エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

【電通事件に寄せて】激務と言われる業界でできるだけ幸せに働く方法とは(追記あり)【その1】

こんにちは。お久しぶりです、くろえです。

 

人の生死を議論するのはとても難しいことで、
こと、私はあまりそういうことを言える立場ではないのだけど、

この話は弊社(およびコンサルティング業界など)では
議論不可避なのではと思ったので、あえて取り上げることにする。

 

---

 

いわゆる「激務」と言われる代理店やコンサル畑で働く我々にとって、
今回の電通過労死事件は他人事とは到底思えないわけで。

事実、私自身も、私の1,2年目(暗黒の新人時代)は
無駄徹夜のち、1日50回くらい死にたいと思ってたし、
実際に飛び込もうと思ったこともあった気もするし、
Twitter(鍵垢です)に
「今日も帰れない」
「(終電で出社して)これ会社に行く時間じゃないな」
「帰社なのか出社なのかわからん」
「今日は何曜日なのか」
「朝帰り乙」
みたいな呪詛を吐いていたような記憶があったりする。
実際、(仕事だけではないと思うが)ストレスから過食症にもなったし、
耐えられなくなって、勤務中に駆け込むように心療内科にも行った。

 

・・・という事実を踏まえて、今回言いたいのは
「徹夜は誰でも新人なら通る道!」的な
パワプロ理論(一定真なりな気もするけど)でも、

パワハラやセクハラが横行する労働環境が悪い!」
と言いたいわけでもない。

 

私が言いたいのは以下の3つ。

  1. (前提として)労働時間が長くなるのは業界構造上仕方ないのでどうしようもない(少なくとも今の私にはどうしようもない)し、働き方に「正解」があるわけではない
    (また、業界的に競争や劣等感といった感情は不可避なのかもしれないし、しょうがない面もある(物量が多い、とか、スキルがないうちは時間がかかる)ので一概に長時間労働を否定するのは筋が悪いとも思う)

  2. でも労働時間が長くなると無条件に病む(無自覚的に、というのも含め)
    (これは業界関係なく事実。労働効率も落ちるし、長時間労働は価値が低いし、長時間労働は確実に精神を蝕む)

  3. 信頼できる人と働く(もしくは味方を一人でもいいから持つ)ことが大事
    (責任の重さ、タスクの多さ、長時間労働などにより、病んでしまいそうになることはままある。そのときに信頼できる、狭窄視野に陥った状態から逃がしてくれる、中長期的に見守ってくれる他人=パワプロ理論以外のロジックをもつと信頼させてくれるような他者の存在が必要で、そういう人が社内にいるとよりよい)

 

上記3つに沿って話を展開していくこととする。

 

 

1.(前提として)労働時間が長くなるのは業界構造上仕方ないのでどうしようもない(少なくとも今の私にはどうしようもない)し、働き方に「正解」があるわけではない

弊社も含め、代理店やコンサルティング業界は
常にお客さん相手に仕事をしているお仕事。

何より大事なのは相手に満足してもらうこと、
お金を出すに値したと思われること、
だというのは大前提だと思う。

なので、(特に弊社やこの業界で言われている)
「価値にこだわる」「バリューを出す」という姿勢は
すごく大事、というか、絶対条件だと言える。

うちの会社の惚気をするつもりはないが、
職人気質のいい仕事をする大人がたくさんいるように思う。
そして、「いい仕事をしたい」と思っていて、
そこにこだわらせてくれる環境があること、
そういう人が働いている職場に要られることは、
恵まれているのかもしれない、とも思う。

(フォーカスポイントが間違っている気もしないでもないし、
無尽蔵に体力がある、要領で物量をさばいているなど、
自分には真似出来ないなと思うことはあるけど)


ただそれは諸刃の剣?でもあって、否定的に言えば
「時間にこだわるんじゃなくて価値にこだわれよ」
という論理にも用意に転び得る(=パワプロ理論の横行)。

「時間は関係ない、バリューフォーカスだ」
「時間がかかるのは自己責任。お前の能力のなさゆえだ」
こういうロジックも容易に成立し得る(もしくはそう認識するのは容易)。

