エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

女の子をしながら、生きていく方法。

 

皆さんこんにちは。

仕事が詰んでいるのは相変わらずなのですが、
感情が高ぶっているので、いったん記事を書こうと思います。

 

仕事は自分の本性を表しているのか、という疑問と危機感

 

エモいことが好きだ。

きらきらした風景、人物、食べ物、文章、
かわいい子、かわいい小物、シンプルな余白への想像、
ぎゅっと抱きしめる瞬間、他人からの微かな好意への想像、
金曜日の夜の駅の哀愁、日曜夕方の物憂げな町並みが好き。

 

関連画像

 

いまの私は、ビジネスニーズに応じて、これ以上なく左脳的な労働をしている。
(「儲かる」に寄りすぎているわけではないが、左脳的な頭は使う)
多分きっと、自分にない部分を補おうとして、こういうことをしている。

 

それでも時々思ってしまうのは、
自分の本性を逸脱したところで生き続けているがゆえに
そういうエモいことへの感度が下がっているのではないか、ということ。

 

エモいことをよりエモく感じたり表現したりするためには、
そうじゃない世界も知って、その作法を身に着けておこう、と思っていたのに、
今では次第にその主従が逆転しているように感じる。

 

昔から、仕事からの現実逃避の際にたびたび考えてきたことだが、
ニコニコ、キラキラしながら人を愛おしむことでお金が貰えれば、
どんなに良いだろうか・・・と想像することがある。
(かつてのパズル教室とかは、それに該当するような気もする)

 

昨晩見た光景に、今ない自分を見た。

 

昨晩は箱根に弾丸旅行をしていたのだが、その帰り道、
親友が表参道で開いているライブを聞きに行った。

「goodBLUE」
2017/8/27 Sun.
@表参道NOSE ART GARAGE
18:30 OPEN 19:00 START

 

私の親友の歌う姿は、なにより私の心を晴れやかに、明るくするものだったが、
共演している演者さん(前から聞いて、好き!って思っていたわけだが)の曲を聞き、
色々と考えるきっかけを得た。

 

HOME - yuyukonbu0206 ページ!

YUYUKOさん、という方。

 

「きらきらしている」「透き通っている」という言葉が似合う、とても素敵な女性。
曲調は少し物憂げで、でも明るくて、
声のトーンは無邪気で天真爛漫で透き通っていて丁寧でそれでいて乱暴でもある。
aikoさんを全体的に可愛くしたようなイメージ・・・?)

 

私はこのアーティストに、女性に、心射抜かれてしまった。
こんなにいやらしくなく可愛らしい人がいるのか、と。

歌っているYUYUKOさんはとてもかわいかったし、キラキラしていたし、
息遣いまで飲み込んでしまいたいくらいに強く惹かれている自分がいた。

それと同時に、自分の中の「女の子」を探してしまった。
最近わたしはどこかで「女の子」をしているだろうか。

 

「女の子をする」とは何か

 

「女の子をする」とは何か。

  • 自分の中に内在的に存在する「可愛い」ものへの欲求

(例:「可愛い服を着たい」、「可愛いものに囲まれていたい」、「気の向くままに可愛いもの、きれいなもの、好きなものを探したい」、)

  • また、それらを通じた自分自身への「可愛さ」への欲求

(例:「可愛くありたい」、「キラキラしていたい」、「素敵なものを追求する自分でありたい」)
であると考える。

 

「女の子をできる」のは、ごく限られた場所。

 

上記のような欲望は、女子たるもの、女性のなかでも持っている人は少なくないと思う。


しかし、それを発露できる機会の有無については、また別の話であると考える。

「女の子をする」という行為は、「それを眼差す人の存在」によって初めて成立する
と言っても過言ではないのではなかろうか。

 

結局はその行為を
「見守ってほしい」、「天真爛漫さを受け入れてほしい」、「いざなわれてほしい」
という欲求が前提としてあり、それが満たされて初めて、
安心して「女の子をできる」のではないか。

