エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

ここで/数多ある場所で言語化される言葉たちはうそだらけなのかもしれない(少なくとも真実ではない)と思った話

言葉にすることで、きれいに整理することはできるかもしれない。
でもそれは真実を反映していないかもしれない。

言葉にすることで、言葉としてここに残すことはできるかもしれない。
でも言葉に縛られて、自分の認識や感性が濁って/歪んでしまうかもしれない。

 

それでもなお言葉にしてしまうのは、
言葉として出てきたものに対して
違和感を持てる、よりいいものを探そうと思える
と信じているからなのかもしれないな、と思いました。

 

出したらその場で終了なのではなく、
言葉は重ね合い、解釈し、対話することで、
どんどん認識が深まっていくツールだと信じているんだろうなと。

だからこそ、大事な人との言葉の重ね合いは、
絶対にあきらめたくないし、
これからも往生際悪く、極論うそでも本当でもよくて
言葉にし続けていくんだろうなと。

 

私にとっての言葉は、
一貫性を担保するための言葉ではなく、
真実に肉薄するための有効な手段なんだろうなと。

 

もちろん言葉は万全じゃない。
言葉にできない感触も存在する。
(例えば、「もうただここに存在するしかない」という
諦めや叫びにも似たような気持ちを感じたりするのも、
それに該当するかもしれない)

 

だからこそ、言葉をもって言葉の境界までせまっていき、
最後に言葉にならないところまで行きつきたい。
もちろん、それは順番じゃないのかもだけど。

 

そういういとなみをし続けられる人生こそ、
私の歩みたいと願っている人生なんだろうな。
(そういう意味ではプロセスしか定義してない)

 

と思った、センチメンタルでもどかしい朝でした。
思っていることは思っていることでしかないけど、
執着してしまう自分を悲しく思いつつ、
何度でも壊して、新しくしようという、ささやかな決意。

今日も生きよう。