そして未だに、このロジック自体を否定できるようなものを
私は十分に持てていないとも思う。ごもっともすぎる。

社会に出る、とか、責任を全うする、なんて、
本当に生半可なことではないんだなということを感じる。

特にこだわりがない、抜け漏れありまくり、ADHD気質の私からすると
きちんと相手にコミットし、責任を持ってデリバリーする、というのは、
正直かなりきつい。あまちゃんとは言え、向いてないなとつくづく思う。
(外交力とかで乗り切る、という手法を今は取っているわけだが・・・)

繰り返しにはなるが、我々のような仕事、つまり
クライアントからの発注ありきの仕事では特に、
「価値」(しかもそれは必ずしも形で定義できない)
を出さないと存在意義がないと言われてもしょうがない
というのは厳然たる事実だ。

それを踏まえた上で大事なのは、
「(そもそもの価値を定義することや、
周りを巻き込む、助けてもらうということも含めて)
自分にできる範囲で相手に求められている価値を出す」
ということ。
これが、職業人として求められていると感じる。

そのなかでいかに生きるか。

相手に求められている価値を出すまでやるのは
(仕事としては)前提なのだが、
結局のところ、仕事をきちんと完遂することも、
精神的限界を察知して逃げるのも、

すべて自己責任なのだ、というのが、一職業人としての態度なのではないか。

因みに、今の私は、

・前からやろうとする、物量に圧倒される、結果何も出来ない、コミットしない、いざとなると逃げようとする、同僚と比較する、言い訳ばかりの新人時代

から、

・前からやっているときには誰か別の人に助言を得る、物量を減らす、人の力を借りまくる、期限ギリギリにやる気を出す、なんとかギリギリのクオリティのものを持っていき、あとはトークと事後修正でどうにかする、お客さんだけを見ていれば社内は一定どうでもいいという優先度付けに変更

という自己流スタイルに変化した。

(なお、このスタイルをすすめているわけでは決してない)

(しかし、自分の特性やモチベーションの端緒を理解し、
なんとか存在できるぎりぎりのところで踏みとどまっている、
という表現が正しいように思う)

 

2. 労働時間が長くなると無条件に病む

(こと仕事の中で)精神的に病むのには様々な原因があるとは思うが、
「連続して長時間労働する」ことは少なからず精神に悪影響を及ぼすのは自明だ。

(この辺は激務と呼ばれる業界に身をおいている人であれば
皆さん身に覚えがあるのではないでしょうか)

特に若いうちは、身体的疲労がクリティカルなものになる前に
心が疲れていくものだと思う。

「そもそも私はいったい何をしているんだろう」
「仕事に、会社に、社会に、殺されるかもしれない」
「今飛び込んでしまえば、会社に行かなくて済む」
「どうやって起き上がればいいのかわからない」

といった状態。実際、一定以上働くとこういう感じになる。

もちろん、人によるのかもしれないし、無自覚な場合もあるわけだが・・・
(そしてまたそれが武勇伝化するっていうのもあるあるですね)

長時間労働は、必要ではあるとは言え、(短期的にも、中長期的にも)
精神を(中長期的には身体もなんだけど)蝕んでいくのは厳然たる事実

(仕事だから、というわけではなく、何か一つのことに集中した状態で
何時間も続けることは、極度の疲労につながる、ということを言っています)

 

3. 信頼できる人と働く(もしくは味方を一人でもいいから持つ)ことが大事

上記のような業界構造、また人間のカラダの構造からして、
やみやすい環境に置かれているのは言うまでもない。

責任の重さ、タスクの多さ、長時間労働などにより、
病んでしまいそうになることはままあるといえるだろう。

 

