はご存知かも知れないが、
私は自分の友人が好きだし、それらと会って話をすることもとても好きだ。
だが最近、(特に出自が共通している古い)友人と会うときに
一抹の違和感を覚える機会が増えてきた。
もちろん、その後歩んでいる道がそれぞれであるから、
そういう感覚を覚えるのは当然なのかもしれないが・・・。
特にお金の使い方(金銭に関する価値観のズレ)についてである。
それだけの話なら、見なかったことにしてしまえばいい話なのであるが、
お金や購買行動に関する価値観は、自分の人生を考える上で
不可避な気がするので、書き連ねてみることにする。
何に違和感があったのか
旧友と会った。もちろん旧知の仲なので、楽しい時間にはなるのだが、
ちょこちょこ価値観・・・というか、お金の使い方の違いが気になる。
例えばボーナスの使い方。貯金!と言っていた友人もいたが、
バッグや高価なアクセサリー、靴などに思い切ってお金をかけるそうだ。
翻って考えたときに、自分はどうだろうか。
私のお金の使い方はどうなっているのか
多分お金は使っていないわけではないが、以下のような特徴があるようだ。
- 何を買うにしても、高いものは買わない。
値段は割と比較して安く変える方法を探す。同じ体験なら安いほうがいいし、逆に安くいい体験ができることに喜びを感じる。5年前くらいのカカクコムユーザのユーザ行動みたい。
- 5,000円以内のものなら割と躊躇なく買う。
洋服にせよ、小物にせよ、セミナーなどにせよ。 - 消え物を買う。
お菓子とかご飯とか。 - 自分の身体のメンテナンスのためには分別ない。(高くない範囲で)
サプリや薬、整体、パーソナルジム、エステ、スポーツなどはやる。
中長期的な、というよりは短期的なニーズを満たしている感覚。 - シリーズでコンプリすることに燃える。
最近で言うと、ガルボを全味買う、糸井重里の本をシリーズ買い、など。
上記を見てみると、どうやら手元に残す、とか、ひとつのものを大事に使う、
というところにフォーカスが当たっていないようだ。
働いている心理は何か
以下のような心理が働いていると考えられる。
- お金を使うことに罪悪感がある。
お金を得るのは大変だ、という価値観のもと育てられてきた。(その割に家系は元財閥の末裔で割と裕福だったので、ねじれの構造になっているのだが)だから、お金を使うという行為自体に罪悪感がある。
- お金を使うことに特別感を求める。
少なからず、お金を払うことは期待値を設定することであり、その見返りとして適切だと考える体験が得られることを求める。特に高額な買い物は、特別に期待値が高まってしまうのだが、そこにうまく意味づけができないので、その特別カンを避けようとする。
- 残るものに対する恐怖感。消えもののほうが気が楽。
残るものには魂が残る。たとえば元カレがくれたプレゼントや、片思いしていた男性がくれた時計など。ものは忘れていたことを思い出すトリガーだ。幸せな思い出だけじゃなくて、自分の人生のふがいなさを認識させられる。ものが持っている歴史そのものに対して怖さを感じているのかもしれない。
- 意思決定に慣れていない。
今までの人生において、大きな意思決定をする経験に乏しかったという自覚がある。単純に、何かを決めるということに慣れていない。いまの自分が受け取りきれる幸せ(サイズ感として)を享受しようとしていて、中長期的な幸福感を許容できていないからなのかもしれないとも思う。
- ストレスを買うくらいなら、買わないほうがマシと思う。
上記のように、購買行動に対して精神をすり減らすタイプなので、ショッピングなどに行くと非常に疲れる。そうすると、買わない自分を想像して納得させる傾向がある。
マインドシェアが高くなり、ストレス源になってしまう。そういうわけで、投資などもあまり好まない。元本保証の定期預金くらいで精いっぱい。
困ることはあるのか
私は、この傾向はあまり良いとは思えない。買い物というのは一種の意思決定行動である、大きな意思決定をできない、ということはもちろん生活だけではなく、人生全般に置きな影響をもらたすと考えられる。
また、私は「何かを長く大事にする」という思考回路があまりないんじゃないかと怖くなる。そのことは、自分のこと、あるいは自分の周りにある大事なものを大事にできないかもしれないという可能性を秘めているような気がして、自分に対して不安な気持ちを持っているのも事実だ。
同じことが「過食嘔吐」のロジックにも言える気がする
ふと、過食嘔吐のロジックに通じるものがあるのではないかと思った。
過食嘔吐は、上記の心理の複合体として表出する現象だとも考えられる。
- 目の前にある衝動からは逃れられない
辛いことから逃げたい、美味しいもので身体を満たしたい、周りの期待に応えたい(「おいしくたくさんご飯を食べる健康的な私」というキャラを演じると生じる感情) - ふと明日のことを考えて、不安になる
身体が醜くなる、人から嫌悪の目で見られるかもしれない、というリスクを負うことに(食べてから)気づく。そうなると潜在的な不安は止まらない。 - すべての嫌なことをなかったことにするために、吐く
いずれも短期的な思索とそれに対する反応の結果、起こっていることだ。
悪いことなの?
これが必ずしもいけないことだとは思っていない。
自分から不要なものを摂取したとして、それを水際で防ぐのが嘔吐なんだとしたら、
断捨離とかに近い概念のようにも見える。
どちらも、自分に必要ないものを自分から手放す行為。
問題があるとしたら、「後先を考えずに衝動や外部からの要求に過度に反応し、突き動かされてしまう」方だ。
(ただ、その頻度を少なくしていかないと、何らかのダメージは必ずある。
過食嘔吐の副作用?として、逆流性食道炎などが挙げられる。胃や食道の痛みはくせになるので、普通によくない。吐けばいいやと体の中にあらゆるものを吸収するのはおすすめしません)
無理をしないこと=健全性を大事にすることが大事。
私のようなパーソナリティの人間は、
つい外部の期待や言われたことを優先して、
後々よくわからんことになる、という経験があると思う。
そこにつける処方箋は「無理をしない」ことなんだけど、
それは限りなく難しいことなので、自分でなんとかしようとせず、
そういう性質をきちんとそれを受け止めてくれる仲間を作ることしかない、と思う。
購買行動に戻ると・・・
最後に無理やり購買行動に戻って考えると、
最初は正直ちゃんとしなきゃ、とか、高いもの買わなきゃなのかな、とか、思ったけど、
購買だって無理して周りに合わせる必要はないんだな、と腑に落ちた。
とはいえ、大事にしたい人に関わるものについては
自覚的に、お金をちゃんと使えるようになりたいなと思った。
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あんま明るい話ではないけど、なんとなく、あの経験や感じた疎外感というのは、
私の中の大事な要素でもある気がしたから、残しておこうと思う。
じょじょに、自己愛が少ないのを解決していきたい、という決意と共に。