エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

どう森ブームに、思うこと。(その2)~ 流動性の高い社会をしあわせに生きる方法

こんばんは。
再び現れました、くろえです。


さて、先程の記事では、SNS上でのシェアによって
どう森が流行していることを実感した、
というお話をしました。

(→以前の記事はこちら:どう森ブームに、思うこと。(その1)~ SNSの影響の大きさを実感した話 - コスプレでコンサルやってますけど

f:id:cloalien:20171122224632p:plain

 

今回は、この続きのお話をしようと思います。

 

情報過多の世の中で、何を追い、何を知るのが幸せなのか

 

私たちはスマホを手にしたことによって、
圧倒的に情報過多な社会を生きていくことになった。

グローバル化・デジタル化のなかで匿名性が高まり、
個々の人格が次々と代替可能なものに見えるような世の中で、
新しいムーブメントの波にのることでなんとか息をしている。

上記の例もわかりやすく、SNSで拡散した情報が
消費者の行動に伝播していく例として捉えることが出来るだろう。

 

そんな時代のなかで、私たちは時代の波を捉えていることに安心し、
またどこかで、周囲からの影響を受けることに辟易としている。

自我なんて本来的には存在していない、とも思える社会のなかで、
自我を追求しろなんて言われてもよくわからないし、
とはいえ周りに合わせて踊り続けるのは難しすぎる。

 

自分とよく似た属性の個体を集めたところで泳ぐのは比較的容易だが、
だからといって外部環境を見ずして狭い世界で踊り続けていると、
そこにあるのは疲弊と空虚と、茹でガエルになった自分自身だ。

 

じゃあ、どうすれば、「自分」を守りつつ、疲弊せずに生きられるのだろうか。

 

分かって踊る、そして都度達観するという姿勢

 

ここで大事なのは、「主観的満足度を高めること」ただ1つだ。

だって、社会は高めるゲージの尺度すら与えてくれないから。
いい会社だって変わるし、貨幣の価値すら国家に振り回されるし。

とすると、数少なくわかっているのは、
「どうせ踊るなら真剣に!」ということだけだ。
(やりきった感、充実感などの主観的満足が大事、というところから)

 

ただ、流れの早い現代社会においては、
「何を踊るのか?」ということすら問わざるを得なくなる。

とすると、

  • 「踊るものを決める」
  • 「短く(若干狂気的に)踊る」
  • 「短いスパンで(その結果を)振り返る」
  • 「次に踊るものを探す」

というスパイラルをこまめに回すことこそが、
茹でガエル的状況を避けながら楽しく生きるコツなのではなかろうか。

(これ、書いてみてビッチ的だなと思ってドン引きしたけど、
こういうことをしないといけない社会なんだろうな・・・とも思う)
(因みに、家族という血縁に伴う仲間の概念については、
この限りでない、という内容の記事はいつか書く・・・いつか)

 

ずっと何かをしなくてはならないという強迫観念の時代の終焉を、自分にとって良いものとするために

 

社会の変化が早くなったことに伴って、
ますます「ひとつのもの、こと、ひと」に拘泥する必然性がなくなってきている。

そのことは事実ではありつつ、どうせ流されていくのであれば
しなやかに、自分の意に反しない方法で流されていきたい。

そのためにはどうすればいいのか。

  • 何を頼りに決めていくのか、という情報ソースの精度を高める
  • 自分自身のなかの「譲れないこと」の精度を高める

この2つは、主観的満足度を高めて生きるために
ほんとうに必要なことだと思う。

つまるところ、

  • 信頼出来るものをちゃんと自分の近く、もしくは自分の中に持ちましょうね
  • 社会に阿るより、自分を参照したほうが、たぶんミスっても後悔ないよ! 

ということなんだけど。

逆に言えば、それさえ心に決めてれば、あとはどうにでもなるかなと思ったりする。

 

まとまりないけど、もっと具体的なことについては
年末の振り返り記事あたりで書こうと思います。

 

以上、言ってることに驚くほど説得力がないくらい腰が重く、
変化を好まず茹でガエル化していることに定評のあるくろえでした!

どう森ブームに、思うこと。(その1)~ SNSの影響の大きさを実感した話

皆さんこんばんは、くろえです。

結局月イチ更新やないかーい!というセルフつっこみはともかく
少しお久しぶりになってしまいました。

昨日、約1ヶ月間取り組んできた調査案件が終了し、
なんとか形にすることができほっと安堵しているところですが、
早速その内容とデジャブになるようなニュースを目にしたので、
これについての雑感を書こうと思います。

プロジェクトで私が主張したこと

 

今回は、未来のマーケティング戦略立案のような案件。
(細かい内容は書かないが)主に以下の様なことを主張してきた。

  • 利用調査から、現在の都市でのスマホの利用方法は、地方と大きく異なっている
  • 今後の社会においては、スマホにマインドシェアをかなり奪われた都市型のライフスタイルが(地方を含めて)加速していく
  • スマホも使いようによっては便利な道具だが、現代のグローバル化・デジタル化の流れの中では、麻薬のような作用をする可能性が高い

まあ内容自体はごくごく一般的な2050論的なものですね。

 

プロジェクト終了日に起こったこと 

 

ここまで全く題名と関係なかったのですが、
昨日PJT終了し、インスタ廃人に回帰した私の目につくのは
このたぐいの情報ばかり。

「どう森 アプリ」の画像検索結果

 

わたしのインスタ界隈はまだ大学生だったりもするのだが、
学生~新入社員界隈を中心に、ID登録画面を喜々として
ストーリーに晒していた(11/22段階=サービス開始2日目)。

なんだこれは。どうぶつの森か?

 

記憶をたどると、流し見していたが、どうやらこういうのがあったらしい。

 

jp.techcrunch.com

 

確かにYahoo!ニュースの一覧やLINEニュースでは見た気がする。
でも実際にその出来事を認識したのは、インスタを見てからだ。
流石にこれだけたくさんの人が喜々として登録しているのを見ると、
なるほど少し始めたくなってしまう気持ちもわかる。

 

SNSによって体験のきっかけが変わった?

 

つまり、上記の自分の体験を見るに
「自分ごと化」され検討が始まったのは、
LINEニュースのローンチのタイミングではなく、
SNS上での反響を見てからなのだろう。

それだけ我々はSNS上の情報に感化されやすいし、
逆に普段接している情報は量が多すぎて、多くのものを
ザッピングしては流し見している、ということが、
自分で検証していたことなのに、今更強く実感された。

 

たまにプロジェクトが楽しいと思うときは、こういう実感があるとき。

 

でまあ、ここから先は完全に個人の雑感ではあるのだが、
私はtoCに近い領域の仕事のときのほうが楽しいし、
それはなんで楽しいのかというと、
自分の発見したことや実感したことが
ユーザ、いち消費者として実感される瞬間が多いからなんだなと。

こういう感覚を忘れないように、
どういう仕事をしていくのかについても、考えていきたいなと思った。

 

考察記事はその2で更新します。
それでは、あでぃおうす。

 

追記

 

いまTwitterのTLを眺めてたら
「もうどう森飽きた」と言ってる人が複数人いて、
もちろんゲームは複数回のリピーターを獲得するのは
難しいということはわかりつつも、
あっという間に「トレンド」として消費されて
ものすごい勢いで飽きられていくんだなあ、と
少し寂しい気持ちになりました。

(もちろんゲーム会社はそれも分かってて、
それでも一部のロイヤルユーザを作るべく
色々尽力しているのだろうと思うけど・・・)

ブログを再開します

 お久しぶりです。
約2ヶ月ぶりの登場、くろえです。

 

わたしの近況

 