では、どうすれば死なずに幸せに働けるのか。


ここで私が言いたいのは、
「信頼できる人が見守ってくれているか否か」が鍵を握るのではないか
ということだ。

心が病んでしまっているとき、自分の目線は
「責任を果たせないかもしれない自分への失望」や、
「能力の低い自分への自己嫌悪」に向いていることが多い。

こんな状態になっていたら、正常な判断はできない。
一旦休んで(もしくは気持ちを切り替えて)リセットし、
自分をもう一度客観的に見られる機会や時間が必要だろう。
しかし、そのことにすら、自分だけでは気づくのは難しい。

そんなときには、結局のところ、周りの人に助けてもらうしかない。

社内、社外は問わないが(様子が見えるという意味では社内のほうが望ましい)
・中長期的に見守って変化を察知してくれる
・狭窄視野に陥った状態から逃がしてくれる
・評価以外の観点で関わっている
人が必要なのではないか。

仕事、仕事のなかでは、容易にパワプロ理論がまかり通る。
価値を出せないやつは存在意義がないと罵倒されることは
ある種理にかなっているとも言える。
(マネジメント観点では間違っていることが多いわけだが)

そんななかで、それ以外の観点があるんだよ、ということを
言ってくれる、かつ信頼できる他者の存在が必要だとつくづく感じる。

・・・結局のところ、自分を見てくれている味方がいる
というところが肝なのではないかと思う。

(そしてそれは価値を出す、アウトプットへの信頼ではなく、
人としての信頼であり、それらは圧倒的に異なる)

会社での仕事というのは、
1人でやるものなのではなく、仲間がいてやるものだ、ということである。

 

逆説的、というか、意外な感じもするが、
こと弊業界のような成果主義の業界ではなおのこと。

(特に責任感の強い人、自己確信のある人、特定の価値判断軸で勝負している人は、
自分の弱さを認識するセンサーが鈍いとも言える。)

 

「今あなたは精神的に追い込まれているんだよ」
「つらいのは事実、つらがっているという事実から目を背けちゃ駄目」
「自分に限界が来ているなら、逃げても大丈夫。
それを社会(とまではいかなくても、少なくとも誰か)は受け入れてくれる」
ということを言ってくれる人がいるかどうか。

「時間(≒経験)でしか解決できないよ」
「死ぬまで働け、死なないから」
「俺はもっと苦労した」
「俺も産業医につれてかれたわ(笑)」
「お前の同期はもっと苦労して働いている」
「お前はなぜ倒れてしまうのか」

と言い切る人しか周りにいなかったら、
私もまた、死ぬしかなかったと思っているわけで(なお上記発言はすべて実話)。

 

※ただ、言っておきたいのは、上記の発言や
今回の問題で言うところのパワハラモラハラ、人格否定は
やっている側に必ずしも悪意があるわけではなく、
会社の作り出している文化の問題だと思う。

だからこそ入る会社は選ばないといけないし、
入社前の段階で「信頼できる社員」を一人でも
見つけておくことは、すごく大事だとも思う。

それが出来なそうだったので大企業に行かなかったのは
かつての自分の選択を褒めたいとも思っている笑。

 

・・・と、ここまで連々と述べてきたが、
自分も別に一人前に価値を出せているわけではないので、
あまちゃんの戯言でしかないとは思う。

ただ、そんなあまちゃんでも、抹殺されることなく幸せに働くには、
自分の身の程をわきまえた上で、
常に冷静に自分にできることを考え、
不幸や過酷さに耽溺するのではなく、
出来ることを淡々とやることのみである、
ということなのではないだろうか。

 

(とはいえ、会社という観点で言うと、
社会に出たばかりのあまちゃんに対して、
社会に出る難しさやお金をいただく難しさは
それでも学んでもらわないと困ることでもあり、
そのギャップは人を容易に混乱させると思うので、
マネジメントって本当に難しいよな・・・)

 

ここで、私の転機について、自己満足的に話を。

 

深夜のMTGからの朝帰りを繰り返した後、一度倒れた。
そして、褒められるでもなく、ささくれ、病み、周りに迷惑をかけ、
部署の偉い人からも苦言を呈されるような状況に。

