エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

【備忘録】ゆず好きな歌ランキング!ベスト50をつけてみた

皆さんこんにちは。

今日はこんなスレッドに感化されちまったので、
自分的ゆず大好きランキングを雑に付けました。

blog.livedoor.jp

ご笑覧ください。

 

50位~40位

 

 40位 贈る詩
41位 シュビドゥバー
42位 冷めたコーヒー
43位 空模様
44位 ふくろ
45位 今夜君を迎えに行くよ
46位 〜風まかせ〜
47位 日だまりにて
48位 表裏一体
49位 桜木町
50位 スミレ

 

39位~30位

 

30位 サヨナラバス
31位 日曜日の午後
32位 センチメンタル
33位 雨と泪
34位 夕暮れどき
35位 風に吹かれた
36位 連呼
37位 かまぼこ
38位 使い捨て世代
39位 朝もや

 

29位~20位

 

20位 Re:スタート
21位 時刻表
22位 はじめの一歩
23位 向日葵ガ咲ク時
24位 ダスキン
25位 風とともに
26位 旅立ちのナンバー
27位 威風堂々
28位 飛べない鳥
29位 方程式2

 

19位~10位

 

10位 少年
11位 かえるのご帰宅
12位 月影
13位 街灯
14位 直径5mm
15位 春三
16位 以上
17位 飛行機雲
18位 君宛てのメロディー
19位 過食な健康食

 

10位~5位

 

5位 月曜日の週末
6位 3カウント
7位 朝もやけ
8位シャララン
9位 アゲイン

 

5位~1位

 

1位 始発列車
2位 チョコレート
3位 くず星
4位 人間狂想曲
5位 濃

 

というわけで、1位は悩みに悩んだ上で
「始発列車」とさせていただきました。

今週も頑張ってまいりましょう。

【恋愛小噺その5】「好き」を直観的に自覚する尺度とは? ~あるコンサルタントのひとりごと

おはようございます。

昨晩はチームの大好き上司と飲みに行くも、
席が遠くて&場の盛り上がりから直接あまり話せず
悲しみを感じながら、つくづく場への精神的な適応性の低さを反省しました。

飲み会はやっぱり苦手なくろえです。

 

昨日少し書いていた記事の追記についてその後考えたので、
再度独立して掲載することにしました。

お題は、「恋愛として好き」であることを直観的に判別する方法についてです。

 

(いってい拗らせているときには、自分のことがわからなくなり、
「直観する」という言葉の意味すらもよくわからなくなって、
「直観」を感知する方法を言語化しようとしている、ということです。)

(でも、受動的に生きていてかつ言語化しないと物事を認識できない人間が
自分の主体的な心の動きを観測しようというのは、大事なことだと思う、
と自己正当化を図ってみたり。。。)

 

検索してみた

 

Google先生に「自分 好き 判別」と問いかけてみると、
「相手が自分を好きなのか判別する方法!」みたいな記事ばかり出てきて、
世間のニーズはそちら側なんだな、と思いつつ、
いくつかの当てはまりそうな記事を読んでわかったことを以下にまとめます。

 

人生のマインドシェアを獲得していること=好き?

 

どうやら

・相手に関する情報収集をする(相性占い、趣味、仕事についてなど)
・相手を目で追う(これはそうかもね)
・相手に会う前に高揚感を感じる(ドキドキ、わくわく、ある種の緊張、あるいは帰りたい感)
・相手と話すとき、普段どおりの性格で接することができない
・相手と一緒にいない時でも、もっと会いたいと思う
・相手のことを好きであるということを公言できない

といったことが「好き」のシグナルとして紹介されているようです。

 

自分の人生の時間のなかで一定のマインドシェアを獲得している
ということすなわち、「好き」と捉える、という話のようです。

ただ、上記は「好きである」という納得があっての行為でもあるように見えて、
ここで扱いたいのは、もっと原始的な身体的感覚(=「直観」)の話かなと。

自分がその人のことを好きだと思っているのか、
相手から来ているものに対して受動的に反応しているのか、
ということの境界は往々にして淡く、自覚しづらい。

だからこそ、自分のなかにある能動的(あるいは直観的)な「好き」を
知覚できる方法を探しているのです。

 

直観的な感覚のなかでも、重視すべきこと  

 

今のところ、自分の中の主体的な「好き」を観測するには、
「手をつなぎたいと思うかどうか」という尺度が
最も適切な判別方法である、と思っています。

 

例えば私の場合、
あまり人と距離を詰めるのが得意/好きではないので、
「手を繋ぎたいなあ」とある種直観的に思った人については、
「一定距離を詰めて良い、むしろ詰めたい」と認識していることになり、
あ、これ「好きだ」と思っているのかも、ということでこれは納得がいくなと。 

 

 

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※「いい匂いだなあ」と思うこと、とかも候補ではあったのですが、
これは関係性の有無にあまり寄与しないのであくまで次点としました。

(自分のその人に対する距離感や態度ではなく、
ただ相手を判断するだけの尺度なので)

(でも付き合う人はみんな好きな匂いだったな、と思うと

直観のうちの大事な要素なのかも。。。)

「直観」は中長期的な関係を支える最重要事項である

 

個人的な感覚としては、そういう身体的(直観的)な良さを
双方に感じている関係であればあるほど、
その後仲が深まったとして、何らかの危機を乗り越えられる気がします。

(まあでも顔とかもそれに近いのかもしれないね。)

(そして、双方にそう思い合っている状態は理想的だしとても大事。
それこそ相手側のそれは認識できないので難しいわけですが。)

中長期的な関係性の維持という側面でも、
最初の身体的な直観を大事にすべきなのだと思います。

 

f:id:cloalien:20170729091350p:plain

 


参照

xn--pssr7mv4sjkcu0f.jp 

koimemo.com

 

「2人きりになりたいか、どうか」というのも、
先の身体的接触の話にも近いのかもしれませんね。

 

---

 

さて、今日は久しぶりにお休みできそうなので(涙)、
図書館で積読消化をしてきます。乱読じゃ・・・

 

それではあでぃおす!皆様良き週末を!

【恋愛小噺その4】好きのカタチ。 ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは。

最近エモい文章ばっかり書きたがる愛の権化(?)くろえです。

(エモいわけではなく、
自分から、今まで持っていたはずの「好き」の気持ちが
なくなっちゃうのが怖いだけかもしれない。
・・・というのはただの照れ隠しなのかもしれないですね、非常にわかりやすい)

 

さて、今回は「好き」という感情について
少し考えてみたので、書いてみます。

 

「恋愛 写真 フリー素材」の画像検索結果

 

好きの「カタチ」は人それぞれ。

 

好きの対象にもよるし、
好きの発信者にもよる。
好きという感情を持つ人の数だけ、
あるいはその対象物の数だけ、
好きの概念は形を変えうると思う。

 

世の中は「好き/嫌い」の二項対立・・・ではない。

 

好きと嫌いはわかりやすい二項対立だけど、
広く捉えると、世界を構成しているのは
「好き」と「嫌い」の二項対立ではなく、
「好き/嫌い(いわゆる関心。認識可能)」と「無関心(認識不可能)」
の二項対立のほうであることは明白だ。

 

「好き/嫌い」という認識を持つことはどういうことなのか?

 

そして「関心をもつこと」そのものは、
対人、モノ、場所と広く捉えられ、
自分を取り巻くおよそ全ての関係する事物が対象となりえる。

そのなかでも特に自分にとって重要なもの、
自己との向き合いを要するもの、が遡上にあがってくるのではないか。

 

こと人間に関して、好き嫌いの感情が湧くのは、ある種の必然。

 

上記のように、「自己との向き合いを要するもの」であり、
「一定交わる必然性がある」ものがその対象になりえるのだとすれば、
こと人間に対して好き・嫌いの感情を持つのはある種当然に見える。

 

「好き」はコントロール可能なのだろうか?

 

さて、そうなってくると次はその中身だ。

人間関係について考えるとき、「好き・嫌い」という感情は、
場の目的、個人の目的に合わせてコントロール可能なようにも見える。
本当だろうか。

言い換えれば、人との交わりには「思い込み」だけでOKなのか?
好きは思い込みで、意図的にコントロールできるのだろうか?