さてこの消えていた2ヶ月間の近況はと申しますと、

  • 9月にデリバリ案件3件、残業時間3桁を越え、耳鳴り・難聴・頭痛・腹痛などの諸症状を訴えつつなんとか乗り越える(お客さんがイケメン+思い入れのある方ばかりだった)(仕事は良い仕事だし、職場も居心地良いし、上司も良い人です、念のため)
  • 10月に1年以上ぶりに上司が変わり、モラハラ系同性上司(優しく聡明な人だったけどタイミングが悪かっただけ)のもと精神崩壊し泣きながら心療内科に駆け込むも予約でいっぱいとのことで受診を頓挫
  • プロジェクト終盤でアラートを上げた(+様子をどこからか知った毒親が社長に直接連絡して勝手に我が子を休職させようとするという暴挙に出た←これが病巣という説もある)結果、10月後半からは無事に上司と平穏な日々を取り戻した
  • しかし後遺症なのか、燃え尽き症候群なのか、世界から色が消えてしまって戻ってこない(朝起きてもすっきりしない、夕焼けを見ても感動しない、感情の起伏がないなど)
  • 会社との付き合い方がわからなくなり、(特に会社の)人と話すのが怖くなり、毎日マスク装備で会社に行くように

 

という感じです!でも元気です!笑

 

ブログを再開しようと思った理由

 

この2ヶ月間に仕事・人間関係・外部環境などでいろいろな変化が自分に起こって、
自分自身初めて身体に異変をきたしたりもしていろいろなことを考えて、
この間に価値観や人生観、異性観が大きく変わってきたものの、
ブログを書く気力が起こらずここまできてしまいました。

 

ブログは義務感というよりは突発性の受け皿として認識していたけど、
このままほうっておくと、本当に文字を紡げなくなってしまう気がして。

自分の中から文字が湧いてくるにまかせていると、
もう二度と文字を紡がなくなってしまうような気がしたから。

とにかく、書かないとどうしようもない感じもあるので、
これから少しずつ復活していこうと思います。

 

有事に読む本

 

これに際して、友人に勧められた本


こちらも読んでいこうと思います。

 

それから最後に、最近感銘を受けた本を紹介して本日はお開き。
(Book and Bed Tokyo ASAKUSA行った!この話もいずれ・・・)

これはやばいです。
読みながら大泣きしました。


なんとなく心が健康じゃない感じの人、
心に靄がかかったような感覚を覚えたことがある人、
周りに支えてあげたい人がいる人、
是非読んでみてください。

 

noteでも読めます↓

note.mu

とてもいい本です。

 

それでは今日も、生きていきましょう。

 

追記

 

時を同じくしてブログを更新した我が親友ずりたんのエントリが
私のそれと真逆で面白かったので紹介しておきます。

blog.livedoor.jp

彼女のような状態と、私みたいな状態を、人間は振り子のように行き来するのだろうか。

女の子をしながら、生きていく方法。

 

皆さんこんにちは。

仕事が詰んでいるのは相変わらずなのですが、
感情が高ぶっているので、いったん記事を書こうと思います。

 

仕事は自分の本性を表しているのか、という疑問と危機感

 

エモいことが好きだ。

きらきらした風景、人物、食べ物、文章、
かわいい子、かわいい小物、シンプルな余白への想像、
ぎゅっと抱きしめる瞬間、他人からの微かな好意への想像、
金曜日の夜の駅の哀愁、日曜夕方の物憂げな町並みが好き。

 

関連画像

 

いまの私は、ビジネスニーズに応じて、これ以上なく左脳的な労働をしている。
(「儲かる」に寄りすぎているわけではないが、左脳的な頭は使う)
多分きっと、自分にない部分を補おうとして、こういうことをしている。

 

それでも時々思ってしまうのは、
自分の本性を逸脱したところで生き続けているがゆえに
そういうエモいことへの感度が下がっているのではないか、ということ。

 

エモいことをよりエモく感じたり表現したりするためには、
そうじゃない世界も知って、その作法を身に着けておこう、と思っていたのに、
今では次第にその主従が逆転しているように感じる。

 

昔から、仕事からの現実逃避の際にたびたび考えてきたことだが、
ニコニコ、キラキラしながら人を愛おしむことでお金が貰えれば、
どんなに良いだろうか・・・と想像することがある。
(かつてのパズル教室とかは、それに該当するような気もする)

 

昨晩見た光景に、今ない自分を見た。

 

昨晩は箱根に弾丸旅行をしていたのだが、その帰り道、
親友が表参道で開いているライブを聞きに行った。

「goodBLUE」
2017/8/27 Sun.
@表参道NOSE ART GARAGE
18:30 OPEN 19:00 START

 

私の親友の歌う姿は、なにより私の心を晴れやかに、明るくするものだったが、
共演している演者さん(前から聞いて、好き!って思っていたわけだが)の曲を聞き、
色々と考えるきっかけを得た。

 

HOME - yuyukonbu0206 ページ!

YUYUKOさん、という方。

 

「きらきらしている」「透き通っている」という言葉が似合う、とても素敵な女性。
曲調は少し物憂げで、でも明るくて、
声のトーンは無邪気で天真爛漫で透き通っていて丁寧でそれでいて乱暴でもある。
aikoさんを全体的に可愛くしたようなイメージ・・・?)

 

私はこのアーティストに、女性に、心射抜かれてしまった。
こんなにいやらしくなく可愛らしい人がいるのか、と。

歌っているYUYUKOさんはとてもかわいかったし、キラキラしていたし、
息遣いまで飲み込んでしまいたいくらいに強く惹かれている自分がいた。

それと同時に、自分の中の「女の子」を探してしまった。
最近わたしはどこかで「女の子」をしているだろうか。

 

「女の子をする」とは何か

 

「女の子をする」とは何か。

  • 自分の中に内在的に存在する「可愛い」ものへの欲求

(例:「可愛い服を着たい」、「可愛いものに囲まれていたい」、「気の向くままに可愛いもの、きれいなもの、好きなものを探したい」、)

  • また、それらを通じた自分自身への「可愛さ」への欲求

(例:「可愛くありたい」、「キラキラしていたい」、「素敵なものを追求する自分でありたい」)
であると考える。

 

「女の子をできる」のは、ごく限られた場所。

 

上記のような欲望は、女子たるもの、女性のなかでも持っている人は少なくないと思う。


しかし、それを発露できる機会の有無については、また別の話であると考える。

「女の子をする」という行為は、「それを眼差す人の存在」によって初めて成立する
と言っても過言ではないのではなかろうか。

 

結局はその行為を
「見守ってほしい」、「天真爛漫さを受け入れてほしい」、「いざなわれてほしい」
という欲求が前提としてあり、それが満たされて初めて、
安心して「女の子をできる」のではないか。

 

「女の子である」ということは、自らが自らをラベリングする行為だけではなく、
他者から「女の子である」という眼差しによって成立するものだから。

 

女の子であることは、クローズドな行為なのか

 

ここで、女の子らしさを表出する方法を考えると、
まず最初に、大勢に見せるものではなく、安心感を前提とした
一部の人間への女の子らしさの吐露が想起される。

 

どちらかといえば、大事な大事な人にだけ見せるもの。
安心感のなかで、女子らしい甘ったるさを表出していいのは、
ごくごく限られた文脈だろう。
(だからこそ、「女の子でいさせてくれる」人がいる女子は、強いと思う。)

 

「女の子をして、生きていく」方法

 

でも、それだけではなく、外向きにもキラキラしている人もいる。

先に述べたYUYUKOさんは、まさにそれをぎゅっと濃縮還元したような人だった。
きらきらした笑顔が素敵で、まぶしかった。

大勢に向けて、どこか無防備に、どうしようもなく魅力的に自己を表現して、
それがどうしようもなく愛おしい。

 

女性が歌ったり踊ったり、何かを表現しているときに見える姿は可愛く美しい。
特にこのYUYUKOさんは、女の子だからこそ出来る「天真爛漫で愛おしい」を地で行っている人だった。

 

つまり、「女の子をする」ことは基本的には内向きな行為であるが、
生きることを構成する大事な要素としてそれを据えている人もいて、
そうすると外向きに自分の魅力を発信していたりして、
(=女の子なら「女の子をすること」)
そういう人はどうしようもなく魅力的に見える、ということなのだろう。

タイトルにもした「女の子をして、生きていく」、ということだが
自分の人生の構成要素のなかで、「女の子である」ことを大きくしていく、
それこそが「女の子をして、生きていく」ということなのではないだろうか。

 

私にはそれができるだろうか?