自分はこのままだとやばい、ということを実感。

しかし、私はもうどうすればいいのかわからなかった。
自分を攻撃することで現実から目を背けることしかできなかった。

「焦ってもしょうがないこと」
「同期と争ってもしょうがないこと」
(勝ち目がないばかりかその目線に立つと幸せにはなれない)
「もっと大事にすべきことがあること」
パワプロ勢からは言い訳乙って言われそうだけど)
を会社の先輩に諭され、しぶしぶ目の前のことに取り組んでみた。

地道ではあるが、少しずつ気づいたのは、

自分にできる範囲のことを宣言して遂行すれば、
他の人が意外と何らかの助けをしてくれること、

会社の人は敵ではなく味方かもしれないこと、

逃げなければ誰かが(結果的に)評価してくれる(かもしれない)こと、

そしてそれは意図することではなく、
ただ目の前のことに誠実になることによってしか得られないということ。

(遂行できているかというのはまた別の話ですが)

 

この経験があったので、相対的に低スペックで
体力精神力ともに劣っていても、なんとか今も仕事を出来ているんだろうなと。

 

※なお、弊社は某国立大学(×2)出身者がほとんどを占めており、
自分の代は自分以外のすべてがそのどちらか出身。
学歴を言い訳にするつもりはないが、処理能力などは歴然の差。

 

以上が自分の経験から言えること。

 

ただそれは会社自体への信頼とは全く関係なく個別具体的な話だし、
全員が全員そういう人を得るべき/得られるというのとは違うので、
あくまで方向性として推奨しているという感じで捉えてもらえれば。

(個人的には、信頼できる社員がいない会社なら、もはや
働く理由もないので辞めちゃえばいいのではと思うわけだが、
仕事にはいろいろな目的が包含されているような気もするので
あくまで一意見として捉えてもらいたいです)

 

結論:労働時間とかの定量的な問題や、それを下支えしている業界構造などにも問題はあるけど、結局のところ、信頼できる人と働く(もしくは味方を一人でもいいから持つ)ことが一番大事

 

ここまでかなり冗長すぎるけど、
会社自体・社会全体が改善するのは難しくて
(特にこういうお金のもらい方をしていると)、
日本全体の課題としては残り続けると思う。

でも、ミクロで考えるのであれば(自衛手段として)、
自分の周りに1人でも信頼できる先輩、上司、同僚を見つけて味方にすることが、
死なないでいながらにして価値を出して働くための
数少ない手段なのではないか。

 

そして、少し視野を大きくして、チーム、という観点で見てみると、
「親和性の問題だから違和感あればやめれば」
って思うことも無きにしもあらずだけど、
そういう短絡的な考え方ではなく、
一緒にやって価値を出すという意思さえあれば
その人なりの働き方を一緒に考えることは出来るよなとも思っている。

 

「その仕事にどんな意味があるのか」
「何が相手にとっての価値なのか」
「具体的にどのように進めればいいのか」
を放置せず、ずっと見守ってくれる、助言をくれる人がいる。

それが、長くきつい労働でも乗り越えられる
唯一の解決策であるように思う。

 

---

 

なんにせよ、こういう働き方はいいようにも悪いようにも捉えうると思うので、
自分の無理のない範囲で柔軟に思考できるといいなと。


だって、自分が幸せになるために働いているもん。少なくとも、私は。


生きているうちの大半を占める職場において、
肩肘張らない場や関係性は少しぐらいあってもいいし、

お互いのパーソナリティや価値観や能力を理解した上で
みんなで目標に向かっていけるような会社で働けると
いいなあ、と(馴れ合いではなく)。

本来労働は楽しいもので、人を死なせてしまうようなものではない。
「生きることが一番の労働である」とも言えるかもしれない。

傍を楽にするとはどういうことなのか、もっと考えたいなと思いつつ、
いったん、筆を置くこととする。

【最近のブーム】その辺で売っているたまごサンドでランキングをつけてみたよ

私は偏食癖が強いので、
最近はたまごサンドばかり食べている。

 

