エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

「平和」や「幸せ」の世界に甘んじると、逆に平和も幸せも享受できなくなる、というおはなし。

私は今、客観的にも主観的にも、
「すごく幸せ」なのかなと思う、し、
自分自身もほんとにそう思っている。

 

でも、「本当にそれでいいのか?」という問いは、
常に自分の中で成り立つし、あらねばならぬのだ、
とも思っている。

 

(こと私は、マルチタスクが苦手なゼロイチ思考をしてしまいがちなので)
つい何か大事そうなものを見つけると、それに耽溺したり、
それに伴って何かを大事にできなくなったり、心を配れなくなったりする。


とはいえ、1つのものだけを信じようとする態度は
あまり健全ではないことも知っている。
ので、そういうのは出来れば避けたいし、
そう自戒して生き続けたいと思う。

 

そして、健全ではない、というだけではなく、
私は色んなことがないと生きていけない、という側面も持っているようだ。

 

例えば。
私は、本来的には、疑いようのない幸せや平和を享受する、
地に足をつけて長期的に何かをする、ということが絶望的に苦手なようだ。

不条理に対するモチベーションは高いが、
何かを作ること、何かと真剣に向き合い行為すること、
に対するモチベーションは相対的には低い。

だから、ホントは、適度に不条理がある中で、
辛がり、何かを呪いながら生きていないと、
生きる活力自体が失われてしまうんだな、と思ったりしている。

物事は、常に何かとの差分に酔って価値を認識するものだと思っているし、
色んな物がある社会だからこそ、あるものを大事に思えたり、
愛おしく思えたりするのだろう、とも思っているので。

 

・・・とすると、「恒久的な平和なんてない」ということを自戒するのは、
もはや自分のメンテナンスのために必要な虚言?なのかもしれないなと。

不安にはそのときどきに対処する必要があるのかも知れないが、
それは、私にとっては持ち続けている方が健全なものでもあるのかなと。

 

平和も幸せも、享受したいしめいっぱい幸せでありたい。
と思う自分もいるし、それは全然嘘ではないことも知っている。

でも、それは恒久的に続くものだなんて無思考になりたくないし、
思わない方がいいとも思っている。信じるのが怖いからかもしれない。
幸せになれない体質、なのかもしれない。


そういう自己といかに向き合い、
現実をいかに幸せなものにするか、という葛藤が、
今後の人生のなかでついてまわるのだろうなと予感している。

甘々な人生だって、人生の何処かにはあってほしい。
だけど、それだけだと人生はつまらないよね、という。
(そのために「仕事」のようなものがあるのかもしれない、と思ったりもする)

そろそろバランスできるようになりたいとも思いつつ、
バランスとかないのかもしれないな、とも思うので、
こういう性質を認識して、うまくスイッチできるようになろう、
とも思ったりする昼下がりでした。

外出なくなったから、ちゃんと仕事しよっと。