 

残念な話、私はそれ(=「広く、女の子であること」)向きではないような気もする。

リズム感覚はどこかおかしい、そのくせ聴覚過敏で音には神経質、
歌が特別上手なわけでもない(絶対音感はあるので音痴ではないが)。

 

そういうのでお金を稼ぐのは難しいだろうけど、
しいて言えば、結局私にあるのは文章なんだろうなと思った。

 

 「読書 女性 フリー素材 写真」の画像検索結果

 

もちろん、身体表現も豊かであればいいなって思うし、
歌だってちょっとくらいうまく歌えるようになりたいし、
バレエもゆくゆくは踊る方に復帰できればよいし、
テニスだって美しくする方法はあると信じているけど、

やっぱり私が「いちばん好き」で「いつでも、どこでも、きっとずっと出来」て、
一番自分とつながっているのは、やっぱり文章を書くことだなと思う。

 

私はコンサルだし、整理・構造化もするし、タスク厨だけど、
でも、やっぱり本音で言えばどこかで「女の子」でありたい。

大量の仕事や婚活沼に疲れきって愚痴を垂れるOLではなく、
勿論最終的な責任は取るぞという強さを持っていながらも、
それでも、どこか甘くて、甘やかされてて、気まぐれで、
天真爛漫で、明るくて、きらきらしている人でありたい。

それを男の前でできればそれはそれで幸せだけど、
そうでなくてもどこかでキラキラする場所があってほしい。 

お金を稼ぐ、というのは無理にせよ、
私には文章がある。(それしか出来ない、というのが近いわけだが・・・)
だからそれを頑張りたい。

そういうことをやって悶々としたりしながら、
ずっと生きていたい。

そう思った、週末でした。

 

参考URL

 

学生時代の親友

twitter.com


ひとめぼれした人

twitter.com

どちらもとても素敵な女性アーティストさんなので、
ライブとか音源とか是非聞きに行ってみてください。

 

それではあでぃおす。すっきりしたので、仕事します。

【恋愛小噺 その6】男女間の友情は成立するのか

明後日報告会からの納品という
かなりアレな状況にも関わらず、
考えたい欲求が高まってしまったので、
ブログを書こうと思いたちました。

 

今回のテーマは
「男女間の友情は成立するのか」。

 

なぜ時間もなく体力もない中このテーマ設定なのか。
自分を疑うことしか出来ないのですが、
「持続可能性」などという言葉をかなぐり捨ててるので、
ランナーズハイモードですがお付き合いくださいませ。

 

男女間の友情は成立するのか

「男女 友達 フリー素材 写真」の画像検索結果 

 

私は

「成立し得るが、ごく限られた文脈・状況において
不断の努力もしくは妥協、我慢が行われた結果爆誕するものである」

と思っている。

 

以下にその理由を記していこうと思う。

 

※ただし、これはあくまで男性からのニーズに関する女性筆者の想像であり、
本来的にどうかは是非ご意見を頂戴したいところ。

 

 

【前提】男性は何故わざわざ女性と関わるのか

 

いきなりで恐縮だが、私は反フェミニストだ。
暴論かも知れないが、
統計によれば男性の方が年収が女性の倍近くあるのは事実だし、
東大や京大、東工大は男だらけだ。

【最新版】年代別平均年収を発表! 男女差、企業規模別、業種別ランキング|「マイナビウーマン」


ポテンシャルはどうであれ、現代社会においては男性の方が
総合的に知力・体力など、社会を渡っていくための能力には
優れていると思っている、というのが前提。

 

で、もし実際に男性の方が能力高いかつ稼ぐとして、
また、もし人との交わりに何らか「実益」を求めるとして、
なんで男性はわざわざ女性と交わるんだろう?と思う。

 

(これもまた暴論なのは承知だが、)女性の方が非合理的だったり、
脳の構造や思考のプロセスが異なる生き物であるがゆえに
分からない部分がたくさんあるはずなのに。

(そもそも異なるものとの交わりは、
人に対して多かれ少なかれストレスを与えるもののはずなのに。)

 

それに対する答えをすごく乱暴に言うと、
「社会的実利以外の効用」なのだと思う。
例えば、ぬくもり(身体的なものでも、精神的なものでも)・庇護(被母性)・恋愛・性交のようなものだ。

 

 

やっぱり男女の友情って成立しにくそう

 

というよりは、到達しにくい、というのに近いと思う。

男性側から見たときに、女性との関係性のなかでメリットが大きいものは、
上記のものの方が想起しやすい。

だとすると、そうでない上記の例以外のものを求める関係性はありえるのだろうか。

それを手に入れられない(先にそれらが獲得できる可能性のない)
「異性との友情関係」というものは成立し難い(より崇高とでも言おうか)気がする。

 

※友情=扇情的な/性的な感情を抜きに、相手を想える関係性と定義する。
※更に補足。Wikipedia氏によると
「友情(ゆうじょう)は、共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと。友達同士の間に生まれる情愛のこと。」とのこと

 

 

男女間の友情の成立条件

 

成立するのは結構難しそうということは分かるが、
では、どういう条件下なら成立するのだろうか。

 

まず想起されるのは、当たり前の話だが、
「恋愛対象ではない」ということだ。
これを噛み砕いて考えると、以下のことが考えられる。

 

  • どちらか、もしくは双方に付き合っている人や好きな人が他におり、恋愛対象とみなせない状態
  • 恋愛というのを性的感情と捉えるのであれば、そういう感情が備わっていない人
  • 異性が性的対象にならない同士

などだろうか。

また、友情が成立しているということは、
双方に相手の心地よい距離感を守っている状態、とも言えそうだ。

(双方ならまだ良いが、どちらかのみが恋愛対象とみなせない状態の場合、より難しそうなわけだが・・・)

 

 

男女の関係性にはどんなものがあるんだろう

 

以上のように、男女の間の友情は、
「性的関係/恋愛関係を廃した双方向での思い合い」ということになる。

 

では、男女の関係性にはどのようなものがあるのだろうか。

  • 性的関係を伴う関係(セフレなど)
  • 恋愛感情を伴う関係(カップル)
    ---
  • 仕事上の契約関係に関連する関係(同僚・上司・部下など)
    ※特定の領域における目的を共有した関係(趣味仲間など)はこれに近い?
  • 婚姻上の契約関係に関連する関係(夫婦)
    ---
  • 親子
  • 兄弟(予測変換で「京大」と出てきたあたりに社会の闇を感じますね)

 

上記から外れた、一種の主観的合理性を逸脱したところにあるのが
「友情」という感じになる、ということなのだろうか。

 

(特に趣味に関しては、何が目的なのかが
人によって様々なので(出会い厨もいる)、一概には言えないわけだが・・・)

 

男女の友情があると言えるあなたに

 

上記をまとめると、異性間での関係性は
基本的に性的な扇情や引き寄せが基本で、
それ以外が仕事などの契約関係もしくは
友情というか紐帯(愛情)だという感じの心象風景。

(憧れの対象、などはそもそも関係性ではなく
一方通行なので、考えないものとする)

 

異性間において(仕事などの契約関係以外で)性的なもの以外を築けるのは
ほぼ限られた人との間でしか成立しないように見える。

 

「関係を深めない理性」(=相手が望む距離感を保つ)や、
見返りを求めずに、ただ、ただ、相手を(人間的に)好きでいられる胆力
などが揃っている場合においてのみ成り立ち得るのだと思う。

それが成立していると思っている人は、多分だいぶ幸せなので、
どうしてそれが成立しているのか、再考してみてもらえるといいと思う。

 

因みに、私は特に異性の友達は殆どいないわけだが、
やっぱりお互い好きな人や付き合っている人がいる
という場合においてじゃないと友情は成立しない気がしますね。

 

(次の記事を書くために押し出した記事なので、
つぎ!つぎ!つぎいこう!)

 

最後に

 

DJあおい先生のありがたいお言葉でしめます。

djaoi.blog.jp

『友情』というものは
その人の言動を拘束する鎖ではありません
お互いの自由を尊重できる関係が友情なのです

くうう・・・!!!

ではあでぃおす!!!おやすみ!!!