※参考:過去にハマったもの
チーズ(カマンベール、ブールチーズ、ミックスチーズなど)、キャベツ、ベーグル、ドイツパン、餃子、塩パン、カレー、ヨーグルト、・・・
クラフトビール、スパークリングワイン、・・・

 

なので、今日はたまごパンについて語り散らそうと思う。


たまごパンの美味しさを図る要素は、以下の3つであると考える。

 

①パンの柔らかさや美味しさ
→たまごパンには白パン(ハイジパン)の親和性が基本的に高い。
固いパンよりもやわらかいパンのほうが良いと思っている。

②フィリングのクオリティ
→白身と黄身のバランス、味付けのバランスの2点かなと。
黄身感があるのと、マヨネーズ感はできるだけないほうがいい。

③フィリングとパンのバランス
→質的な意味では、ふわふわしたパンとほわっとした卵の融合がキモ。
量的な意味では、やっぱりフィリングは多いほうが嬉しくなる。

 

最近食べているのは、主に「コンビニのたまごサンド」と「市販のたまごサンド」だ。
今回は市販のものについて記載していく。

 

【1位】Pasco ソフトランチパン たまご 袋1個

mognavi.jp

総合評価:★★★★☆

①パンがふっくら柔らかな白パンに挟まれている時点で、
私の心は躍った。食べても、ほわほわ。うまい。
味も主張しすぎず、うまく卵を引き立てている。

②フィリングも、あら目に作ってあってよし。

③ただし、フィリングの割合が少し少ないのは残念。
味のバランスは最高。パンが卵をそっと立てる感じで、
心が優しくなれる、ような気がする。

感想:そして特筆すべきはコストパフォーマンス。
普通のサンドイッチが200円前後であるのに対し、
これは100円。圧倒的に高CP。
ただし満腹感はあまりないのはフィリングの量ゆえか。

適した文脈:帰り道ちょっと疲れたとき、
買って帰って家で手軽につまめるかなと。
温めなどの調理も不要なので、手軽な文脈にピッタリ。

 

【2位】ヤマザキ ランチパック たまご 袋2個

mognavi.jp

総合評価:★★★★☆

①まず、パンが甘くて嬉しくなる。
きっちり食べている、というか、
味が押し寄せてくるような感じ。

②具の味が濃い。こちらも食べてる感じがする。

③量のバランスでいうと、フィリングも多くて良いが、
味という観点では、どちらもややしつこめ。

感想:やはり満腹感でいうと、こちらのほうが上。
ただし、味の主張がそれぞれ強すぎる印象を持った。
たまごサンド特有の優しさ感が足りないかなと。

適した文脈:そこそこおなかすいてて満足したいとき。
このくらいお互いの主張があるのであれば、
ホットサンドにして食べるのも良さそうかな。
アレンジのしようは結構あるなという感じ。

 

【3位】

ヤマザキ バリューデリシリーズ たまごロール

mognavi.jp

総合評価:★★★★☆

①パンはけっこう柔らかめ。あと甘いので具があんまりなくても大丈夫。
パン自体には高級感とかはないかな。まあ、バリューデリだし。

②フィリングは卵感があって結構好き。ただ、量はあまり多くない。
マヨネーズ感はあまりないが玉ねぎ感もない。卵が好きな人におすすめ。

③フィリングとパンのバランスは結構いいと思う。

感想:これはCP良いので結構ありかなと思った。
ライトに食べれるので、深夜とかでも食べても許されるのかも・・・とか(デブ甘え)。
 

【4位】

フジパン スナックサンド タルタルたまご 袋2個

mognavi.jp

総合評価:★★★☆☆

①パンは2位のランチパックとそこまで変わらない。
ソフトでほわほわだが、やっぱりちょっと主張が強いか。

②特徴的なのは具の味。ただのたまごではなく、
タルタルたまご。ピクルスの酸味がアクセント。
私はピクルスは嫌いではないが、マヨネーズは
そこまで好きではないので、これは優しさに欠ける印象を持った。

③量的なバランスで言うと、フィリングはランチパックより少なめか。
質的なバランスで言うと、やっぱり味はしつこくてあまり好きではない。

感想:やっぱり純粋なたまごサンドが好き。

適した文脈:がつんと主張のあるたまごサンドが食べたいとき。
こと私で言うと、そんなときはないのでリピ買いはないかな・・・

 

 

【これから食べるもの】

ヤマザキ モッチdeソフト たまご 袋1個

mognavi.jp

これまだ売ってるの見たことないんだけど、
どこに売っているんだろう・・・
※他にもたまごサンドパンの目撃情報あれば
お寄せください!