 

いまの自分が「嫌いなもの」については、きっと許容できない。

 

私は、そういうことではないようにも思う。
(最近特に思っている。)

認識下になかったものを認識し、それを好きになることはあり得る気もするが、

(自分との向き合いをふまえて)人として許容できない部分を持つ人を、
好きになることは難しい。そこは人工的に操作できるものではない。
どうしても首肯できない人は存在する。

そしてそれは自分の自分に対する認識の柔らかくなさを投影しているとも言える。

(これまで好きだった対象をどうしても首肯できなくなることもある。
これは、自分の変化に対応した結果の反応なのかもしれない。)

 

では、「許容できない人間」以外はどうなるのか?

 

許容できない=好きになれない人間が一定数存在するとして笑、
そうでない場合には、ある種「好きになろう」として(あるいはせず)、
好きになっている側面はあるのかもしれない。

であれば、交わる人は「みんな好き」ということになるわけであり、
実際のところ、そんな気もする。

 

好きであることと、関係性を築くことは少し違う。

 

首肯できない他人でないのであれば
濃淡はあれ好きという感情を持てるとわかってきたので、
次に、好きという感情がいかに人間関係に反映されるのかについて考えたい。

 

まず、前提として、異なる二者が存在する場合、
それぞれに対して抱く「好き」のかたちと、
相手が自分に対して抱く感情が掛け合わさったところに、
最適な交わり(冒していい領域と精神的な公開範囲)が決まる。

例えば「目的×関係性」といったように。

 

そしてそれは双方に主観的合理性を持っている(はず)。

 

上記の例として、ごく一般的な認識としての
「仕事上の上司とは寝ないよね」みたいなものは、
双方の双方に対する認識の結果だ。

仕事をする上で大事な存在である上司、という認識と、
同じく仕事の上で必要な部下、という認識がクロスした先には
よりよい仕事をする、ということしかない。はず。

 

まあ、ごくまれに、そういう関係のなかで一線を越える人も存在するが、
それだって双方の主観的合理性はあるのだろう。

感情が合致したところにそれがあったからであり、
世間の一般常識とは何ら関係なく
主体的には合理的な結論だと考えられる。

(例えば双方の制止する感情が弱かった、もしくは「好き」が強すぎたなど)

※筆者のコメントは差し控えますがあえて言えば好きにすればって感じ。

 

好きな人と心地よい関係を持てているだろうか?と自問し続けること。

 

上記のようなトピックは極端な話になってしまうが、
至極アタリマエのことを言っているようにも思う。

双方が主体的合理性を担保しながら、
好きな人と何らかの交わりを持てるように、
そしてそれが適切な距離感や領域、公開範囲であるように
そしてそれが相手にとっても心地よい関係性であるように、
常に自問し、自戒し続ける必要があり、
それを意識することによって、好きな人と心地よい人間関係が
構築できるようになるのではないかと考えている。

 

まあ要するに、お互い好きな方が幸せじゃんね!って話ですね。
(随分乱暴なシメ。)

 ---

今週も一週間お疲れ様でした!

調査終わって駄文書きたい気持ちが高じてしまった成れの果てでした。
あでぃおす。

【恋愛小噺その3】だって、好かれたいんだもん。 ~あるコンサルタントのひとりごと

おはようございます。

書きたい欲高まり気味のくろえです。
恋でもしているのだろうか。

 

さて、今朝、電車の中でふと思ったことを
書き散らしておこうと思います。

 

仕事の(ひいては生きることの)モチベーションっていろいろ。

 

対自分で言えば
何かができるようになりたい、
お金がほしい、名誉が欲しい、

対他人で言えば
誰かに貢献したい、
特定の誰かの役に立ちたい、
チームの役に立ちたい、
お客さんに貢献したい、

対象物で言えば
好きなことを突き詰めた先に何があるのか知りたい、
特定の領域に関わり続けたい、

など、色々あるだろうなと思います。

 

私の一番のモチベーションは「人に好かれたい」ということ。

 

自分が仕事でテンション上がっているときに
なんでテンションが上っているんだろう、と考えると、

  • お客さんにわたしの存在や仕事を認められている
  • 上司と一緒に何かをする中で、共感や共鳴をしてもらっていると感じる
  • 一定以上時間を過ごす場所のどこかに、自分のことを好きな誰かがいる

など、自分が他人から何らかのポジティブな感情を持たれている状態を
求めているんだなあと思いました。

 

でも、その前提には、
自分が(評価の対象となる)何らかのアクションをする必要があって、
それに対する反応を見て、心地よさを感じ、
そこから先に、その特定個人とよい関係を結ぶ(仕事ならいい仕事をする)、
ということが見えてくるという構造なんだろうな、
と行きの電車でふと、思ったんですよね。

 

要は承認欲求ということか。

 

社内や自分の所属しているコミュニティで
特定個人と親密な関係を築こうとする、とかも
一種この欲求に起因するものなのかもしれないなあと。

(いまはそれこそ社内恋愛などは
デメリットやリスクのほうが大きいと判断してるので、
そういったことは今後起こらないと思うけれど、
根源的な欲求に起因した合理的な行為だった、というのは
いまとなっては納得いくなあ、と思っている。)

 

しかし、相手との関係性や数とは別の話。

 

その相手はたくさんである必要もないんだろうな、とも思う。

そうやって自分を見守ってくれる人が、コミュニティ内に1人いればよくて、
別にファンをたくさん作りたいわけでもない、ということだ。


無差別承認欲求モンスターになるには、器用さも足りなければ、
そこまでの飽くなきモチベーションもない。

 

そこにいていいという安心感、
そして自分の活動をドライブさせるファクターとしての他者、
を求めているんでしょうね。

そのためには、ドライだけど、その特定個人と、
その場で深く関わる必要もないんだろうなと思います。
(好きになってもらうために必要だから、というだけかもしれない)

 

自立は分散だとか言うけど、それも傲慢な話。

 

こうやって見ていくと、「誰かが自分を好意的な目で見ていてくれること」
が行動のモチベーションになるんだから、
どういうコミュニティに行くにしても、そういう人がいてほしいな、と願ってしまうわけで。

だから出不精になるのかもしれない。

とはいえ、「自立は分散だ」とかいう美辞麗句も、
こうやって見ると「どこに行くにも承認欲求」みたいな構造にも見えてくる。

 

それは恥ずかしいことだ。

それは図々しくて浅はかなことだ。

 

それでも、生きていく。

 

でも、そういうもので生きていく人間なんだということを一定受け入れ、
どうすればそうなるのかをきちんと考え、
自分の行動をその道筋に沿って組み立てていく必要があるなと思いました。

 あくまで前向きに。

 

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以上、今日の備忘録でした。


(恋愛の話なのか仕事の話なのかよくわかんないな・・・)
(自分としてはほぼおなじ話なんだよな・・・)

 

怒涛の調査、あと10本!がんばろう。

【恋愛小噺その2】「一緒にいたい」ってなんだろう? ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは。

書いたつもりになるのがブログ。
仕事の隙間時間にやるのがブログ。
くろえです。

 

(そういう意味で言うと、6月の案件は
息抜きをしている隙がないくらい定型業務が多かった)

(今日はこれから調査でそれどころじゃないんだけど、
調査一本とんだということは、余裕があるのではないか、と
高をくくっている側面は否めない)

 

さて、前回に引き続き、恋愛小噺。

 

関連画像

 

今日のトピックはこれです、
「好きになる人と一緒にいたい人は同じなのか」

上記テーマについて考えていきたいと思います。

 

一緒に生きたいとは、お互いが良い影響を及ぼし合って前向きにあれる関係性であること

 

前回記事の神上司は言わずもがな既婚子持ちなので、
一旦横においておいたとして笑、

誰かのことを「好きである」ということと、
自分という存在が他者と関わり合う、という段になると、
それはまた別の話になるのではなかろうか。

 

例えば、これまた別にすごい好きだなあと思う人は存在するが、
自分が関わると壊れてしまいそうな人もいて、
そういう人とは交われない、引き受けられない、
ということになる、というのが典型例。

 

交わりという観点で言うと、
以下のようなステップで考えることになるかと思う。

 

前提その1:まずお互いの存在を認めあえること


つまりそれは好きだと思える端緒があり、その存在を認められること。
そして、それが片務的なものではなく、それぞれの心のなかにあるということ。
(前記事参照)

 

前提その2:コミュニケーションが発生すること

 

