エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

幸せは「ドーピング」でも「麻薬」でも「甘いお菓子」でもなくて、「辛みや自己嫌悪のなかでこそ感じられるもの」であるという仮説。

こんばんは。

 

労基が入っててんやわんやな会社を、
どこか他人事のような目で見ている私です。


(監査のおかげで4月は9時20時なんだってさ)
(それを「労基対策」と言っちゃう上の人は嫌いじゃない笑)

 

なんだか久しぶりの更新になってしまいました。

 

なぜ更新しようとしたかというと。
まあ、更新する気になったからです。

というわけなので、更新しようという気になった
自分の状態について、備忘録でも残しておこうかと。

 

lineblog.me

 

かやたんのブログに書いてあったけど。

「切実さ」「リスクを取れる」「覚悟」という言葉で形容されているけど、
「覚悟」をするくらいの「つらみ」を引き受けることこそが、
人生の中では必要なんだと思う。
そうすることが、その人をよりいっそう美しく見せるし、
強くするんだろうな、と。

でもって、そうすることではじめて
幸せを享受することを許容できるのかなと。

 

で。翻って考えてみると。
私の最近を思い返してみると、
幸せだな、と毎日思うことばかりで。

大好きな上司とお仕事できているし、
そこそこ好きな会社で、やっと、本当にやっと、
自分の仕事とも向き合えるようになってきたし、
大好きな友人と会ったり話したりできているし、
大好きな人との辛い恋愛も過去のものに出来たし、
大切な人と日々あることの幸せを感じることで
今ここで生きる自分をちょっとずつ肯定できていて。

なんというか、本当に最近は毎日に満足していたんだろうなと。

 

そんなわけで、最近はブログも更新することもなく。

自分の中から言葉があふれだす体験を、最近久しくしてなかった。
「伝えたい相手」に対して、然るべき言葉を紡ごう、とは思ったけど、
それはその人との関係性構築・感情の共有という目的のもとに閉じていて。

「切実さ」「リスクを取れる」「覚悟」という言葉で形容できるような
感じでは、なかったかな、と。


・・・で、今日何が起こったかというと。

ここ最近(3月)、久しぶりに1人でコンサルとして案件をやっていたのだけど、
その報告会が終わって。
お客さんのところに行って、徹夜・急ごさえ・不十分ではあるが
俺もう頑張ったよ・・・と思える報告書を持って行った。

お客さんは何を考えてるんだろう、と不安に苛まれながらも、
お客さんも議論の中で盛り上がってくれていたし、
上司の顔を見ても、吝かでもなさそうなので嬉しかった。
んで、最近仕事をするのが吝かではないような気もしており、
そこそこ満足して会社に帰ってきた。

でもって、割といい気分でチームの会議へ。
納品前だけどこんな感じっすわー、と言いながら、共有。
端的に言えば、上の人は満足してくれなかった。
なんで、私、結構頑張ったのだけど、と若干ムッとしながらも、
そうかプロってそういうやつだったか(意識は高くない)、
まあ、また次頑張るかあ、と思ったりはしたのだけど、
この痛い感じ・・・というか、どうにかしたいけどできない
自己嫌悪とか申し訳無さとかうんざり感とか悲しみとか
そういうのがあるからこそ、言葉が溢れ出してきたり、
好きな人をより求めたり、その存在意義を確認したり、
上司との信頼を確認したり、できるんだなーというのを、
しみじみ感じたりしたのでした。


私にとっては、仕事をする、お金をもらう、以上に、
何かを感じることが何より大事なので、
そういう感覚を覚えられることはとても幸せで。

「やっぱり自分には整理・構造化は向いてないんじゃないか」と思ったり、
そもそも徹夜で眠いし視界は霞むしげろげろだし体も限界な気もするけど
こういうのたまにあるくらいが心地よいのかもなとも思ったり、
自分が動ける限界と今後の行動範囲や仕事に思いを馳せてみたり、
ちゃんと本気でやると、本気でFBしてくれる人がいて、
ちゃんと生きてると、ちゃんと向き合ってくれるってことだよなと思ったり、
とはいえ今あるようにあることしかできないんだろうなと思ったり、
このまま生きていき続けなきゃいけないのは辛いなと思ったり、
やっぱり周りの人の温かさに触れてにんまりしてみたり、
思考世界を本気で共有できるこの仕事は好きなんだよなと思ったり、
私の思考のあり方は「コンサルタント」然としていないのかもしれないけど、
それでもこの世界にいられるなら、越境者としてもがいてみようかなと思ったり、
まあいろんなことを考えるわけで。

思考することとか、
(恋人など、自分を肯定してくれることが前提ではない)誰かと向き合うことは、
自分のダメなところと向き合うことそのものだし、
そういう機会があってこそ、私は「わたし」の人生を生きられて、
健全な危機感やメンヘラ感のなかで、自分の大事なものを
本当に取捨選択して感謝したりできるんだな、とありがたく思ったりしました。

・・・という、納品前日なのにブログを書いた背徳感で、
今日もお仕事を続行することとします。

 

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最後に、大好きだ、と思った文章を。
このブログで以前取り上げた、すみれちゃんの文章。

 

aboutyou2015.com

 

「あなたもわたしも、とにかく寂しがりやで、承認欲求が強くて、長期的な願望は抱えてるくせに自分が認められる空間があると後先考えず(考えてるフリだけ、実際は勢いで)飛び込んじゃう。なんとなく違う、違う、を抱え続けて、耐えきれなくなって恋愛に逃げる。その後で猛烈な自己嫌悪。同じこと繰り返してるとわかりつつも抜け出しきれなくてもがく。周りからしてみたら「お前まだそこにいるの」って感じなんだけど、本人的には小さな大躍進。そんなあがく自分を認めてあげたいから過去分析は大好きで、過去の整理はもう何周か済んだ。あとはどう生きるかの未来目線の軸さえ一本通れば、今までいろんな方向に分散させてしまっていたエネルギーをドカンと注入して進んでいけるのに。
なーんて部分であなたとわたしはそっくりだと思うんだけど、どうかな?

さーて、この状態からは君もわたしも一歩くらいは抜け出したはず、よね? 舞い戻ることがないように、一歩も引けない状況を自分で作っていきましょうな。」

 

なんていうか、生きてるってこんな感じ。
私は生きるエネルギーを持て余し気味で、
いろんな方向に分散させてみたり、
誰かにドッヂボールよろしくぶつけてみたり、
突如として姿を消してみたり、
ドカンと注入して進んでいく覚悟をしてみたり、
人を疑ってみたり信じてみたり。

そういう毎日を愛せて、かつ、
そういう毎日を愛してくれる人がいれば、
何があっても生きていて怖くないな、と思ったり、
怖さを手放したいという傲慢さに辟易としたり、
私は私にうんざりしながら、
自己愛と猜疑心と自己嫌悪でぐちゃぐちゃな自分と
向き合わなきゃいけないんだなあと思いました。


というわけで、
「私は今日も生きているんだな」と思いながら、
げろげろになりながらお仕事をして、
終電でおうちに帰るんだろうと思います。

 

さて。頑張ってもういっちょ仕事しますか。
それでは。

 

追記

cloalien.hatenablog.com

この日とほぼ同じことを言っているな。
そういうもので毎日は出来ているな。