【総括】

ずっとパンは好きなのだけど、
昔よりも味覚の方を重視した食品選択に
自分の思考が移行しているような気はしています。

ライフステージの変化なのか、
味覚の幼児退行なのか謎ですが・・・。

あと、たまごサンドはそこまでではないですが、
パンは熱を加えると基本的に美味しくなると思っています。
例えば、クロワッサンとか。

最近話題になっているトースターとかもあるけど、
パンはやっぱりトーストとかをすると
味がぜんぜん変わるなって思っているので、
中長期的には、やっぱり美味しくパンを焼ける
トーストが欲しいなあ、と思いました。

 

意味のない更新、おしまい。
食事の時間を犠牲にして更新したので笑、
午後はお仕事がんばります。

人間の生き方は4つのゲームに分類できる、という仮説(追記有)。

おひさしぶりーふ。

 

そこそこにしんどい調査期間を終え(月~木)、
それで金曜日の午前中は倒れて会社に行けない
・・・といういつものやつ。
最近会社では安定的に真顔のくろえです。友達いません。

 

さて、どうでもよいことはさておき、
ここで最近の僕の研究テーマと成果を発表します。

納品近いしいろいろ詰んでるけど、言いたくなったので言います。

 

最近の自分の関心領域は
「人が自らの人生(および大事なこと)を何であると捉えているか」
という話なんですね。

で、最近すごく腑に落ちた話があったので。

 

世の中の人間は、言わば4種類のゲームをやっていて、
それによって人間関係の構築方法や相性が決まるのではないか?
・・・ということ。

 

何を言っているか意味不明だと思うので、頑張って説明します。
コンサルなので2軸で切ってます。

 

■人間がどんな人生を生きているかを端的に表すための2軸

・1つ目は、「生きている時に何を見ているのか」ということ。
自分もしくは他人としましょう。

・2つ目は、「人生の目的が何か」ということ。
何が第一義か、ということかな。社会性の有無かもしれない。
承認主体の人(他人の承認ベース、社会性あり)と探求主体の人(自分の欲求ベース、社会性なし)かなと。

 

※ほんとはZ軸に「スペック」がある(要は「ただしイケメンに限る」)んだけど、その話をすると悲しくなるのでやめておく。

 

で、その2軸にしてみたら、こんなんできた。

 

■人間がどんな人生を生きているかを端的にゲームで表したものがこちら↓

※筆者はゲーム詳しくないので完全にイメージです

 

f:id:cloalien:20160919023226p:plain

 ※グラディウスでした、誤字さーせん!

 

お分かりいただけるであろうか。
以下に説明を加える。

 

■各象限の特徴

【第一象限】「ラブプラス」タイプ(他人志向、社会性無)

他人の価値観や思考に興味を持ち、関係性を探求するこのタイプ。恋愛ゲーやり込むタイプ。人間厨とでも言おうか。
恋人好きすぎてうっかりポエムを書いてみたり、シチュ萌えしたり愛のささやきあいにぼむぼむしちゃう人。他人との時間が至高で、好ましい関係性を紡ぐことがなによりも大事、みたいなやつ。ただし、肝心の人間関係が健全でない場合、ファン化、奴隷化、精神崩壊、被DVなど、なんか拗らせる。やつ。
因みに筆者は概ねここ(聞いてない)。西野カナとかもここか?岡崎京子の世界観とかはこっちかな。きみが心に棲みついたのキョドコもこのタイプ。 
テニプリで言うと・・・うーん・・・さくのたんとか・・・?ちがうか。。あんまいなそう。