関わりたいという感情が双方にあること。
関心を持つだけではなく、そのことを相手に伝える関係性が前提。

 

①コミュニケーション様式が不快でないこと

 

上記の前提を満たしたとしても、
(それだって十分難しいんだけどさ)
ここから先が結構難しい。

 

距離感

すべての人間にはパーソナルスペースがあり、これは絶妙な差異がある。
距離感を著しく違う人同士が交わるのは、塵も積もればストレスだ。

なんかこの人近い!みたいな人と相容れるのは難しい。
かといって、極度に女慣れしていない人はどうだろうか。
物理的な距離が遠いのは、本当に打ち解ける気があるのだろうか、
と思わせるような側面もある。

上記からもわかるように、特に物理的な距離(パーソナルスペース)
については、相性しかない。

 

コミュニケーション量とその手段

コミュニケーション量やその方法についても同じで、
言葉によるコミュニケーションをどの程度好むのか、
それ以外の方法をどのくらい信用しているか、
コミュニケーション総量に対する価値観、などは本当に個体差がある。

(例えば私の場合、
好きな人とのコミュニケーションは多ければ多いほどよいし、
ポジ/ネガ問わず、考えていることの端緒に触れたいと思う。
言語によるコミュニケーションを好む一方で、それ以外の方法で
「察する」「感じる」という要素による瞬間もある。
こうやってみると理想ばかりの夢見少女感しかない)

 

コミュニケーションと礼節

また、礼節に関する価値観なども人それぞれ。


挨拶に重きを置かない人もいれば、

cakes.mu


初対面における礼節を重要視する人もいる。

www.bgfs.com


ここがまずフィットしないと、うまくいかない。

 

例えば、初対面から距離を詰めてくる人がいる。
(合コン、などではそういうことが起こりやすいのだろうか?)
初対面の人間を馬鹿にしているような言動は到底首肯されるべきではない・・・
と私は考える。これも価値観のうちのひとつで、繰り返すが、それは良し悪しではない。

 

UCDという思想

そして、これも一種の能力だが、UCDな会話ができるかも肝要だ。
※UCD=User Centered Design、相手中心に設計するという思想のこと

(もちろんトピックによってそうなりやすい/なりにくいはあるが)
相手の話を聞かずに自分のしたい話だけをする人と、
相手の話を汲み取ってコミュニケーションパスをしたい人は、
交わるとあまりいいことはない。

 

以上、見ていくとわかるように、
個人が持っているコミュニケーションの特性に対して、
フィットするのかどうか、というのは何にも勝る重要な要素である。

 

②そのコミュニケーションが前向きであること

 

上記ではコミュニケーション様式の整合性について話したが、
それだけではなく、コミュニケーションに臨むスタンスは、
(フェーズ感の差でもあるかもしれないが)前向きであれるのが良いと思う。

相手を許し、認め、物事を前に前進させようと思えること。
それがあることで初めて、コミュニケーションが心地よいだけでなく、
ある方向性を目指した合理性の高い関係性になるだろう。

 

前向きなコミュニケーションって、意外と難しい。
友達にでも、ぐちは言えるが、夢を語るのはより難しい。

(しかし、こと付き合う、一緒にいるという段になると、
基本スタンスが前向きでないと、
メンヘラ共依存からの突然崩壊シナリオか、
玉川上水でともに心中シナリオのどちらかになる)

 

③最後に大事なのは「祈り」

 

ここまで、特にコミュニケーションに関して書いてきたが、
結局最後に大事なのは「ここにいる相手は所詮他人である」
という前提の中で、いかに相手の幸せを祈れるか、
ということになる。(前提部分に戻ってきている感もあるが・・・)

それは他人への期待値などを超えた、ある種の「祈り」のような境地で、
そこに到れる、と思える関係性であるのであれば、
その関係性は一生涯続くものとなるのだろうと思う。

 

最後に

こと異性同士の関係とは、相補的なものなのであると思う。

男によって女は輝き、女によって男は戦える。
これを共依存と捉えるのではなく、いい循環と捉えたい。

そう言い合える人と一緒にいられる人生を目指し、
精進していこうと思う。

 

 

追記

因みにこれは良記事なので全人類的に読んだほうが良いと思います。

ameblo.jp

【恋愛小噺その1】「好き」ってなんだろう? ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは、お久しぶりです。

ブログはすっかりご無沙汰してしまいました。くろえです。

 正直、最近めっきり執筆意欲がなくなっていたわけですが、
そろそろ最近思っていることいろいろを
アウトプットしたくなってきたので、
戻ってまいりました。

近況報告


最近のわたしはというと。

自分の周囲の人間関係の閉鎖感
(なんせ100人規模のベンチャーですからね)
およびそれに伴う期待値の高さに絶望し、
他人への期待値を適性に調整し、世の中を知るべく
新しい人間関係を努めて求めておりました。
(ようは出会い厨・・・ではなく婚活とでも言おうか)

 

根が引きこもりで、初対面が苦手。
自己開示の度合いをコントロールできない。
他人に対する期待値を正しく設定できない。

 

そんな人間が初対面の人と会い続けた結果、
初回接触の方法などについては、
一定安定感が出てくるようになりました。

 

その一方で、初対面の人と出会うと
身構え、吐き気を催し、でも耐え、
解散してからどっと疲れる・・・
(相手の好き/嫌いにかかわらず)
という感じになってしまいました。

 

じょじょに色々直していきたいわけですが、
そんな武者修行(?)のなかで、
考えたことを、いくつか書き残していこうと思います。

 

今回は「恋愛小噺シリーズ」と題し、

「好きになるということ」
「一緒にいるということ」

これらについて考えていこうと思います。

「フリー素材 恋 写真」の画像検索結果

 

今日のトピックはこれです、
「好きになるとはどういうことか」。
上記テーマについて考えていきたいと思います。

 

世の中にはいろいろな人がいる。


失敗経験がある中でも自己確信を持つ人、
失敗を失敗と見なさないことで自分を固辞しようとする人、
失敗経験ゆえの諦念を持っている人、
自分ではできないから人を大事にして、人と生きていくことを選ぶ人。
コンプレックスを騙し騙し生きてる人、
コンプレックスを隠さない人。

世の中には実にいろんな人がいることが分かります。

 

好きになるのは、「生き方の志向性」なんだと思う


では、好きだなと思うのは、どういうものに対してなんでしょうか。
私は、それは「生き方の志向性」なんだなあと思っています。

 

上記のスタンスが決まるまでにどのような経験をしており、
結果どういう風に生きようとしているのか。
そしてそれがどのようにインターフェースに表出しているのか。
些細な挙動などに滲み出るその志向性こそが、
その人を好きになる最大要因なのではないかと考えます。

 

いまのわたしの場合、理想的な異性は自分の上司なんですが笑、
どういう人なのかというと、

・他人に対して謙虚で、自分のやるべきことを淡々とやる
(いわば苦労人なのだろうけど)
・他人への期待値を常に調整可能
(期待値が上振れしないのは良し悪しかもしれないが)
・他人のふっとした表情を捉えられる
(そして察した顔をする)
・自分の思ったことはまっすぐ言う

誠実・謙虚・人の痛みに敏感という最高上司。
(以上のろけ終了)

 

器・スペックは「足切り条件」にすぎない


こと婚活市場において話にあがるのは、
背格好・学歴・年収・顔などのスペック部分。

でも、どうやら(少なくとも自分、ないし多くの人間にとっては)
「スペックは足切り条件以上でも以下でもない」
ということなのではないかと考えます。

例え年収が3,000万オーバーだったとしても、
その生き様が美しくなかったら、好きにはなれない。


あくまで足切り、と捉えることで、無駄な要件に振り回されず
好き、という感情に対してまっすぐ向き合える気がします。

 

(ただ、足切り条件はしっかりあることが殆どなので、
それは自分の内なる声を聞き、拘泥しすぎない程度に持っておくべき
だとは思いますけどね。なんでもOKだと人生の時間をムダにするので)

(それでも、やっぱり、恋愛よりに考えると、やっぱり「萌え」というか
偏愛というのはあると思う。私は白肌薄顔が好き、みたいなやつ。
それは頭で考えて治るものではない。あくまで萌えの琴線の話だけど、
そこをどこまで突き詰め、自分自身にとって何だと捉えるのかは、
人それぞれですね。ここまで言っておいてアレだけど、私は萌え超大事派。)