私にとっての夏休みと、この夏を機にやりたいこと。

 

夏休みなう。
というわけで、先日金曜日から、弊社は夏休みに突入した。

*** 

正直、夏休みの前は、いつも私は途方に暮れる。

普段の平日は目の前にある仕事をウンウン唸りながら何とかこなし、
休日はそれ以外の自分のしたいこと、やらなきゃいけないことを片付ける。

しかし夏休みになると突然長い休みを言い渡される。

 

人生においてやりたいことがあまりないかつ、
休みの日まで(まして大好き上司様のいない)
仕事場に行くのは何となくプライドが許さないかつ、
家にいるのが嫌いな自分にとって、試練のときが訪れる。

 

これまでの夏休み

 

これまでは正直、そのとき付き合っている殿方に
夏の時間を旅行するなどして良きように
埋めてもらっていた(気がする)。


(上記だと至極言い方に語弊があるようにも思うが、
実際のところは「好きな人との紐帯を深めるために夏の時間を利用していた」
と表現のほうが適切かもしれない)

 

今年の夏

 

しかし、この夏はそういうことが一切ない。

これまで「彼氏」と公言できる人が、(ましてこの時期に)
いないことはなかったから、余計に狼狽した。

※夏は誕生日でもあることから、
余計に意識して人といるようにしていた
・・・ということなのかもしれない。

 

いつもやんわり遊んでくれている人も、今年はどことなくつれない。
密かに萌えしだいている人も、日本ではないどこかに消えていった。
女友達はだいたい、収まるべきところに収まっている。

その所在なさたるや。

 

というわけで、
この夏はいよいよもって自分の中にあるものとちゃんと向き合い、
それを表に出す取り組みに着手するべきタイミングかと思っている。

 

20日までの一週間は、そういうことに少しずつ取り組んでいきたい。

 

上司様と約束したこと

 

毎年、親愛なる上司氏と夏の目標を(一応)立てる。

この夏は「具現化しよう!」ということになった。

※経緯としては、私が画面設計を始めとした
具現化フェーズを極度に苦手にしており、

・とっかかりが遅い
・なかなかPDCAが回らない
・仕事に対するやる気が減退する
・ますますやらない
・一朝一夕にどうにかしようとするがそういうものでもない

などの課題を持っていることが所以と考えられる。

 

これはつまり「思考した何かが吐き出される」
ということに対して、よりは、
「他人が見ても大丈夫なくらい、表に出せる何らかのブツ」
が出来てくることを期待されているのだろうと思う。

 

・・・ということなので、まず明日からは
「具現化とは何か」というところから考えていることを書き連ねようと思う。

直観的には、
「仕事でもいい、それ以外でもいい、
何か自分の中で腑に落ちるものを世に出せたら最高だ」
と思っているように思う。

しかし、この心理的障壁の大きさはなんだろう。

まずはその心の動きや心持ちが
どういうことを意味しているのか、考えてみることとする。

 

自分と約束したこと

 

以前にも書いていたし、顔本のお誕生日投稿にも記したことだが、
私は「自分自身が読書と距離があること」が大きなコンプレックスである。

本に没入したことは今までにない。
本に感動を覚えたこと?ましてない。
(ウェブ記事とかならあるわけだが)

 

長い論理構成や主張を咀嚼する力がない、という話以上に、
壮大な物語への想像力が欠如していたり、
ダイナミズムをもって進行する物語を俯瞰できない、
そもそも即座に利益になるものしか興味を持てない、

・・・など、自分の狭量さや浅学さなど、全てのコンプレックスの端緒に
「自らの読書体験の貧しさ」が影響していると考えている。

 

なので、この夏は、半ば無理矢理にでも
本と接触する機会を増やそうと思っている。

・1日1冊読破
※ただし漫画は含まない。短編集や小説はOK

以上のルールを運用していければと思っている。

 

終わりに

 

この夏が終わったとき、
「振り返れば、何かいいことや示唆が得られた」
という状態になっていればいいな、と思う。

毎年同様(どちらかと言えば私的な用事で)
忙しくすることは規定事項なのだけれど、
そのなかでも、少しずつ自らにとって心地よく、さらに言えば
自己を承認してあげられるような習慣づけを
少しずつやっていけるような、その端緒としたい。

 

それでは。あでぃおす!

~夜間の水上温泉より、愛をこめて~

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【備忘録2】ゆず好きな歌ランキング!愛が高じて50位~100位もつけてみた

皆さんこんにちは。

この前のランキング、どうしても漏れがあるだろうと思ったので、
今度は50位~100位について書こうと思います。

どれも捨てがたすぎる。
自分的ゆず大好きランキング、第2弾です。

blog.livedoor.jp

ご笑覧ください。

 

91位~100位

 

91位 シュミのハバ
92位 空模様
93位 恋の歌謡日
94位 ポケット
95位 いちご
96位 一っ端
97位 昨日の俺は俺にあらず
98位 ソウロウ
99位 ダスティンホフマン
100位 桜道2

 

81位~90位

 

81位 冷めたコーヒー
82位 カナブン
83位 青
84位 新しい朝
85位 みらい
86位 つぶやき
87位 ムラサキ色
88位 二つの言葉
89位 スーパーマン
90位 君は東京
 

71位~80位

 

71位 待ちぼうけ
72位 終わらない映画
73位 ぼんやり光の城
74位 四時五分
75位 心の音
76位 ねこじゃらし
77位 言えずのアイ・ライク・ユー
78位 ルルル
79位 手暗がりの下
80位 嗚呼、青春の日々

 

61位~70位

 

61位 てっぺん
62位 うまく言えない
63位 灰皿の上から
64位 使い捨て世代
65位 フラリ
66位 ウソっぱち
67位 人生芸無
68位 幸せの扉
69位 葉月の雨
70位 いつか
 

51位~60位

 

51位 みぞれ雪
52位 オーバー
53位 凸凹
54位 境界線
55位 未練歌
56位 眼差し
57位 グッドモーニング
58位 風吹く町
59位 おやすみ
60位 日だまりにて

 

というわけで、栄えある?51位は
大好きな「みぞれ雪」とさせていただきました。

 

今週もお疲れ様でした!
徹夜明けで頭がおかしくなっているくろえでした。

良き夏休みを。

【備忘録】ゆず好きな歌ランキング!ベスト50をつけてみた

皆さんこんにちは。

今日はこんなスレッドに感化されちまったので、
自分的ゆず大好きランキングを雑に付けました。

blog.livedoor.jp

ご笑覧ください。

 

50位~40位

 

 40位 贈る詩
41位 シュビドゥバー
42位 冷めたコーヒー
43位 空模様
44位 ふくろ
45位 今夜君を迎えに行くよ
46位 〜風まかせ〜
47位 日だまりにて
48位 表裏一体
49位 桜木町
50位 スミレ

 

39位~30位

 

30位 サヨナラバス
31位 日曜日の午後
32位 センチメンタル
33位 雨と泪
34位 夕暮れどき
35位 風に吹かれた
36位 連呼
37位 かまぼこ
38位 使い捨て世代
39位 朝もや

 

29位~20位

 

20位 Re:スタート
21位 時刻表
22位 はじめの一歩
23位 向日葵ガ咲ク時
24位 ダスキン
25位 風とともに
26位 旅立ちのナンバー
27位 威風堂々
28位 飛べない鳥
29位 方程式2

 

19位~10位

 

10位 少年
11位 かえるのご帰宅
12位 月影
13位 街灯
14位 直径5mm
15位 春三
16位 以上
17位 飛行機雲
18位 君宛てのメロディー
19位 過食な健康食

 

10位~5位

 

5位 月曜日の週末
6位 3カウント
7位 朝もやけ
8位シャララン
9位 アゲイン

 

5位~1位

 

1位 始発列車
2位 チョコレート
3位 くず星
4位 人間狂想曲
5位 濃

 

というわけで、1位は悩みに悩んだ上で
「始発列車」とさせていただきました。

今週も頑張ってまいりましょう。

【恋愛小噺その5】「好き」を直観的に自覚する尺度とは? ~あるコンサルタントのひとりごと

おはようございます。

昨晩はチームの大好き上司と飲みに行くも、
席が遠くて&場の盛り上がりから直接あまり話せず
悲しみを感じながら、つくづく場への精神的な適応性の低さを反省しました。

飲み会はやっぱり苦手なくろえです。

 

昨日少し書いていた記事の追記についてその後考えたので、
再度独立して掲載することにしました。

お題は、「恋愛として好き」であることを直観的に判別する方法についてです。

 

(いってい拗らせているときには、自分のことがわからなくなり、
「直観する」という言葉の意味すらもよくわからなくなって、
「直観」を感知する方法を言語化しようとしている、ということです。)

(でも、受動的に生きていてかつ言語化しないと物事を認識できない人間が
自分の主体的な心の動きを観測しようというのは、大事なことだと思う、
と自己正当化を図ってみたり。。。)

 

検索してみた

 

Google先生に「自分 好き 判別」と問いかけてみると、
「相手が自分を好きなのか判別する方法!」みたいな記事ばかり出てきて、
世間のニーズはそちら側なんだな、と思いつつ、
いくつかの当てはまりそうな記事を読んでわかったことを以下にまとめます。

 

人生のマインドシェアを獲得していること=好き?