 

「女の子である」ということは、自らが自らをラベリングする行為だけではなく、
他者から「女の子である」という眼差しによって成立するものだから。

 

女の子であることは、クローズドな行為なのか

 

ここで、女の子らしさを表出する方法を考えると、
まず最初に、大勢に見せるものではなく、安心感を前提とした
一部の人間への女の子らしさの吐露が想起される。

 

どちらかといえば、大事な大事な人にだけ見せるもの。
安心感のなかで、女子らしい甘ったるさを表出していいのは、
ごくごく限られた文脈だろう。
(だからこそ、「女の子でいさせてくれる」人がいる女子は、強いと思う。)

 

「女の子をして、生きていく」方法

 

でも、それだけではなく、外向きにもキラキラしている人もいる。

先に述べたYUYUKOさんは、まさにそれをぎゅっと濃縮還元したような人だった。
きらきらした笑顔が素敵で、まぶしかった。

大勢に向けて、どこか無防備に、どうしようもなく魅力的に自己を表現して、
それがどうしようもなく愛おしい。

 

女性が歌ったり踊ったり、何かを表現しているときに見える姿は可愛く美しい。
特にこのYUYUKOさんは、女の子だからこそ出来る「天真爛漫で愛おしい」を地で行っている人だった。

 

つまり、「女の子をする」ことは基本的には内向きな行為であるが、
生きることを構成する大事な要素としてそれを据えている人もいて、
そうすると外向きに自分の魅力を発信していたりして、
(=女の子なら「女の子をすること」)
そういう人はどうしようもなく魅力的に見える、ということなのだろう。

タイトルにもした「女の子をして、生きていく」、ということだが
自分の人生の構成要素のなかで、「女の子である」ことを大きくしていく、
それこそが「女の子をして、生きていく」ということなのではないだろうか。

 

私にはそれができるだろうか?

 

残念な話、私はそれ(=「広く、女の子であること」)向きではないような気もする。

リズム感覚はどこかおかしい、そのくせ聴覚過敏で音には神経質、
歌が特別上手なわけでもない(絶対音感はあるので音痴ではないが)。

 

そういうのでお金を稼ぐのは難しいだろうけど、
しいて言えば、結局私にあるのは文章なんだろうなと思った。

 

 「読書 女性 フリー素材 写真」の画像検索結果

 

もちろん、身体表現も豊かであればいいなって思うし、
歌だってちょっとくらいうまく歌えるようになりたいし、
バレエもゆくゆくは踊る方に復帰できればよいし、
テニスだって美しくする方法はあると信じているけど、

やっぱり私が「いちばん好き」で「いつでも、どこでも、きっとずっと出来」て、
一番自分とつながっているのは、やっぱり文章を書くことだなと思う。

 

私はコンサルだし、整理・構造化もするし、タスク厨だけど、
でも、やっぱり本音で言えばどこかで「女の子」でありたい。

大量の仕事や婚活沼に疲れきって愚痴を垂れるOLではなく、
勿論最終的な責任は取るぞという強さを持っていながらも、
それでも、どこか甘くて、甘やかされてて、気まぐれで、
天真爛漫で、明るくて、きらきらしている人でありたい。

それを男の前でできればそれはそれで幸せだけど、
そうでなくてもどこかでキラキラする場所があってほしい。 

お金を稼ぐ、というのは無理にせよ、
私には文章がある。(それしか出来ない、というのが近いわけだが・・・)
だからそれを頑張りたい。

そういうことをやって悶々としたりしながら、
ずっと生きていたい。

そう思った、週末でした。

 

参考URL

 

学生時代の親友

twitter.com


ひとめぼれした人

twitter.com

どちらもとても素敵な女性アーティストさんなので、
ライブとか音源とか是非聞きに行ってみてください。

 

それではあでぃおす。すっきりしたので、仕事します。