 

終わりに


皆さんの「好き」はどんな形でしょうか。
偉そうな口だけ聞いて立ち去りますね。
ご意見大歓迎。もっと好きを考える人生にしたいです。

今日も良い日となりますように。

※次回更新は7月23日ごろを予定しております

ゆずのライブに行って、一生彼等と添い遂げようと思った話。 (20th Anniversary DOME TOUR 2017 ゆずイロハ@東京ドーム 2017年5月21日(日))

第二弾です。今回は、感想を。
まとまらないけど、書いてみます。

ゆずイロハを通じて思ったこと

今回は、ゆずのライブ、ひいてはゆずとの向き合い方に
大きな変化が生まれたライブだったように感じます。

その理由は、ゆず自身の変化、自分自身の変化、
どちらもあるように思います。

 

ゆず自身の変化

最後のMCでの悠仁の言葉。

最も印象的だったのは、

悠仁「いつもくそったれって・・・ゆずをやってて一番くそったれって思うのは・・・
あんときはよかった・・・って言われるのが一番くやしいです。そう思ってほしくない。
みんなに今が一番最高だって思ってほしくて、こうして20年歩んできました。
ゆずのファンでよかったって思えるように俺たちは走り続けるからこれからもついてこいよ。」

これですね。

これはゆずの苦悩なんだろうな、と胸が傷んだ。

 

ゆずのファンは先述の通り古参が多く、
その「栄光の時代」もまた、過去であることが多い。

人間が過去を懐古する生き物なのだとすれば、
前進しようとするゆずと、その前進についていけない者、
その歪みや摩擦が起こるのは避けられないからだ。

 

その違和感は、いつもゆずがアルバムを出すたび、
ライブをやるたび、誰も口には出さないが、
少しずつ心にかかえていたところだったのだろうと思う。

だから、それが言葉になって出てきたのは、
私にとってはすごく好感が持てる部分だった。

 

自分自身の変化

そして、その後心にしみたのはここ。

悠仁「俺たちの曲がみんなの心のそばに寄り添えてたらいいなっておこがましいけど思っていて、
そして時々、みんなからのメッセージをみると寄り添えてるとも思えます。
そしてなにより、みんなも俺たちの曲を愛してくれて、寄り添ってくれてるんだなって思います。
本当に本当にいつもありがとうございます。」

 

提供者目線でなく、相互依存関係のような関係。

今までのゆずのライブは、
ゆずというフィルターを通して、
自分の人生を見つめ直すいとなみだった。

毎回、自分の過去を引き出し、
今の自分の反応を観測し、自分の変化を冷静に見る、
という機会にしていたのが正直なところだ。

ここにおいて、「ゆずへの愛」は優先度が下がる。

自分のことばかりだったのだ。

ここで私ははっとした。

私自身がこれからはゆずというフォークデュオバンドに対して
寄り添い、相互に感情を共有できるような存在に見えたのだ(おこがましながら)。

猛烈に愛おしい、憧れのアーティストではなく、
等身大の2人の人間として、心の底から彼等を応援し、
一生寄り添っていきたい、と思ったのであった。

f:id:cloalien:20170524160523j:plain

そういうわけで、私は次のライブをとても楽しみにしている。

愛だなあ、という曖昧な感想を残し、お客さん先に向かうことにしよう。

【セトリ/レポ】20th Anniversary DOME TOUR 2017 ゆずイロハ@東京ドーム 2017年5月21日(日)【その1】

ゆずのライブは、もう何回目になるだろうか。
ライブに行くようになり、ファンクラブに入って、
収録から大きなライブまで、無思考課金を繰り返してきた。


未発表曲までラジオ音源を漁りきり、
いわゆる「古参懐古厨」として、ゆずと向き合い続けてきた。

 

ライブに行くたびに自分と向き合う機会としていたが、
今回は少し様子が違ったようだったので、記載しておく。

 

まずはセトリと簡単な感想から。

 

~準備運動~

0:ラジオ体操第一

ゆずガチャと一連のお土産類を買って入場。

f:id:cloalien:20170524153221j:plain

因みに「ゆずのね」が出ました。

今回は1階スタンドの7列目。
席運はいつもいいと感じるほどの良席。

ラジオ体操も、ドームだと壮観。

 

~弾き語り~

1:贈る詩
2:サヨナラバス
3:春風
4:いつか
5:月曜日の週末
6:青

 

おふたりはバイクで登場。

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こ、この距離ですよ・・・!?
ゆずが、否、岩沢が、近すぎて死ぬ。

口を開けば「はあああ・・・やばい・・・尊い・・・」しか出てこない。

 

まずは安定の弾き語りパート。
「ああ、ライブに来たな」としみじみと感じる。

贈る詩で始まるのは斬新なのでは?そうでもない?
どんな曲で始まっても、最初は違和感ないけど、
今回は泣き曲で入らなかったのが印象的でした。

サヨナラバスで初回の号泣。
思い出を積みすぎているのと、MVを思い出しながら。
やっぱり君が好きなんだ」でぐぐぐっと心に来るものがありますね・・・

春風も引き続き号泣。
「言葉にすれば壊れそうです」
こんな大箱でそんな繊細な言葉をッ・・・

いつかはギターかっこよすぎて惚れ惚れ。
昔、二人で駐車場の車の中で、窓が白くなるまで歌ってたという思い出話を聞き、
彼等の青春に思いを馳せた石川町を思い出し、こちらも懐古モードに。

月曜日の週末は、たまたまライブ前に聞いていたので
余計にテンションの上昇が抑えられず・・・。

青もMVを思い出して、胸がキュッとなった。
ここまで懐古厨全開。

 

~恒例・会場アンケート~

会場アンケートは、やはり古参が多い印象。

ゆずのファンの客層は30代~40代女性が中心のイメージ。
もっと言えば、中高生時代のスクールカースト偏差値48~53くらいなイメージ。
イケイケのウェイではないけど、サブカルに傾倒するほどのヲタではない、みたいな。
(失礼かもしれないが、いってい的を射ていると思う)

(批評厨だけど布教者ではないので、それでいいと思ってます。ていうか私もだし)

 

~バンド~

7:ヒカレ
8:イロトリドリ
9:表裏一体
10:桜会
11:アゲイン2
12:虹

 

ここで場所を移し、バンド体制へ。

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表裏一体はやっぱりかっこいいなーと。

それから、アゲイン2が聞けたのは嬉しかった。

「誰もがみんな一人ぼっちを抱きしめながら生きている」
ここで再びの泣きポイント。

(いやしかし踊ったり泣いたり飛んだりはねたり歌ったり、
今回のライブは忙しかった・・・)

 あと桜会ね。セットがきれいだった。

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~いつもの小ネタ~

 

モニターには2067年、ゆずの2人が90歳のシーンに。
岩沢厚治(90)のリアリティ。

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今回のライブ全体を通じて、
時を越えてゆずが提供できるものについて
すごく考えたんだろうなあ、という印象。

個人的には、2027年のエベレスト山頂ライブよりも、
2037年のゆず60歳で建設した総額35億円のゆず太郎ランドよりも、
2047年のゆず70歳での悠仁大統領、岩沢副大統領就任よりも、
90歳のゆずの所帯じみた感じが、現在の願望を投影しているんだろうなと感じた。

ゆず自身が描く未来の方向性も、こちらの方向に寄っている印象。
着実に、でも、美しく年を取っていきたいという意志なのかなと思いました。

(もちろん、自分の願望を投影している可能性も多分にある)

 

~メドレー~

13:20周年にちなんで20曲イロハメドレー
(with you-終わらない歌-飛べない鳥-友~旅立ちの時-よろこびのうた-REASON-超特急-うまく言えない-OLA!!-シシカバブー-センチメンタル-逢いたい-いちご-Yesterday and Tomorrow-Hey和-スマイル-恋の歌謡日-LOVE & PEACH-友達の唄-雨のち晴レルヤ)

 

メドレーは一長一短だけど、
聞けること自体が価値だったので、嬉しかった。

「飛べない鳥」の岩沢神高音で再び号泣し、
「REASON」からの「超特急」で惚れ惚れし、
「センチメンタル」で再び号泣し、
「いちご」のMVを思い出してほほえましい気持ちになり、
「恋の歌謡日」でムーチョ様にうっとりし、
「LOVE&PEACH」で爆踊りし、
「友達の唄」で心に平安が訪れ、
「雨のち晴レルヤ」で号泣。

全体的にメドレーの選曲は神ってたと思う。

もちろん収録曲から選んでいるんだろうけど、
欲を言えばどうしても「始発列車」が聞きたかった。。。笑

 

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~盛り上がりパート~

14:タッタ
15:夏色

 

今回は初めてタンバリンが参戦!
いつもゆずのライブに来ると「イマイチ盛り上がりきらない」
残尿感を心苦しく思っていたので、
今回の取り組みは非常に高評価。
きっちり盛り上がりきれた印象でした。

夏色はそりゃ当然ですね。
「もう一回」の嵐でしたね、3回やったのかな。
バカヤローからのどや顔も愛おしい。

ただし、このあたりで私自身が体力切れを感じる。
25歳、老けてきたのか・・・?