 

どうやら

・相手に関する情報収集をする(相性占い、趣味、仕事についてなど)
・相手を目で追う(これはそうかもね)
・相手に会う前に高揚感を感じる(ドキドキ、わくわく、ある種の緊張、あるいは帰りたい感)
・相手と話すとき、普段どおりの性格で接することができない
・相手と一緒にいない時でも、もっと会いたいと思う
・相手のことを好きであるということを公言できない

といったことが「好き」のシグナルとして紹介されているようです。

 

自分の人生の時間のなかで一定のマインドシェアを獲得している
ということすなわち、「好き」と捉える、という話のようです。

ただ、上記は「好きである」という納得があっての行為でもあるように見えて、
ここで扱いたいのは、もっと原始的な身体的感覚(=「直観」)の話かなと。

自分がその人のことを好きだと思っているのか、
相手から来ているものに対して受動的に反応しているのか、
ということの境界は往々にして淡く、自覚しづらい。

だからこそ、自分のなかにある能動的(あるいは直観的)な「好き」を
知覚できる方法を探しているのです。

 

直観的な感覚のなかでも、重視すべきこと  

 

今のところ、自分の中の主体的な「好き」を観測するには、
「手をつなぎたいと思うかどうか」という尺度が
最も適切な判別方法である、と思っています。

 

例えば私の場合、
あまり人と距離を詰めるのが得意/好きではないので、
「手を繋ぎたいなあ」とある種直観的に思った人については、
「一定距離を詰めて良い、むしろ詰めたい」と認識していることになり、
あ、これ「好きだ」と思っているのかも、ということでこれは納得がいくなと。 

 

 

f:id:cloalien:20170728163941p:plain

 

※「いい匂いだなあ」と思うこと、とかも候補ではあったのですが、
これは関係性の有無にあまり寄与しないのであくまで次点としました。

(自分のその人に対する距離感や態度ではなく、
ただ相手を判断するだけの尺度なので)

(でも付き合う人はみんな好きな匂いだったな、と思うと

直観のうちの大事な要素なのかも。。。)

「直観」は中長期的な関係を支える最重要事項である

 

個人的な感覚としては、そういう身体的(直観的)な良さを
双方に感じている関係であればあるほど、
その後仲が深まったとして、何らかの危機を乗り越えられる気がします。

(まあでも顔とかもそれに近いのかもしれないね。)

(そして、双方にそう思い合っている状態は理想的だしとても大事。
それこそ相手側のそれは認識できないので難しいわけですが。)

中長期的な関係性の維持という側面でも、
最初の身体的な直観を大事にすべきなのだと思います。

 

f:id:cloalien:20170729091350p:plain

 


参照

xn--pssr7mv4sjkcu0f.jp 

koimemo.com

 

「2人きりになりたいか、どうか」というのも、
先の身体的接触の話にも近いのかもしれませんね。

 

---

 

さて、今日は久しぶりにお休みできそうなので(涙)、
図書館で積読消化をしてきます。乱読じゃ・・・

 

それではあでぃおす!皆様良き週末を!

【恋愛小噺その4】好きのカタチ。 ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは。

最近エモい文章ばっかり書きたがる愛の権化(?)くろえです。

(エモいわけではなく、
自分から、今まで持っていたはずの「好き」の気持ちが
なくなっちゃうのが怖いだけかもしれない。
・・・というのはただの照れ隠しなのかもしれないですね、非常にわかりやすい)

 

さて、今回は「好き」という感情について
少し考えてみたので、書いてみます。

 

「恋愛 写真 フリー素材」の画像検索結果

 

好きの「カタチ」は人それぞれ。

 

好きの対象にもよるし、
好きの発信者にもよる。
好きという感情を持つ人の数だけ、
あるいはその対象物の数だけ、
好きの概念は形を変えうると思う。

 

世の中は「好き/嫌い」の二項対立・・・ではない。

 

好きと嫌いはわかりやすい二項対立だけど、
広く捉えると、世界を構成しているのは
「好き」と「嫌い」の二項対立ではなく、
「好き/嫌い(いわゆる関心。認識可能)」と「無関心(認識不可能)」
の二項対立のほうであることは明白だ。

 

「好き/嫌い」という認識を持つことはどういうことなのか?

 

そして「関心をもつこと」そのものは、
対人、モノ、場所と広く捉えられ、
自分を取り巻くおよそ全ての関係する事物が対象となりえる。

そのなかでも特に自分にとって重要なもの、
自己との向き合いを要するもの、が遡上にあがってくるのではないか。

 

こと人間に関して、好き嫌いの感情が湧くのは、ある種の必然。

 

上記のように、「自己との向き合いを要するもの」であり、
「一定交わる必然性がある」ものがその対象になりえるのだとすれば、
こと人間に対して好き・嫌いの感情を持つのはある種当然に見える。

 

「好き」はコントロール可能なのだろうか?

 

さて、そうなってくると次はその中身だ。

人間関係について考えるとき、「好き・嫌い」という感情は、
場の目的、個人の目的に合わせてコントロール可能なようにも見える。
本当だろうか。

言い換えれば、人との交わりには「思い込み」だけでOKなのか?
好きは思い込みで、意図的にコントロールできるのだろうか?

 

いまの自分が「嫌いなもの」については、きっと許容できない。

 

私は、そういうことではないようにも思う。
(最近特に思っている。)

認識下になかったものを認識し、それを好きになることはあり得る気もするが、

(自分との向き合いをふまえて)人として許容できない部分を持つ人を、
好きになることは難しい。そこは人工的に操作できるものではない。
どうしても首肯できない人は存在する。

そしてそれは自分の自分に対する認識の柔らかくなさを投影しているとも言える。

(これまで好きだった対象をどうしても首肯できなくなることもある。
これは、自分の変化に対応した結果の反応なのかもしれない。)

 

では、「許容できない人間」以外はどうなるのか?

 

許容できない=好きになれない人間が一定数存在するとして笑、
そうでない場合には、ある種「好きになろう」として(あるいはせず)、
好きになっている側面はあるのかもしれない。

であれば、交わる人は「みんな好き」ということになるわけであり、
実際のところ、そんな気もする。

 

好きであることと、関係性を築くことは少し違う。

 

首肯できない他人でないのであれば
濃淡はあれ好きという感情を持てるとわかってきたので、
次に、好きという感情がいかに人間関係に反映されるのかについて考えたい。

 

まず、前提として、異なる二者が存在する場合、
それぞれに対して抱く「好き」のかたちと、
相手が自分に対して抱く感情が掛け合わさったところに、
最適な交わり(冒していい領域と精神的な公開範囲)が決まる。

例えば「目的×関係性」といったように。

 

そしてそれは双方に主観的合理性を持っている(はず)。

 

上記の例として、ごく一般的な認識としての
「仕事上の上司とは寝ないよね」みたいなものは、
双方の双方に対する認識の結果だ。

仕事をする上で大事な存在である上司、という認識と、
同じく仕事の上で必要な部下、という認識がクロスした先には
よりよい仕事をする、ということしかない。はず。

 

まあ、ごくまれに、そういう関係のなかで一線を越える人も存在するが、
それだって双方の主観的合理性はあるのだろう。

感情が合致したところにそれがあったからであり、
世間の一般常識とは何ら関係なく
主体的には合理的な結論だと考えられる。

(例えば双方の制止する感情が弱かった、もしくは「好き」が強すぎたなど)

※筆者のコメントは差し控えますがあえて言えば好きにすればって感じ。

 

好きな人と心地よい関係を持てているだろうか?と自問し続けること。

 

上記のようなトピックは極端な話になってしまうが、
至極アタリマエのことを言っているようにも思う。

双方が主体的合理性を担保しながら、
好きな人と何らかの交わりを持てるように、
そしてそれが適切な距離感や領域、公開範囲であるように
そしてそれが相手にとっても心地よい関係性であるように、
常に自問し、自戒し続ける必要があり、
それを意識することによって、好きな人と心地よい人間関係が
構築できるようになるのではないかと考えている。

 

まあ要するに、お互い好きな方が幸せじゃんね!って話ですね。
(随分乱暴なシメ。)

 ---

今週も一週間お疲れ様でした!

