エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

どう森ブームに、思うこと。(その2)~ 流動性の高い社会をしあわせに生きる方法

こんばんは。
再び現れました、くろえです。


さて、先程の記事では、SNS上でのシェアによって
どう森が流行していることを実感した、
というお話をしました。

(→以前の記事はこちら:どう森ブームに、思うこと。(その1)~ SNSの影響の大きさを実感した話 - コスプレでコンサルやってますけど

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今回は、この続きのお話をしようと思います。

 

情報過多の世の中で、何を追い、何を知るのが幸せなのか

 

私たちはスマホを手にしたことによって、
圧倒的に情報過多な社会を生きていくことになった。

グローバル化・デジタル化のなかで匿名性が高まり、
個々の人格が次々と代替可能なものに見えるような世の中で、
新しいムーブメントの波にのることでなんとか息をしている。

上記の例もわかりやすく、SNSで拡散した情報が
消費者の行動に伝播していく例として捉えることが出来るだろう。

 

そんな時代のなかで、私たちは時代の波を捉えていることに安心し、
またどこかで、周囲からの影響を受けることに辟易としている。

自我なんて本来的には存在していない、とも思える社会のなかで、
自我を追求しろなんて言われてもよくわからないし、
とはいえ周りに合わせて踊り続けるのは難しすぎる。

 

自分とよく似た属性の個体を集めたところで泳ぐのは比較的容易だが、
だからといって外部環境を見ずして狭い世界で踊り続けていると、
そこにあるのは疲弊と空虚と、茹でガエルになった自分自身だ。

 

じゃあ、どうすれば、「自分」を守りつつ、疲弊せずに生きられるのだろうか。

 

分かって踊る、そして都度達観するという姿勢

 

ここで大事なのは、「主観的満足度を高めること」ただ1つだ。

だって、社会は高めるゲージの尺度すら与えてくれないから。
いい会社だって変わるし、貨幣の価値すら国家に振り回されるし。

とすると、数少なくわかっているのは、
「どうせ踊るなら真剣に!」ということだけだ。
(やりきった感、充実感などの主観的満足が大事、というところから)

 

ただ、流れの早い現代社会においては、
「何を踊るのか?」ということすら問わざるを得なくなる。

とすると、

  • 「踊るものを決める」
  • 「短く(若干狂気的に)踊る」
  • 「短いスパンで(その結果を)振り返る」
  • 「次に踊るものを探す」

というスパイラルをこまめに回すことこそが、
茹でガエル的状況を避けながら楽しく生きるコツなのではなかろうか。

(これ、書いてみてビッチ的だなと思ってドン引きしたけど、
こういうことをしないといけない社会なんだろうな・・・とも思う)
(因みに、家族という血縁に伴う仲間の概念については、
この限りでない、という内容の記事はいつか書く・・・いつか)

 

ずっと何かをしなくてはならないという強迫観念の時代の終焉を、自分にとって良いものとするために

 

社会の変化が早くなったことに伴って、
ますます「ひとつのもの、こと、ひと」に拘泥する必然性がなくなってきている。

そのことは事実ではありつつ、どうせ流されていくのであれば
しなやかに、自分の意に反しない方法で流されていきたい。

そのためにはどうすればいいのか。

  • 何を頼りに決めていくのか、という情報ソースの精度を高める
  • 自分自身のなかの「譲れないこと」の精度を高める

この2つは、主観的満足度を高めて生きるために
ほんとうに必要なことだと思う。

つまるところ、

  • 信頼出来るものをちゃんと自分の近く、もしくは自分の中に持ちましょうね
  • 社会に阿るより、自分を参照したほうが、たぶんミスっても後悔ないよ! 

ということなんだけど。

逆に言えば、それさえ心に決めてれば、あとはどうにでもなるかなと思ったりする。

 

まとまりないけど、もっと具体的なことについては
年末の振り返り記事あたりで書こうと思います。

 

以上、言ってることに驚くほど説得力がないくらい腰が重く、
変化を好まず茹でガエル化していることに定評のあるくろえでした!