 

~アンコール~

16:カナリヤ
17:少年
18:栄光の架橋

 

ドームは周りの声が伝わりにくいのでどうかなと思ったけど、
今回の「贈る詩」

 

は結構主体的に頑張る席だったかなと思い、
個人的には満足感高め。きらきら~。

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カナリヤは真顔鑑賞。
ここのところのゆずの曲のなかではずしり、と重い物があるような気がして、
思わず聞き入ってしまうような、新しいタイプの曲。

 

少年は跳ね続けるだけの神曲
私の人生のコンセプトソングでもあるくらい大事な曲なので、
これが聞けただけでもライブの価値はあるなと思った。
「いくら背伸びをしてみても 相変わらず地球はじっくり回ってる
いま自分にできることを ひたすらに流されずにやってみよう」

 

~新曲発表~

で、新曲の発表。
EPが2本リリースされるとな。

 

4LOVE

謳おう

最後は栄光の架け橋で〆。

 

岩沢しゃま~~~~~

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熱い握手。

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今回も、じんわりあたたかい
とてもいいライブでした。

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感想は次の記事で書きます!

 

【参考】

 

良記事なので記載します。

realsound.jp

突然、パンが食べられなくなった

 

唐突だが、私をご存じの方はよく知っていると思うが、私はパン屋が大好きだ。
街に行くときは、食べログを検索し、順番にパン屋を巡る。
可能であればパン屋の店主と話し、雰囲気を堪能する。
パンを爆買いし、ひとつひとつのパンの評価をつける。

これが私の数少ない趣味・・・と言えるものの1つだった。 

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いや、好きだった、という表現が正確かもしれない。

 

異変が起きたのは4月ごろ。
最近パン屋に足が向かないなあ、と変に思っていた。

 

そして、待ちに待ったGW。街歩きすなわちパン屋巡りの捗る時期だ。

5月の初週、実家近くに新しいパン屋を見つけた。
とても可愛いパン屋だ。

・・・なのに。

パン屋を目の前にしても、入りたいと思えない。
いざパン屋に入っても、買いたいものがない。
入ってしまったからには、と買ってみるも、食べる気がおこらない。
仕方なしに口に運ぶも、今まで感じていたような、
心の奥底から沸き起こるような喜びは一切感じられない。

 

・・・どうしてしまったんだろう、私は。

少し前に「食物アレルギー」「グルテンフリー」についてよく調べたことがあった。
ジョコビッチなんかが本を書いていたアレだ。

ジョコビッチの生まれ変わる食事

なんでも、小麦(グルテン)と身体との相性が悪い人間が一定存在するらしい。
確かに、1日にパンを何個も食べた日には、少しお腹が痛むことはあった。

いやでも、多分、そういうものとは関係なく、
ぱたり、とパンが食べられなくなってしまったのだ。

 

・・・思い返せば昨日、久々に風呂上がりにアサヒスーパードライを飲んだが、
今まで感じていたような、心まで潤すような喜びがなくなっていた。

 

突然、何かが変わってしまったようだ。
麦が駄目なのか?

 

パン屋巡りを趣味の一環としていた。
これは街歩きと並んで私のライフワークになると思っていた。

ビールについても、好きでよく飲み比べをしていたし、
ビールフリークの集うビール女子会なるものの門をたたき、
ビールへの熱い思いを文字にし、見事抽選に当選したのは先週の話だ。
9月のビール検定も受けるつもりだった。

夢であって欲しい。夢じゃなくて何なのか。

 

・・・でも、それ以上に、
今まで大好きだったものが突然自分にとって心地よいものではなくなる、
という感覚に、喪失感以上に、ある種の恐怖を感じた。

自分が拠り所にしていたものが、失われていくなんて、思ってもいなかった。
まして、相手が選ぶのでないと思っていた食べ物で。

自分の自発性や意思によっていかようにもなるから、
食べ物が好きだったのだろう。

そういうわけで、これからどうすればいいのか、路頭に迷っている。
失ったのかもしれないものをどう穴埋めするか考えるのは、
まだまだ喪失感が大きくて難しい。
少しずつ、自分の欲や意思と向き合うことにしよう。

 

因みに。

 

同日、実家で学生時代から頑なに米を拒んでいた私が、
無意識に「おにぎり食べたい」と言って母を予想外に喜ばせる、
という出来事があった。

これはすなわち「パン派から米派への移行」といった、
ありふれた嗜好の変化なのだろうか。
年による味覚の変化には枚挙に暇がないと言うが、それなのだろうか。

 

追記

matome.naver.jp

これは近いかもしれない。
1日3つくらいの勢いでパンを食べていたから、
一生分食べ尽くしてしまったのかもしれない・・・

他の好きな食べ物についても、
こうならないように気をつけよう。

 

さらに追記

今までと少しテイストの違うブログに挑戦してみました。
この後の記事に書きますが、色々試してみようと思います。

コンサル4年目の抱負。

おはようございます!

4年目1日目は、週末のテニスと納品疲れから爆睡し、
朝は健やかに5時起床でございました。
完全に早起きおばさんです。笑

 

4年目になりました

さて、今日から4年目。

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いえあ。4年目。いえす、4年目。

正直3年やれれば御の字って思っていたところもあったので、
今日という日を迎えられたことは感慨深いなあと本当に思います。

自分だけだったら心が折れていたであろうたくさんのことを、
友人、先輩、親友、上司、恋人などの力でここまで乗り越えて
今ここまでこれたんだろうなと、
ひとえに色んな感謝しかないです。

さて、4年目なので、抱負を簡単に。

 

4年目の抱負は「自立」して「ちゃんと生きる」こと

 

この5つです。

 

  • 自分の仕事を自分の裁量できちんとやる。
  • 自分の仕事は自分で創る。アサイン運に翻弄されない。
  • 他人の痛みにも敏感になる。
  • 自発的に動き続ける。そのために考え続ける。
  • 自分を創る言葉・文章を見つける。

 

以下で少し詳しく見ていきます。

 

・自分の仕事を自分の裁量できちんとやる。


人の力をたくさん借りて案件デリバリーをするスタイルは今後も変わらないけど、
それにしても、デリバリーだけでなく品質にも責任感を持って、
仕事できるようになりたい。

 

・自分の仕事は自分で創る。アサイン運に翻弄されない。


生産性のない文句ほど意味のないものはないので、
まずは環境づくりのための努力は厭わないようにしたい。
それは案件獲得しかり、上司しかり。
そこをまず努力したら、そこからは、
ただお客様と上司に全幅の信頼を置く。きちんと仕事をする。

 

・他人の痛みに敏感になる。


自分の痛みを人に吐露することに躍起になると、
片務的な関係になってしまい、信頼を醸成するのは難しい。
相手を好いていることをアピールするだけではなく、
その人の痛みを知り、どうすれば少しでも癒すことができるのかを
考えることに時間や労力を割きたい。

大事な人の役に立つために生きたい。

 

・自発的に動き続ける。そのために考え続ける。


むしろ逆なのかな?でもこっちのがしっくり来る。

いい環境、いい会社、いいチームを作るためには
自分が持った違和感の価値を信じて、とにかく人にぶつけ、
それを形にし続けていくことが大事。

だいたいのことは失敗に終わるかもしれないけど、
プライドさえ捨ててしまえば、後はやるだけになる。
その方が生活にハリが出て、楽しいと思う。

良くする方向に動き、最後は祈る。

世の中の呪いじゃなくて、信じたもので好循環が回り、
日々幸せに生きられることをきちんと証明する。

 