調査終わって駄文書きたい気持ちが高じてしまった成れの果てでした。
あでぃおす。

【恋愛小噺その3】だって、好かれたいんだもん。 ~あるコンサルタントのひとりごと

おはようございます。

書きたい欲高まり気味のくろえです。
恋でもしているのだろうか。

 

さて、今朝、電車の中でふと思ったことを
書き散らしておこうと思います。

 

仕事の(ひいては生きることの)モチベーションっていろいろ。

 

対自分で言えば
何かができるようになりたい、
お金がほしい、名誉が欲しい、

対他人で言えば
誰かに貢献したい、
特定の誰かの役に立ちたい、
チームの役に立ちたい、
お客さんに貢献したい、

対象物で言えば
好きなことを突き詰めた先に何があるのか知りたい、
特定の領域に関わり続けたい、

など、色々あるだろうなと思います。

 

私の一番のモチベーションは「人に好かれたい」ということ。

 

自分が仕事でテンション上がっているときに
なんでテンションが上っているんだろう、と考えると、

  • お客さんにわたしの存在や仕事を認められている
  • 上司と一緒に何かをする中で、共感や共鳴をしてもらっていると感じる
  • 一定以上時間を過ごす場所のどこかに、自分のことを好きな誰かがいる

など、自分が他人から何らかのポジティブな感情を持たれている状態を
求めているんだなあと思いました。

 

でも、その前提には、
自分が(評価の対象となる)何らかのアクションをする必要があって、
それに対する反応を見て、心地よさを感じ、
そこから先に、その特定個人とよい関係を結ぶ(仕事ならいい仕事をする)、
ということが見えてくるという構造なんだろうな、
と行きの電車でふと、思ったんですよね。

 

要は承認欲求ということか。

 

社内や自分の所属しているコミュニティで
特定個人と親密な関係を築こうとする、とかも
一種この欲求に起因するものなのかもしれないなあと。

(いまはそれこそ社内恋愛などは
デメリットやリスクのほうが大きいと判断してるので、
そういったことは今後起こらないと思うけれど、
根源的な欲求に起因した合理的な行為だった、というのは
いまとなっては納得いくなあ、と思っている。)

 

しかし、相手との関係性や数とは別の話。

 

その相手はたくさんである必要もないんだろうな、とも思う。

そうやって自分を見守ってくれる人が、コミュニティ内に1人いればよくて、
別にファンをたくさん作りたいわけでもない、ということだ。


無差別承認欲求モンスターになるには、器用さも足りなければ、
そこまでの飽くなきモチベーションもない。

 

そこにいていいという安心感、
そして自分の活動をドライブさせるファクターとしての他者、
を求めているんでしょうね。

そのためには、ドライだけど、その特定個人と、
その場で深く関わる必要もないんだろうなと思います。
(好きになってもらうために必要だから、というだけかもしれない)

 

自立は分散だとか言うけど、それも傲慢な話。

 

こうやって見ていくと、「誰かが自分を好意的な目で見ていてくれること」
が行動のモチベーションになるんだから、
どういうコミュニティに行くにしても、そういう人がいてほしいな、と願ってしまうわけで。

だから出不精になるのかもしれない。

とはいえ、「自立は分散だ」とかいう美辞麗句も、
こうやって見ると「どこに行くにも承認欲求」みたいな構造にも見えてくる。

 

それは恥ずかしいことだ。

それは図々しくて浅はかなことだ。

 

それでも、生きていく。

 

でも、そういうもので生きていく人間なんだということを一定受け入れ、
どうすればそうなるのかをきちんと考え、
自分の行動をその道筋に沿って組み立てていく必要があるなと思いました。

 あくまで前向きに。

 

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以上、今日の備忘録でした。


(恋愛の話なのか仕事の話なのかよくわかんないな・・・)
(自分としてはほぼおなじ話なんだよな・・・)

 

怒涛の調査、あと10本!がんばろう。

【恋愛小噺その2】「一緒にいたい」ってなんだろう? ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは。

書いたつもりになるのがブログ。
仕事の隙間時間にやるのがブログ。
くろえです。

 

(そういう意味で言うと、6月の案件は
息抜きをしている隙がないくらい定型業務が多かった)

(今日はこれから調査でそれどころじゃないんだけど、
調査一本とんだということは、余裕があるのではないか、と
高をくくっている側面は否めない)

 

さて、前回に引き続き、恋愛小噺。

 

関連画像

 

今日のトピックはこれです、
「好きになる人と一緒にいたい人は同じなのか」

上記テーマについて考えていきたいと思います。

 

一緒に生きたいとは、お互いが良い影響を及ぼし合って前向きにあれる関係性であること

 

前回記事の神上司は言わずもがな既婚子持ちなので、
一旦横においておいたとして笑、

誰かのことを「好きである」ということと、
自分という存在が他者と関わり合う、という段になると、
それはまた別の話になるのではなかろうか。

 

例えば、これまた別にすごい好きだなあと思う人は存在するが、
自分が関わると壊れてしまいそうな人もいて、
そういう人とは交われない、引き受けられない、
ということになる、というのが典型例。

 

交わりという観点で言うと、
以下のようなステップで考えることになるかと思う。

 

前提その1:まずお互いの存在を認めあえること


つまりそれは好きだと思える端緒があり、その存在を認められること。
そして、それが片務的なものではなく、それぞれの心のなかにあるということ。
(前記事参照)

 

前提その2:コミュニケーションが発生すること

 

関わりたいという感情が双方にあること。
関心を持つだけではなく、そのことを相手に伝える関係性が前提。

 

①コミュニケーション様式が不快でないこと

 

上記の前提を満たしたとしても、
(それだって十分難しいんだけどさ)
ここから先が結構難しい。

 

距離感

すべての人間にはパーソナルスペースがあり、これは絶妙な差異がある。
距離感を著しく違う人同士が交わるのは、塵も積もればストレスだ。

なんかこの人近い!みたいな人と相容れるのは難しい。
かといって、極度に女慣れしていない人はどうだろうか。
物理的な距離が遠いのは、本当に打ち解ける気があるのだろうか、
と思わせるような側面もある。

上記からもわかるように、特に物理的な距離(パーソナルスペース)
については、相性しかない。

 

コミュニケーション量とその手段

コミュニケーション量やその方法についても同じで、
言葉によるコミュニケーションをどの程度好むのか、
それ以外の方法をどのくらい信用しているか、
コミュニケーション総量に対する価値観、などは本当に個体差がある。

(例えば私の場合、
好きな人とのコミュニケーションは多ければ多いほどよいし、
ポジ/ネガ問わず、考えていることの端緒に触れたいと思う。
言語によるコミュニケーションを好む一方で、それ以外の方法で
「察する」「感じる」という要素による瞬間もある。
こうやってみると理想ばかりの夢見少女感しかない)

 

コミュニケーションと礼節

また、礼節に関する価値観なども人それぞれ。


挨拶に重きを置かない人もいれば、

cakes.mu


初対面における礼節を重要視する人もいる。

www.bgfs.com


ここがまずフィットしないと、うまくいかない。

 

例えば、初対面から距離を詰めてくる人がいる。
(合コン、などではそういうことが起こりやすいのだろうか?)
初対面の人間を馬鹿にしているような言動は到底首肯されるべきではない・・・
と私は考える。これも価値観のうちのひとつで、繰り返すが、それは良し悪しではない。

 

UCDという思想

そして、これも一種の能力だが、UCDな会話ができるかも肝要だ。
※UCD=User Centered Design、相手中心に設計するという思想のこと

(もちろんトピックによってそうなりやすい/なりにくいはあるが)
相手の話を聞かずに自分のしたい話だけをする人と、
相手の話を汲み取ってコミュニケーションパスをしたい人は、
交わるとあまりいいことはない。

