「(特にコミュニケーションにおける)言葉の前提は人それぞれ異なる」ということを認識する必要がある、と思った話。
こんにちは。
休日だけど仕事しなきゃで、
でも全然仕事したくないので、ブログ書いてます。
最近気づいたことで大きかったものをここに。
■ことばの前提について
ひとが何かを言葉にするとき、
念頭に置いている、というか、
前提にしていることって結構違うなと。
そしてその前提への理解がないことが
分かり合いの困難性を生んでいるのではないかという。
で、それは逆もしかりで、
お互いの言葉の持っている前提を知ってるかどうかが、
お互いを理解する上で本当は必要なんだろうな、と。
なんていうんだろう、
言葉の賞味期限とでも言いますか。
基本線として、言葉が何らかの真実に肉薄しようとしている
というベクトルは間違ってないかな、と思うんだけど、
もってる時間の感覚が大きく違っていて、以下の2つかなと。
■2種類の言葉
①「今、ここ」にいる自分をリアルに表す言葉
②出来るだけ普遍(不変)な事実を記述する言葉
この2つかなと。以下にちょっと詳細を書いてみる。
①「今、ここ」にいる自分が思っていることをリアルに表す
(「僭越ながら」のすみれちゃんとか「三宅のはんなり妄想記」の香帆ちゃんとか)
参照:
二十歳を過ぎたら、自分が自分を教育するんだ。 《三宅のはんなり京だより》 - 天狼院書店
②出来るだけ不変な事実を記述する
(堅いものだと教科書、法律などの公的文書がそれにあたるかなあ。)
(会社のミーティング資料とかそんな感じ)
(あとネット記事もそうだね。事実を記述しているのは特にそうかな。)
(論理的に意見を構築しているものに関しても、こちら側のイメージ。)
一言でいうなれば、「感性的か理性的か」とも言えるかもしれないね。
■起こりうる不和
んで、こと個人的なコミュニケーションのなかで
この2つが交わると、認識の齟齬や不和が生まれるのでは、と。
特に「何を大事にしているのか」の違いに起因するもの。
①は「今、ここにある」感覚への肉薄を追求していて
②は「絶対的に正しくて」、「それが揺るがない」という事実性を追求している
・・・のかもなあ、と。
であるがゆえに、例えば恋人同士であれば、
①側の人間に起こるであろう不満:
「なんでいつも同じことしか言わないの?いつまでも同じわけないじゃん。」
「わたしの「いま」を見てよ。」
「わたしに興味なくなったんだね?」
②側の人間に起こるであろう不満:
「あのときああいってたじゃん。何で違う反応が返ってくるんだ・・・」
「その話題は一度話したよね?あれじゃダメなの?」
「理解できない。」
とかいうことになるんじゃないかなーと。
これだとすごい男女を念頭に置いた感じだけど、
世に遍く起こる人間の不和、って、
使っている言葉(もしくは会話に対する認識?)
に対する前提の違いによって
起こっているような気もするな、と思った次第。
■じゃあどうすればいいのか
どうするといいんだろう。
まだあまりわかっていないけど、
よりよいコミュニケーションをしようと思うのであれば、
- お互いに違う前提を持ってコミュニケーションしていることを知る
(そしてそれが優劣の差ではないと認める) - その違いが何かに対して関心を持つ
- 相手にとっても、自分にとっても、心地よい場所を探し続ける
(きっと時間が経てばそれを意図的にすることは減っていくのだろうけど)
とかが大事なんじゃないかな、と。
(恋人でも、職場でも、友達でも、これは割と全部一緒なのでは?)
1.が超難しいんだろうなって思うわけだけど。
(自分が差異に対する受容度がもともと低いのですごく思う)
ふう。そろそろ仕事するかー。
あでぃおす。
追記
仕事終わりにファミマに寄って、
背徳感と共にサンドイッチを選ぶのが至福。
(だから太るのでは)
追記2
やっぱりきれいな文章を書く人って存在していて、
雑誌とかを読んでいてもうっとりすることがある。
文章が綺麗になるといいなあと思うし、
そのために時間や労力を使えるようになりたいなって思う。
今はチラ裏だけど、少しずつ、そういうのも。