・自分を創る言葉・文章を見つける。


今まで何も(進学先、就職先すら)決められなかった私が
自分の今いる場所や一緒にいる人を信じて、
自分の道を一人で生きることを選択しようとしている。

それは辛いことではあるけれども、
人生に仲間はいるから、きっと大丈夫だと思う。

それは人間関係だけではなく、
どうやら言葉や文章もそれに当たるんだと思う。

なので、今年度は一生添い遂げたいと思える言葉を見つけたい。

 

 

以上。

仕事は人生を形成する第一要素というか、人生そのものなので、
ウェットなコミュニケーションや、ラディカルな思想を
持ち込みそうになりがちだけど、凛としてしなやかでありたいです。

年初に定めた
「2017年 自分を生きる一年」をちゃんとやりきります。

 

それでは、今年度もそれぞれの持ち場で頑張りましょう。

(仕事すっか・・・)

子どもの読書と大人の読書の違いとは? ~「死ぬ前に後悔しない読書術」を読んで子どもの自分を激しく反省したお話。

自分の問題意識に肉薄する本が、
自然と自分の周りに集まってくるなと
常々不思議に思うくろえです。なんでだろうね。

 

そんな私が昔借りた本をようやく返却。

 

www.amazon.co.jp

 

こちらですね。前回の記事とも関係してるかも。

読書術とか読んじゃう残念さは置いておいて笑、
社内活動で本を扱っていることもあり、
本の読み方を考えるにあたっていい本だったのでシェアです。

 

というわけで、印象深かったところを簡単に記述していきますね。

 

最近気付いた自分の変化

 

昔は、ただ知識豊富だったり博識な人をすごいなと思っていたけど、
最近は博識さをひけらかす衒学的な人を見ると
はあ、そういうやつですか、
と苦虫を噛み潰したような顔になるようになった。

一方、日頃ひけらかさないが、困ったときに
すっ、と言葉を贈ってくれる人もまた、存在する。

 

この差はなんなんだろう、と思っていた。

(忘れてはいけないのは、私はどちらかといえば
知識を溜め込む方が好きだ、ということだ。
それはきっと、智慧ではない)

 

「子どもの読書」と「大人の読書」

 

本書には、以下のような記述がある。

 

子どもは読書により武装するが、大人は読書により武装を解除する。

 

はあなるほど、と思った。
受験戦争や単位取得のための丸暗記や、
ひけらかすことが良しとされていた場においては、
まさに子どもの読書が必要だったのだろう。
(もちろんこれも大人になっても継続することだろうが)

ただ、大人になるということを
ここまで綺麗に言語化しているのは、自分にとって驚きだった。

子どもの読書は
「現実逃避、自己正当化、知的武装のための読書、即物的な刺激を求める読書」
であり、大人の読書はそうではないのだと。

ただひたすらに耳が痛い。

 

じゃあ大人の読書ってなんだ?

 

大人の読書は、情報よりも大切なものを得るためにするものなんだそうだ。
そういう意味で言うと、大人の読書の効能とは、事後的にしか確認できないし、
なんだか即物的じゃなくて難しそうだ。

 

心のなかにじんわり残る言葉を、少しずつ増やしていくこと。
人生に役に立つ本をよむこと。
自分に頼るのではなく、過去の叡智にあたること。

 

そういう、今までイヤダイヤダと避けてきたことを、
これからはきちんとやっていきたい。

それが、自立することなんだろうと思う。
(そして現代社会においてそれはとても難しい)

 

とりあえずまともな本を読みます・・・ちょっとずつ。

 

とりま、読もうと思ってずっと先送りにしていた文豪作品。

その中でも興味の端緒を持てそうな
ヘルマン・ヘッセゲーテニーチェ
坂口安吾夏目漱石太宰治
とかは人として読もうと思いました。自戒自戒。

 

---

 

次は3年間の社会人生活の振り返り記事を書きます!多分。
もしくは今週末観たムーンライトの感想記事かな。
気が向いた方を書きます。

 

追記

3ヶ月取り組んだプロジェクトが本日ついに終焉を迎えました。
私にとっては初めてのことだらけのプロジェクトだったけど、
今までで一番いいプロジェクトでした・・・涙。

上司にも恵まれ、お客様にも恵まれ、
夢みたいな3ヶ月間でした。。。
生きてると、こんないいこともあるんだなあ。。。

明日からはちょっとつらめなアサインだけど、
切り替えて頑張ります・・・!

本を読めないのが悩みだった私が本に対して持っていた5つの「呪い」

こんにちは。

反響の有無にかかわらず、
淡々とブログを書き続けます。
思考垂れ流し女くろえです。

(会社がうるさかったときの精神集中に使うなど。)

 

今回は、読書について書いてみます。

(本当はLGBTとセクマイについて考えていて、
何か書きたくてしょうがないんだけど、
なかなか考えを言語化できずに困っているので、
いずれ公開します。。。こっちが先。。。)

 

社内ワーキンググループ「本わく」での学習促進活動

 

現在社内で学習促進のワーキンググループを立ち上げ、
有志で勝手に活動しています。

その名も「本棚わくわく藩(通称本わく)」。

 

メンバーは4人の小さなワーキンググループですが、
メンバーの読んだ本を全社におすすめして掲示したり、
社員の誰かが勉強したい分野の勉強会を企画したり、
会社にある本棚の本を適宜拡充・整理したり、
社内でトレンドになっている本で勝手に特集を組んだり、
と日々本や学習にまつわる活動をちんまりしております。

 

で、最近、複数のところで話を聞くのが
「わたし全然本読めないんだよね」という話。

 

私も本は全く読めなかった

 

私の過去を振り返ってみると、
決して私は本好きではなかったなと思います。

幼少期は決まった絵本しか読まなかったし、
小学校時代は漫画の伝記と中学受験によく出る本しか読まなかったし、
中高時代は「図書館にいる奴らはスクールカースト下のやつ」
と勝手に思いこんでいて一切本は読まなかったし(最低)、
大学時代であっても、課題の本か自己啓発本くらいしか読みませんでした。

 

社会人になるまで、小説も含めて読書経験は
(レポート作成目的を除けば)ほぼ皆無だった、と言えるでしょう。

 

今となっては後悔ばかりではありますが、
そんな、本を全く読めなかった私が、今では
毎週図書館に通い、本に関する社内活動をし、
というところまで改善した、というのは、
自分で書いてみても少しだけ感慨深いものがあります。
(もちろん、今も長文は読めないわけですが・・・)

 

というわけで、今回は
「過去の自分の持っていた呪いと、その処方箋」
ということについて、書いてみようと思います。

 

私の持っていた5つの「呪い」

 

  1. 最後まで読まないといけない
  2. 読んだらすべての知識を吸収しないといけない
  3. 読んだら読了なので、もう2度と読まない
  4. メモしながら読まないといけない
  5. 教訓のない本には意味がない

 

以上の5つです。少し詳細に見ていきますね。

 

1.最後まで読まないといけない

手に取った本は、全てきちんと読むべきだと思っていました。

 

2.読んだらすべての知識を吸収しないといけない

手に取った本からは、詳細にメモを取り、余すことなく知識を吸収すべきだと思っていました。

 

3.読んだら読了なので、もう2度と読まない

上記のように、かなり精読をしてメモをとるので、もう二度と開かなくていいようにしようと思っていました。

 

4.メモしながら読まないといけない

そのとき感じたことときちんと向き合おうと思っていたので、メモや感想をくまなくノートに書いていました。
逆に言えば、ノートの取れない環境では、本は読めないものだと思っていました。

 

5.教訓のない本には意味がない

意味のあるもの、他人に言えるようなものしか読んではいけないと思っていました。

だから、エッセイや小説は、読むべきではない、と思っていました。

 

(今も上記は抜け切らない部分はある・・・)

 

社会人になって起こった「呪いからの解放」

 

多分、本をよく読む人との会話などによって、
少しずつ、本へのバイアスがほどけていきました。

そこで得られた発見を4つほど。

  1. 「優等生」な読み方でなくてもいい
  2. 何度読んでも違う発見がある
  3. 本を通じて自分を発見する
  4. カッコつけのための本ではない

以下は、私の呪いの解放を少し詳しく見ていきます。

 