 

以上、見ていくとわかるように、
個人が持っているコミュニケーションの特性に対して、
フィットするのかどうか、というのは何にも勝る重要な要素である。

 

②そのコミュニケーションが前向きであること

 

上記ではコミュニケーション様式の整合性について話したが、
それだけではなく、コミュニケーションに臨むスタンスは、
(フェーズ感の差でもあるかもしれないが)前向きであれるのが良いと思う。

相手を許し、認め、物事を前に前進させようと思えること。
それがあることで初めて、コミュニケーションが心地よいだけでなく、
ある方向性を目指した合理性の高い関係性になるだろう。

 

前向きなコミュニケーションって、意外と難しい。
友達にでも、ぐちは言えるが、夢を語るのはより難しい。

(しかし、こと付き合う、一緒にいるという段になると、
基本スタンスが前向きでないと、
メンヘラ共依存からの突然崩壊シナリオか、
玉川上水でともに心中シナリオのどちらかになる)

 

③最後に大事なのは「祈り」

 

ここまで、特にコミュニケーションに関して書いてきたが、
結局最後に大事なのは「ここにいる相手は所詮他人である」
という前提の中で、いかに相手の幸せを祈れるか、
ということになる。(前提部分に戻ってきている感もあるが・・・)

それは他人への期待値などを超えた、ある種の「祈り」のような境地で、
そこに到れる、と思える関係性であるのであれば、
その関係性は一生涯続くものとなるのだろうと思う。

 

最後に

こと異性同士の関係とは、相補的なものなのであると思う。

男によって女は輝き、女によって男は戦える。
これを共依存と捉えるのではなく、いい循環と捉えたい。

そう言い合える人と一緒にいられる人生を目指し、
精進していこうと思う。

 

 

追記

因みにこれは良記事なので全人類的に読んだほうが良いと思います。

ameblo.jp

【恋愛小噺その1】「好き」ってなんだろう? ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは、お久しぶりです。

ブログはすっかりご無沙汰してしまいました。くろえです。

 正直、最近めっきり執筆意欲がなくなっていたわけですが、
そろそろ最近思っていることいろいろを
アウトプットしたくなってきたので、
戻ってまいりました。

近況報告


最近のわたしはというと。

自分の周囲の人間関係の閉鎖感
(なんせ100人規模のベンチャーですからね)
およびそれに伴う期待値の高さに絶望し、
他人への期待値を適性に調整し、世の中を知るべく
新しい人間関係を努めて求めておりました。
(ようは出会い厨・・・ではなく婚活とでも言おうか)

 

根が引きこもりで、初対面が苦手。
自己開示の度合いをコントロールできない。
他人に対する期待値を正しく設定できない。

 

そんな人間が初対面の人と会い続けた結果、
初回接触の方法などについては、
一定安定感が出てくるようになりました。

 

その一方で、初対面の人と出会うと
身構え、吐き気を催し、でも耐え、
解散してからどっと疲れる・・・
(相手の好き/嫌いにかかわらず)
という感じになってしまいました。

 

じょじょに色々直していきたいわけですが、
そんな武者修行(?)のなかで、
考えたことを、いくつか書き残していこうと思います。

 

今回は「恋愛小噺シリーズ」と題し、

「好きになるということ」
「一緒にいるということ」

これらについて考えていこうと思います。

「フリー素材 恋 写真」の画像検索結果

 

今日のトピックはこれです、
「好きになるとはどういうことか」。
上記テーマについて考えていきたいと思います。

 

世の中にはいろいろな人がいる。


失敗経験がある中でも自己確信を持つ人、
失敗を失敗と見なさないことで自分を固辞しようとする人、
失敗経験ゆえの諦念を持っている人、
自分ではできないから人を大事にして、人と生きていくことを選ぶ人。
コンプレックスを騙し騙し生きてる人、
コンプレックスを隠さない人。

世の中には実にいろんな人がいることが分かります。

 

好きになるのは、「生き方の志向性」なんだと思う


では、好きだなと思うのは、どういうものに対してなんでしょうか。
私は、それは「生き方の志向性」なんだなあと思っています。

 

上記のスタンスが決まるまでにどのような経験をしており、
結果どういう風に生きようとしているのか。
そしてそれがどのようにインターフェースに表出しているのか。
些細な挙動などに滲み出るその志向性こそが、
その人を好きになる最大要因なのではないかと考えます。

 

いまのわたしの場合、理想的な異性は自分の上司なんですが笑、
どういう人なのかというと、

・他人に対して謙虚で、自分のやるべきことを淡々とやる
(いわば苦労人なのだろうけど)
・他人への期待値を常に調整可能
(期待値が上振れしないのは良し悪しかもしれないが)
・他人のふっとした表情を捉えられる
(そして察した顔をする)
・自分の思ったことはまっすぐ言う

誠実・謙虚・人の痛みに敏感という最高上司。
(以上のろけ終了)

 

器・スペックは「足切り条件」にすぎない


こと婚活市場において話にあがるのは、
背格好・学歴・年収・顔などのスペック部分。

でも、どうやら(少なくとも自分、ないし多くの人間にとっては)
「スペックは足切り条件以上でも以下でもない」
ということなのではないかと考えます。

例え年収が3,000万オーバーだったとしても、
その生き様が美しくなかったら、好きにはなれない。


あくまで足切り、と捉えることで、無駄な要件に振り回されず
好き、という感情に対してまっすぐ向き合える気がします。

 

(ただ、足切り条件はしっかりあることが殆どなので、
それは自分の内なる声を聞き、拘泥しすぎない程度に持っておくべき
だとは思いますけどね。なんでもOKだと人生の時間をムダにするので)

(それでも、やっぱり、恋愛よりに考えると、やっぱり「萌え」というか
偏愛というのはあると思う。私は白肌薄顔が好き、みたいなやつ。
それは頭で考えて治るものではない。あくまで萌えの琴線の話だけど、
そこをどこまで突き詰め、自分自身にとって何だと捉えるのかは、
人それぞれですね。ここまで言っておいてアレだけど、私は萌え超大事派。)

 

終わりに


皆さんの「好き」はどんな形でしょうか。
偉そうな口だけ聞いて立ち去りますね。
ご意見大歓迎。もっと好きを考える人生にしたいです。

今日も良い日となりますように。

※次回更新は7月23日ごろを予定しております

ゆずのライブに行って、一生彼等と添い遂げようと思った話。 (20th Anniversary DOME TOUR 2017 ゆずイロハ@東京ドーム 2017年5月21日(日))

第二弾です。今回は、感想を。
まとまらないけど、書いてみます。

ゆずイロハを通じて思ったこと

今回は、ゆずのライブ、ひいてはゆずとの向き合い方に
大きな変化が生まれたライブだったように感じます。

その理由は、ゆず自身の変化、自分自身の変化、
どちらもあるように思います。

 

ゆず自身の変化

最後のMCでの悠仁の言葉。

最も印象的だったのは、

悠仁「いつもくそったれって・・・ゆずをやってて一番くそったれって思うのは・・・
あんときはよかった・・・って言われるのが一番くやしいです。そう思ってほしくない。
みんなに今が一番最高だって思ってほしくて、こうして20年歩んできました。
ゆずのファンでよかったって思えるように俺たちは走り続けるからこれからもついてこいよ。」

これですね。

これはゆずの苦悩なんだろうな、と胸が傷んだ。

 

ゆずのファンは先述の通り古参が多く、
その「栄光の時代」もまた、過去であることが多い。

人間が過去を懐古する生き物なのだとすれば、
前進しようとするゆずと、その前進についていけない者、
その歪みや摩擦が起こるのは避けられないからだ。

 

その違和感は、いつもゆずがアルバムを出すたび、
ライブをやるたび、誰も口には出さないが、
少しずつ心にかかえていたところだったのだろうと思う。

だから、それが言葉になって出てきたのは、
私にとってはすごく好感が持てる部分だった。

 

