エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

目的ない記事投稿をしてみんとて、するなり(主に人間関係について)

最近、文章化やコミュニケーションに関する思考をする機会が多いので、とりあえずそれらを一切無視して、昨日くらいなのかな、仕事しながら書いてた日記(付箋に書いてあった)をここにコピペで置いていく。

 

<免責文言>

テーマもなければ、投稿に目的もない。(ターゲットは潜在的には存在している可能性はあるが・・・)強いて言えば私理解か。かまってちゃんか。

一旦、何の制約もなく、ただ文字を衝動的につむぎ、それを世に出す、という無意味ないとなみをしてみたい、と思ったからだ。

というわけで、さんざん免責文言を並べた上で、置き逃げ。

 

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【家族について】

・私は家族(特に父かな)でいると、違う視点からの考察により思考に刺激がもたらされる&思考が進捗するから好きなんだなあ

・ママの愚痴は、自分の置かれている境遇と恐ろしいほど似ていて、すごく嫌だと思ったけど、ただの同族嫌悪だなと思って本当に嫌だ

 

【男女関係について】

・相手が何かいけない(もしくは不快な)ことをしたときに、それを受けて別れるのか、それとも相手を許して相手が変わっていくのを待つのか
→基本的には、相手の変化する可能性を信じて付き合うというものなんだろうな
→付き合う根拠はほぼ衝動・感覚。契約に基づくものではないのが人間関係の特異性

 

【コミュニケーション不全】

・かまってちゃんだからなのか、中途半端に目的思考だからなのか、特定の読み手を想定してアウトプットしてもしかるべきリアクションがないのは、こうなんというか死体に向かって話しかけているような気分になり、自分への不信だけではなく対象者への不信につながるんだなあ

・アウトプットしないほうがマシということなのか。よく芝居などで、相手からの返事がなくても相手の無事を祈って手紙を書き続ける戦時中の妻みたいなの出てくるけど、基本的にインタラクティブなコミュニケーションがないのであればアウトプットする意味が無いしなんていうかそんなに人間できてないしそこまでして特定の人間に固執して悲しくなる必要はないし自分の醜さに辟易とするのは気持ちいいことではあるけど実際相手からすると不条理である可能性もあるしもうなんていうかとここまで書いてみて横文字の多さに草

 

【私の持つ欲求とコミュニケーションの関係性】

・私個人が持っている「人の痛みをわからないながらも理解しようとし続けたい」という根源的な欲求をもとに行為する先に何らかのメリットがないのであれば、その人間関係は私にとっては破綻しているといっても過言ではない。「理解に基づき、その痛みをよりよいものにしたい」という欲求がワークしない(相手にとってメリットとならない)のであれば、関わる意味も薄いのかもしれない。

 

【異なる価値観】

・自分と異なる他者に出会った時、面白い!と言ってその人を理解しようとし、その人の見方で世界を見ようとするのか、それとも、自分とあう/合わないという尺度で物事を見ようとしているのかという話なのではないか

・私は前者でありたい。前者の人に刺激され続けたいし、学び続けることを妨げられたくない。人との関わりの一つ一つに、勝手に思いを馳せて、勝手にきゅっとしたい

・人と分かり合えない現実を分かりながらも、どこまでも肉薄していきたいという醜い願望を認識しながら。理解できることがないという敬意を持ちながら。そして、そんな感覚を共有できるといいんだろうなー

・そろそろ色んなコトを真面目に考えないと。私はどんな世界を生きていたいだろうか
・無言の信頼なんてものは「存在すると思うもの」ではなく、「存在するもの」であるはずで。言語化すべきでも、望むべきもなく、あるかないかだけ。議論や欲求すること自体が野暮なのかもしれない

 

【人間関係は「役割」なのか】

・そもそも人間関係に「役割」をあてがうというものが、私の認識の中では少し違うような気がしている。

・それこそユーザビリティは「特定の利用状況において、特定のユーザによって、ある製品が、指定された目標を達成するために用いられる際の、有効さ、効率、ユーザの満足度の度合い」のことを指すけど、これは社会を構成するものを思考するのには役立つ概念だなとは思いつつも、人間関係――こと、恋愛など、包括的に人生を支えるもの――については、必ずしも当てはまらないのではないか(それはほぼ欲求や衝動、感情、感性といったものが起点になっていると考えているため)と最近思う。

・役割の枠組みが先に立つ人間関係は、もはや「恋愛関係」ではないし、私の定義するところでは人間関係ですらないのではないか(だからといったらいいわけになるが、私の人間関係の幅は極端に狭いという認識がある)

 

【「仕事」や相手、外部環境のせいにすること】

 ・(ここでいう「仕事」というのは概念としてであり中身としてではないが)「仕事」に逃避できたり、「仕事」で言い訳できたり、相手のせいに出来たりする環境は幸せだよね。自分も今までずっとそうやってきたし、今の部下とかを見てても思う

・とはいえ自分も思考しないところなんていくらでもある。例えばリラックマの商品があると刺激反応的に全部買う、とかは無思考ちゃ無思考だよなと思う。それは好きゆえなのかアイコンとしてなのかもはやその境界はわからない・・・そういうものなのかな(すべての行動を意図的に行っていたら時間がいくらあっても足りないというのはもちろんで、だからこそ大事なことは大事にしたいし結果的に時間を使っているという状態になるということ)

・仕事くらい逃避させてくれる場でもいいのかもしれないけど、わたしは、人間関係に関しては、逃げないで自責でやらねばならぬことを常に認識し、慢心しないでいたい

・相手のあることなので必ずしも自分の信念通りに行動するのが正しいわけではないが、そうならないのであればどちらが正されるべきなのかに関しては意思を持ちたい

 

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こうなんというか全体的に野暮感あるけど、日々割と真剣に生きてます。