1.「優等生」でなくてもいいという赦し

パラ読みでもいい。目次だけで放棄してもいい。
本に対するスタンスが軽くなったので、
本を手に取る時の肩の荷も軽くなったように思います。

 

2.何度読んでも違う発見があることへの気付き

一度読んで全部を吸収しなくてもいいし、
何度読んでも退屈しない本はある。
そう思えるようになったので、本の内容を
詳細に記録しないでも本を読めるようになりました。

 

3.本を通じて自分を発見するといういとなみ

本から何かを学ぶ、というスタンスが大きかったのですが、
その本を読んだときの自分の心の動きに関心をもったり、
自分の視点転換をメタ化しようとすることで、
どんな本であっても、一旦読んでみることが出来るようになりました。

 

4.カッコつけのための本ではない

であれば、意味のあるもの、他人に言えるようなものである必要はありません。
かっこつけのために難しい本を読むのは苦役なので、
(もちろん必要なときもあるのですが、)
自分がその時に心の向いた本をよむようになりました。

 

新しいマインドセット

 

今は、以下のようなマインドセットで
本と向き合おうといいなって思っています。

(出来ているわけではない)

  1. 自分を知るために本を選ぶ
  2. まずは目次をしっかり読む
  3. 全部読もうとせず、変だなと思ったらやめる
  4. 最初から買わない
  5. 興味範囲を広げる
  6. 「困った時、傷ついた時に、寄り添ってくれる本」を見つける

以下、もう少し詳しく。

 

1.自分を知るために本を選ぶ

自分がどんな本が心地よいのかを知る時間として。
自分が手に取った本に関心を持つ、という順番でもいいのかな、と思っています。

 

2.まずは目次をしっかり読む

中身まで入る前に、全体像を把握することで、
意味不明な徒労感から開放されたいと思っています。

 

3.全部読もうとせず、変だなと思ったらやめる

今はタイミングじゃないんだな、とか、
今後こういうふうになったときには読めるな、とか、
てきとうに自分を諦めさせるようにしようと思っています。

 

4.最初から買わない

まずは立ち読み、もしくは図書館で。
何度でも読み返したいと思ったら購入。
というように、段階をつけることで、
じょじょに本を自由意思と多幸感のなかで読めるようになりたいです。

 

5.興味範囲を広げる

自分の心の赴くままに本を読むと、
自分の関心領域に関する本ばかり読んでしまいます。

興味範囲はいってい広いとは言え、
このままでいいのか、という感じもあり・・・

なので、他人のおすすめを
積極的に受け入れようと思います。

 

6.「困った時、傷ついた時に、寄り添ってくれる本」を見つける

とはいえ、心の赴くままにやるのではなく、
ゆくゆくは見つけていきたいのは、
拠り所になる本の存在です。

でもこれ、どうやって見つけるんだろう。
これも信頼できる他人のおすすめかな。

ちょっとずつ、探していきたいです。
今のところは「星の王子さま」かなあ。

 

 

・・・以上です。また長くなってしまった。

 

「本を手に取るまでのステップ」については、
次の記事で書きます(多分)。

 

それでは。

【逃げ恥】「呪い」から、解き放たれなくてもいいじゃない?

こんにちは。

最近再び仕事のし過ぎで、
頭とか色んなところがおかしくなってきている
くろえです。(これを3末現象と呼びます)


※弊社は予算消化に活躍しがち

現実逃避に記事投稿します。

 

逃げるは恥だが役に立つ

 

突然ですが、アレ、よかったですよね。

価値規範に対する意識が一定高く、
スペックも高いゆえに少し生きづらい男女。

双方の心がじょじょに溶けていく様子が、
見ている者の心をも浄化するような作品だったように思います。

とにもかくにも、星野源がイケメンで死ぬかと思った作品でしたね。
(塩顔男子崇拝クラスタ!顔は何もない方が良い!)

 

だがしかし大本命はゆりちゃん


特に、主人公みくりの伯母であるゆりちゃんはやばかった。
強いのに弱いのにきちんと自己肯定をして前を向いている、
そんなゆりちゃんに萌えというより敬愛の気持ちを覚えました。

 

名台詞「自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい。」


話は本題へ。私はこの話がしたかった。

「枠にはめる」ことは呪いなのか。
呪いからは逃げたほうがいいのか。

私はその問いとずっと戦ってきたように思います。
考えては、枠組みにはまっている自分を嫌いになっていました。

 

この思考に対して、一定の解を与えているのが、
このゆりちゃんのセリフのように思えたのです。

 

人間は「縛られたい」と「束縛から解き放たれたい」という、
相反する2つの欲求を持っていると思っています。

それはどちらも間違っていない。
振り子のように、その感情を行き来することで
毎日を過ごしているように思います。

 

そしてそのことは、生きることの命題でもある
「死なないように生きる」ことのために
必要な試行錯誤であるようにも思います。

 

だからこそ、呪いの取扱いに一喜一憂するのではなく、
そんな呪いからとっとと逃げてしまって、
呪いから開放された上で前を向き、
よりよいいとなみをできるよう工夫できるように、
という示唆なんだろうなと思いました。

 

自分自身の自戒にも強く繋がりました。
私は、自分を呪いから解放しようとしました。

 

呪いから解き放たれるとどうなるのか

 

呪いから逃げ、逃げ、逃げ回ると、
いつのまにか呪いから解き放たれている(と錯覚する)
状態に近づいていきます。

 

そのとき、何が起こるのか。

 

呪いによって自分を拘束していた自分との出会いがもたらされます。
そして、呪いなしに立つことの出来ない自分への絶望。

 

わたしは、呪われている方が楽だった、と思いました。
だって、価値規範を選択せずとも社会の流れに乗っかれば
それなりの行動が取りやすいから。

呪いから解放されすぎると、
自分への過信をせざるを得なくなったり、
風当たりの強さから心が折れてしまったり。
社会の流れに棹さすのは、
殺すか死ぬか、くらいの戦いであるようにも感じられました。

 

呪いにも棹を刺さない

 

私は思いました。


「呪いからの解放」に躍起になっても、
結局戻ってくるのは同じ場所であると。

なので、一旦見ないことにすることにしました。
呪いも、呪われている人も、呪われている自分自身も。

そうなった後、自分がどうなるのか。
それを客観的に観測するのが、
2017年のわたしのやるべきことかな、と思います。

 

上善如水を少しでも意識して、
日々を健やかに生きていきたいです。

GEの人事組織制度変更に見る、これからの組織のあり方についての一考

 

こんばんは!


そういうわけで結婚できないキャラに益々磨きがかかっている今日この頃ですが笑、
会社の席替えにより、いよいよ通常時のコミュニケーションがなくなりすぎて、
拗らせた挙句漫喫に夜な夜な立てこもり恋愛拗らせ漫画やレズ風俗ルポ漫画を
読み漁っています、ええ。今日も通常運転で馬鹿です。くろえです。
(本当に環境って大事。)

 

そういうわけで、社内環境に思いを馳せることが多いので、
印象に残った記事を共有します。

 

「GE」の人事制度変更について

 

mirai.doda.jp

 

ビジョナリー・カンパニーとして知られる「GE(ゼネラル・エレクトリック)」が、昨年人事制度を大変革しました。変革は「2本柱」からなります。

  1. 上司・部下間で行う評価サイクルを「一年に一度」から「リアルタイム」へ
  2. 社員を業績とバリューの2軸で評価し、9つのグループに「ランク分けする制度の撤廃」

社員を業績とバリューの2軸で評価し、9つのグループにランク分けする制度
っていうのは、日本でも上記の制度を真似しているところは多いんだとか。

今回、何が起こったんだろう、ということを記事を通じて考えていきます。

 

ポイントは「即時性」と「人間性の反映(ランク分けする制度の撤廃)」

 

①即時性について

 

時代の変化の流れが早くて、即時性が必要になっているところが大きいのかなと。

それに加え、社会生活を営む上で、人の行動を制約したり縛られるものが
どんどんなくなっていって、「潮流」の変化スピードが変わっているのかも。

 

社外の変化するスピードが社内を簡単に上回る時代においては、
社内も変わっていかないと、という話なのかなと思っています。

 

そうなってくると、「変化に対応しながら一緒に価値を出して働く」という世界観がいいじゃない、ということになるよね、と。
この価値観にたつ時点で、一つ大きな認識の変化が起こると考えられます。
それは「上下関係・ヒエラルキーよりも共創が重要になってくる」ということ。