自分自身の変化

そして、その後心にしみたのはここ。

悠仁「俺たちの曲がみんなの心のそばに寄り添えてたらいいなっておこがましいけど思っていて、
そして時々、みんなからのメッセージをみると寄り添えてるとも思えます。
そしてなにより、みんなも俺たちの曲を愛してくれて、寄り添ってくれてるんだなって思います。
本当に本当にいつもありがとうございます。」

 

提供者目線でなく、相互依存関係のような関係。

今までのゆずのライブは、
ゆずというフィルターを通して、
自分の人生を見つめ直すいとなみだった。

毎回、自分の過去を引き出し、
今の自分の反応を観測し、自分の変化を冷静に見る、
という機会にしていたのが正直なところだ。

ここにおいて、「ゆずへの愛」は優先度が下がる。

自分のことばかりだったのだ。

ここで私ははっとした。

私自身がこれからはゆずというフォークデュオバンドに対して
寄り添い、相互に感情を共有できるような存在に見えたのだ(おこがましながら)。

猛烈に愛おしい、憧れのアーティストではなく、
等身大の2人の人間として、心の底から彼等を応援し、
一生寄り添っていきたい、と思ったのであった。

f:id:cloalien:20170524160523j:plain

そういうわけで、私は次のライブをとても楽しみにしている。

愛だなあ、という曖昧な感想を残し、お客さん先に向かうことにしよう。

【セトリ/レポ】20th Anniversary DOME TOUR 2017 ゆずイロハ@東京ドーム 2017年5月21日(日)【その1】

ゆずのライブは、もう何回目になるだろうか。
ライブに行くようになり、ファンクラブに入って、
収録から大きなライブまで、無思考課金を繰り返してきた。


未発表曲までラジオ音源を漁りきり、
いわゆる「古参懐古厨」として、ゆずと向き合い続けてきた。

 

ライブに行くたびに自分と向き合う機会としていたが、
今回は少し様子が違ったようだったので、記載しておく。

 

まずはセトリと簡単な感想から。

 

~準備運動~

0:ラジオ体操第一

ゆずガチャと一連のお土産類を買って入場。

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因みに「ゆずのね」が出ました。

今回は1階スタンドの7列目。
席運はいつもいいと感じるほどの良席。

ラジオ体操も、ドームだと壮観。

 

~弾き語り~

1:贈る詩
2:サヨナラバス
3:春風
4:いつか
5:月曜日の週末
6:青

 

おふたりはバイクで登場。

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こ、この距離ですよ・・・!?
ゆずが、否、岩沢が、近すぎて死ぬ。

口を開けば「はあああ・・・やばい・・・尊い・・・」しか出てこない。

 

まずは安定の弾き語りパート。
「ああ、ライブに来たな」としみじみと感じる。

贈る詩で始まるのは斬新なのでは?そうでもない?
どんな曲で始まっても、最初は違和感ないけど、
今回は泣き曲で入らなかったのが印象的でした。

サヨナラバスで初回の号泣。
思い出を積みすぎているのと、MVを思い出しながら。
やっぱり君が好きなんだ」でぐぐぐっと心に来るものがありますね・・・

春風も引き続き号泣。
「言葉にすれば壊れそうです」
こんな大箱でそんな繊細な言葉をッ・・・

いつかはギターかっこよすぎて惚れ惚れ。
昔、二人で駐車場の車の中で、窓が白くなるまで歌ってたという思い出話を聞き、
彼等の青春に思いを馳せた石川町を思い出し、こちらも懐古モードに。

月曜日の週末は、たまたまライブ前に聞いていたので
余計にテンションの上昇が抑えられず・・・。

青もMVを思い出して、胸がキュッとなった。
ここまで懐古厨全開。

 

~恒例・会場アンケート~

会場アンケートは、やはり古参が多い印象。

ゆずのファンの客層は30代~40代女性が中心のイメージ。
もっと言えば、中高生時代のスクールカースト偏差値48~53くらいなイメージ。
イケイケのウェイではないけど、サブカルに傾倒するほどのヲタではない、みたいな。
(失礼かもしれないが、いってい的を射ていると思う)

(批評厨だけど布教者ではないので、それでいいと思ってます。ていうか私もだし)

 

~バンド~

7:ヒカレ
8:イロトリドリ
9:表裏一体
10:桜会
11:アゲイン2
12:虹

 

ここで場所を移し、バンド体制へ。

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表裏一体はやっぱりかっこいいなーと。

それから、アゲイン2が聞けたのは嬉しかった。

「誰もがみんな一人ぼっちを抱きしめながら生きている」
ここで再びの泣きポイント。

(いやしかし踊ったり泣いたり飛んだりはねたり歌ったり、
今回のライブは忙しかった・・・)

 あと桜会ね。セットがきれいだった。

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~いつもの小ネタ~

 

モニターには2067年、ゆずの2人が90歳のシーンに。
岩沢厚治(90)のリアリティ。

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今回のライブ全体を通じて、
時を越えてゆずが提供できるものについて
すごく考えたんだろうなあ、という印象。

個人的には、2027年のエベレスト山頂ライブよりも、
2037年のゆず60歳で建設した総額35億円のゆず太郎ランドよりも、
2047年のゆず70歳での悠仁大統領、岩沢副大統領就任よりも、
90歳のゆずの所帯じみた感じが、現在の願望を投影しているんだろうなと感じた。

ゆず自身が描く未来の方向性も、こちらの方向に寄っている印象。
着実に、でも、美しく年を取っていきたいという意志なのかなと思いました。

(もちろん、自分の願望を投影している可能性も多分にある)

 

~メドレー~

13:20周年にちなんで20曲イロハメドレー
(with you-終わらない歌-飛べない鳥-友~旅立ちの時-よろこびのうた-REASON-超特急-うまく言えない-OLA!!-シシカバブー-センチメンタル-逢いたい-いちご-Yesterday and Tomorrow-Hey和-スマイル-恋の歌謡日-LOVE & PEACH-友達の唄-雨のち晴レルヤ)

 

メドレーは一長一短だけど、
聞けること自体が価値だったので、嬉しかった。

「飛べない鳥」の岩沢神高音で再び号泣し、
「REASON」からの「超特急」で惚れ惚れし、
「センチメンタル」で再び号泣し、
「いちご」のMVを思い出してほほえましい気持ちになり、
「恋の歌謡日」でムーチョ様にうっとりし、
「LOVE&PEACH」で爆踊りし、
「友達の唄」で心に平安が訪れ、
「雨のち晴レルヤ」で号泣。

全体的にメドレーの選曲は神ってたと思う。

もちろん収録曲から選んでいるんだろうけど、
欲を言えばどうしても「始発列車」が聞きたかった。。。笑

 

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~盛り上がりパート~

14:タッタ
15:夏色

 

今回は初めてタンバリンが参戦!
いつもゆずのライブに来ると「イマイチ盛り上がりきらない」
残尿感を心苦しく思っていたので、
今回の取り組みは非常に高評価。
きっちり盛り上がりきれた印象でした。

夏色はそりゃ当然ですね。
「もう一回」の嵐でしたね、3回やったのかな。
バカヤローからのどや顔も愛おしい。

ただし、このあたりで私自身が体力切れを感じる。
25歳、老けてきたのか・・・?

 

~アンコール~

16:カナリヤ
17:少年
18:栄光の架橋

 

ドームは周りの声が伝わりにくいのでどうかなと思ったけど、
今回の「贈る詩」

 

は結構主体的に頑張る席だったかなと思い、
個人的には満足感高め。きらきら~。

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カナリヤは真顔鑑賞。
ここのところのゆずの曲のなかではずしり、と重い物があるような気がして、
思わず聞き入ってしまうような、新しいタイプの曲。

 

少年は跳ね続けるだけの神曲
私の人生のコンセプトソングでもあるくらい大事な曲なので、
これが聞けただけでもライブの価値はあるなと思った。
「いくら背伸びをしてみても 相変わらず地球はじっくり回ってる
いま自分にできることを ひたすらに流されずにやってみよう」

 

~新曲発表~

で、新曲の発表。
EPが2本リリースされるとな。

 

4LOVE

謳おう

最後は栄光の架け橋で〆。

 

岩沢しゃま~~~~~

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熱い握手。

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今回も、じんわりあたたかい
とてもいいライブでした。

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感想は次の記事で書きます!

 

【参考】

 

良記事なので記載します。

realsound.jp