エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

【恋愛小噺その4】好きのカタチ。 ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは。

最近エモい文章ばっかり書きたがる愛の権化(?)くろえです。

(エモいわけではなく、
自分から、今まで持っていたはずの「好き」の気持ちが
なくなっちゃうのが怖いだけかもしれない。
・・・というのはただの照れ隠しなのかもしれないですね、非常にわかりやすい)

 

さて、今回は「好き」という感情について
少し考えてみたので、書いてみます。

 

「恋愛 写真 フリー素材」の画像検索結果

 

好きの「カタチ」は人それぞれ。

 

好きの対象にもよるし、
好きの発信者にもよる。
好きという感情を持つ人の数だけ、
あるいはその対象物の数だけ、
好きの概念は形を変えうると思う。

 

世の中は「好き/嫌い」の二項対立・・・ではない。

 

好きと嫌いはわかりやすい二項対立だけど、
広く捉えると、世界を構成しているのは
「好き」と「嫌い」の二項対立ではなく、
「好き/嫌い(いわゆる関心。認識可能)」と「無関心(認識不可能)」
の二項対立のほうであることは明白だ。

 

「好き/嫌い」という認識を持つことはどういうことなのか?

 

そして「関心をもつこと」そのものは、
対人、モノ、場所と広く捉えられ、
自分を取り巻くおよそ全ての関係する事物が対象となりえる。

そのなかでも特に自分にとって重要なもの、
自己との向き合いを要するもの、が遡上にあがってくるのではないか。

 

こと人間に関して、好き嫌いの感情が湧くのは、ある種の必然。

 

上記のように、「自己との向き合いを要するもの」であり、
「一定交わる必然性がある」ものがその対象になりえるのだとすれば、
こと人間に対して好き・嫌いの感情を持つのはある種当然に見える。

 

「好き」はコントロール可能なのだろうか?

 

さて、そうなってくると次はその中身だ。

人間関係について考えるとき、「好き・嫌い」という感情は、
場の目的、個人の目的に合わせてコントロール可能なようにも見える。
本当だろうか。

言い換えれば、人との交わりには「思い込み」だけでOKなのか?
好きは思い込みで、意図的にコントロールできるのだろうか?

 

いまの自分が「嫌いなもの」については、きっと許容できない。

 

私は、そういうことではないようにも思う。
(最近特に思っている。)

認識下になかったものを認識し、それを好きになることはあり得る気もするが、

(自分との向き合いをふまえて)人として許容できない部分を持つ人を、
好きになることは難しい。そこは人工的に操作できるものではない。
どうしても首肯できない人は存在する。

そしてそれは自分の自分に対する認識の柔らかくなさを投影しているとも言える。

(これまで好きだった対象をどうしても首肯できなくなることもある。
これは、自分の変化に対応した結果の反応なのかもしれない。)

 

では、「許容できない人間」以外はどうなるのか?

 

許容できない=好きになれない人間が一定数存在するとして笑、
そうでない場合には、ある種「好きになろう」として(あるいはせず)、
好きになっている側面はあるのかもしれない。

であれば、交わる人は「みんな好き」ということになるわけであり、
実際のところ、そんな気もする。

 

好きであることと、関係性を築くことは少し違う。

 

首肯できない他人でないのであれば
濃淡はあれ好きという感情を持てるとわかってきたので、
次に、好きという感情がいかに人間関係に反映されるのかについて考えたい。

 

まず、前提として、異なる二者が存在する場合、
それぞれに対して抱く「好き」のかたちと、
相手が自分に対して抱く感情が掛け合わさったところに、
最適な交わり(冒していい領域と精神的な公開範囲)が決まる。

例えば「目的×関係性」といったように。

 

そしてそれは双方に主観的合理性を持っている(はず)。

 

上記の例として、ごく一般的な認識としての
「仕事上の上司とは寝ないよね」みたいなものは、
双方の双方に対する認識の結果だ。

仕事をする上で大事な存在である上司、という認識と、
同じく仕事の上で必要な部下、という認識がクロスした先には
よりよい仕事をする、ということしかない。はず。

 

まあ、ごくまれに、そういう関係のなかで一線を越える人も存在するが、
それだって双方の主観的合理性はあるのだろう。

感情が合致したところにそれがあったからであり、
世間の一般常識とは何ら関係なく
主体的には合理的な結論だと考えられる。

(例えば双方の制止する感情が弱かった、もしくは「好き」が強すぎたなど)

※筆者のコメントは差し控えますがあえて言えば好きにすればって感じ。

 

好きな人と心地よい関係を持てているだろうか?と自問し続けること。

 

上記のようなトピックは極端な話になってしまうが、
至極アタリマエのことを言っているようにも思う。

双方が主体的合理性を担保しながら、
好きな人と何らかの交わりを持てるように、
そしてそれが適切な距離感や領域、公開範囲であるように
そしてそれが相手にとっても心地よい関係性であるように、
常に自問し、自戒し続ける必要があり、
それを意識することによって、好きな人と心地よい人間関係が
構築できるようになるのではないかと考えている。

 

まあ要するに、お互い好きな方が幸せじゃんね!って話ですね。
(随分乱暴なシメ。)

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今週も一週間お疲れ様でした!

調査終わって駄文書きたい気持ちが高じてしまった成れの果てでした。
あでぃおす。