今まで「身分が上」という理由だけで偉そうにしていた人がいたんだとすれば
それは時代には合わなくなってきている、ということなのでしょう。

 

人事制度とかも上記の変化に合わせて変わっていくべきだし、
万人が万人の形でコミットできるような土壌を作っていかなくちゃいけないのでしょう。


私は実際の制度設計にはあまり詳しくないし、
報酬体系とかはそれこそ専門知識が必要なんだろうけど、
「こんな方向性・世界観がいいよね」というところからみんなで話して、
上の人からもみんなに伝えるし、
下の人から草の根的な展開・浸透もあるし、というなかで
同じ方向を見て活動できる組織が、これからあるべき組織の形なのかな、と思います。

 

因みに完全に蛇足ですが、そういう意味で、弊社は結構先進的だし、
(というか案件の性質的にそうならざるを得ないという認識か?)
手の届くところにそうなる契機・チャンスがいっぱいあって、
そういう意味で、とてもいい会社だなと思っています。
(言い方を変えれば制度が整ってないとも言えると思うけど。笑)

 

<この辺に弊社へのエントリーボタンをこっそり置きたい・・・やんないけど笑>

 

それこそ惚気だけど、
自分の周りには幸いにも心から信じられる上司がいて、
この人と一緒に働きたいと(合理的な理由であれば)主張できる場所があって、
そういう人間性や親和性を勘案したアサインを検討してくれる信頼があって、
不条理や陰湿なものを明らかにし、おかしいと叫べばいい方向に向かう、
というなんとなくの手触りを信じられる確信があるからかなと思います。

 

(まあどんなに賢明な人間がいたとしても、この世は人間社会なので、
絶対的に正しいことは存在しないし個々人によって認識は違うし、
もちろんそれなりに主張することには痛手はあって、
面倒くさいと思われて、避けられ、酒の肴にされるか蔑まれるか無視される
とかはあるけど)

(が、そういう人はどうでもいいと割り切る強さを持てないと
物事は変わっていかないと覚悟を持たねばならないとは思う)

 

人間性の反映について

 

そのためには、部下個人、「その人が分かる」ことが大切。そんなとき、実は「強さ」だけではなく、「弱さも見せられるマネジャー」こそが強いんです。

 

そしてこれは本当にそう。
自分の上司や先輩を、評価者と捉えて頑張るのか、
共創者と捉えて一緒に仕事するのか。

 

それと矛盾するかもだけど、
自分がぼろぼろになっても帰ってよしよししてくれる場所があるのか。

 

不確実性の高い世の中において、
挑戦するのは怖いからどんどんハードルが高くなっているようにも思うし、
成功を測る基準も一瞬で陳腐になるから、尊大な自尊心だけでは頑張れない。

そういう信頼や紐帯があるからこそ全力を出して頑張ろうと思える、
というものなのかな、とも思います。

 

ツイッターとかリアルの飲みの場とかで
会社くそだとかいけすかない上司・部下がいるとか
色々悪口を言う/書く人がいるけど

なら変えちゃうか、無理なら諦めるか辞めるか、ということだよなと。

会社名、とか体裁、とか名誉、に重要性を見出して
それでもそこにいるのは自分自身だって
思ってそれぞれの持ち場で頑張る、というのだって、
別に全然いいことだとは思うし(私はそういう人とは親和性は低いが)、

あるいは心を閉ざす、諦める、むりなら場所を変える
ということをしないといけないよなあ、と思ったりします。

 

なんにせよ、前に進みたい。進まなきゃ。

 

よくなることくらいしか、人間の取り組むべきことはないんだと思う。
尊大な自尊心ではなく、事実を真っ直ぐ見つめる。
その辺は、尊敬する下田美咲様がよく言っていることです。

 

cakes.mu

 

おまけ:最近のそれっぽい取り組み

 

上司からのリアルタイムFBに近いことは
GoogleDocsを使って自分の上司ともやっていて、
打ち合わせの時だけでなく作業中にもいつでも確認できるように。
部下の作業進捗が確認できるだけじゃなくて、
評価も、状態に対するフィードバックも即出来て一石二鳥。

個人的に、これは全社的に広がっていくといいかも、って思ったりしている。

 

よし、あと少し、お仕事頑張ろう。
ではでは~。

【ぷちライフハック】欲を出しすぎて保存しすぎたとき、どうすればいい!?【Pocket利用マニュアルその2】

こんにちは。
若年層の日常生活に関する調査をしていたら、
目がどんどん死んだ魚の眼のようになってきたくろえです。

というわけで気分転換に前回の記事の続き。

 

Pocketに溜まりまくった未読記事を一括削除する方法

Pocketにぽいぽい保存していると、
つい貯まってしまいますよね。

※くろえさんの現段階での記事ストック数は
ついに「413」になってしまいました。。。

 

f:id:cloalien:20170228174018p:plain

 

というわけで、まとめて記事削除するときは(PCからのみですが)、

・Ctrl(MacならCommand)を押してクリック
・Shiftキーを使って一気に選択することも可能

ということみたいです。

 

そもそも先送りしてしまうということについて

shirose.jp 

 

  1. 今は読む時間がないから後で読もう
  2. 記事の内容を実践したいから後でもう1度読み返そう
  3. 思い出に残る記事だったからいつか読み返す時のために取っておこう

 ということが書いてありますが、
くろえさんの場合は、1がメインなんですよね。

2,3はPocketのお気に入りに入れて解決、なので・・・

1についてはそもそも情報の断捨離が必要ということなんでしょうね。

  • 流入する情報を整理する(同じ情報の重複はないか?)
    ※いま私の場合メルマガとLINEがかぶってたりする
  • 自分が本当に読みたいサイト・ブログのフィードに絞る
    ※優先は日経ウーマンとcakesとnoteかなあ
  • 有名どころの記事はあえて購読しない
    SNSでも見かけるから十分、ということですね
  • 一般的なニュースについては流入元を限定する
    ※私の場合LINEニュースくらいかも・・・あ、でも日経オンラインと朝日新聞のメルマガも来る・・・

以上が基本的なところなんだと思うけど、
なんかこういうので解決できる気がしない・・・

優先度をつけるべきなのか?

そもそもPocketに入れる瞬間に、
★とかをつけるとか、日程を入れるとか、
何らかのタグ付けをするのが有効かもなと思いました。

ぽいぽい入れてしまうときにラベル付をするか、
ぽいぽい入れる前に本当にぽいぽいしていいか考えるか。


でも、そうすると利便性とのトレードオフになる・・・
利便性が圧倒的に悪くなる・・・

ということで、思いついたのは以下。

 

1日の終わりに、今日放り込んだ記事を判断する時間を作る

それで断捨離もしくはラベル付でしょうか。
1回試してみようと思います。

Pocketに空の記事で「日付区切り」を挿入しておくと、
消化や整理が捗るという話もあるので、
それにも挑戦したいです。

 

定期的に消す

情報というのは、本当に水もの。
興味をもつのも一瞬だし、それが失われるのもまた、
一瞬だったりするわけです。

なので、置いておかずに定期的に消すのは
いいかもしれません。

 

あらゆる方法で記事を消化する

Pocketの記事を読みきれない量ぽいぽいするという話以外に、
記事をもっと効率的に消化するというソリューションもありますよね。

そのために革新的かも!と思ったのは「リッスン機能」。

Pocketの特徴として、音で聞くことが出来るという機能があるんですね。
これは試してみてもいいかも。

 

埋蔵された記事を掘り起こす

こんなサービスを発見しました。

www.lifehacker.jp

『PocketRocket』を使えば、記事を毎日1つずつメールでランダムに送ってくれ、
さらにその後はアーカイブに入れてくれるため、保存記事を減らすのに役立ちます。

確かに、これは便利。ただ、今やってみているけど、
記事になってるものがアーカイブになってしまうので、
あとできちんと読みたかったのに・・・!
みたいなことになりかねず、あくまで埋蔵金的な感じで
使う感じかなと思っています。
(上記の対策を打てるようになったら廃止する想定なので、
一時的な暫定措置としています)

 

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以上、Pocketの利便性ゆえに困っているくろえの思考垂れ流し回でした。
解決したらまたご報告します。笑

それでは!