 

【第二象限】「マリオパーティー」タイプ(他人志向、社会性有)

他人に同調し、埋もれながらも相互承認で生きていくことを志向しているタイプ。某母校大学のウェイとかウェイとかはここ。なんにせよ小集団を作ってそこにコミットしている人はここな感じ。会社愛!みたいな人とか。この世の多くの人間は、(いや、日本人の多くは)ここかな。私の母校の人とか、特に女性には多い気がする。一番うまくいきていけるタイプ。共同体にいる以上、これが増えるのはある種当然か。
ぱっと思い出したのは、テニプリで言えば菊丸くんとか桃ちゃん先輩とか。ちょた(鳳長太郎)もここかなあ。ていうか六角?

 

【第三象限】「パワプロ」タイプ(自分志向、社会性有)

会社のランクや社会的ステイタスを争うために明確なルールの決まった社会で働いており、それが個人の価値観にも如実に反映されている(逆か?)パターン。勝負する場所を見極め、一番でありたい、自分の能力を限界まで高め、最大限金銭的価値(とは限らない(社会的価値とか社会的ステイタスとも言い表せるかもしれない)けど、ここでは便宜的にそう表現している)に置換したいというタイプ。良くも悪くもプロ。
外銀マン、証券マン、商社マン、コンサル、・・・なんかは全部ここなんじゃないかな。男性は多そう。キャリアを一定志向している人はみんなここなイメージ。
上記だけだと、経済的価値やビジネススキルに特化しているような印象を受けるが、そういうわけではない。女性でも、自分の能力で生き残ろうとしている人とか、社会から見た「良い女性」であろうとする人はここに入る感じ。パワプロでいうと野球選手の奥様になるようなゴールイメージか。芸能人とか、プロ彼女とか、東カレに出てきそうな感じの人はここに入るので、女性も一定ここかもしれない。
で、テニプリで言うと、もうほとんどここですね。スポ根だったわ、あれ。イメージ強いのは、赤也くんとかかなあ。なんかもうちょっとキョロ充っぽいのでいうと、観月先輩とか?不二弟とかもここかな。

 

第四象限】「グラディウス弾幕ゲー」タイプ(自分志向、社会性無)

やりこみゲーを職人技的にこなす人。繊細な文学的表現を好み、内にこもり美を追求する感じの人はここかなと。特殊技能持ってたり、芸術家気質だったり、みたいなイメージ。無骨だけど自分の追求することを(社会的承認よりは自らの探究心ゆえに)ちまちまやりこむ職人肌。
テニプリで言うと、大好き真田弦一郎とかは、第三象限ではなくこっちな感じがするんだよなあ。黙々と淡々と鍛錬していそうな感じが。不二くんもこっちのイメージね。孤高の天才みたいな。

 

一応例を図に当てはめてみた。

f:id:cloalien:20160919024323p:plain

 

■ここから得られる気づきと示唆

この軸を切ることで、いくつかの示唆を得られる気がするので記述しておく。

 

【気づき】

・基本的に、別のゲームをプレイしている人とは、ゲージが違うので戦うことはできない。
例えば、ラブプラスを日常プレイしている人の前に、突然パワプロやってる人が現れた場合、そもそもフィールドは放課後の教室じゃなくて野球場だし、ラブプラスでほしいのは甘い言葉だったり優しい対応だったりするのに、いきなりバット振り出すし、ラブプラスでやりたいのは両者の駆け引きなのに、パワプロポジションや筋肉回復にしか興味がなかったり、みたいな。

・とはいえ、前提として、たぶんひとはこの中でも「メインでプレイしてるゲーム」と「理解でき、参加もできるゲーム」があるはずで、隣のマスくらいまでは越境できる気がしている。そのカバー範囲は個体差があるかもだけど。
例えば、私は基本ラブプラスしてるけど、同じ探求という意味ではやりこみゲーをやる人は一応理解できる(地味にちまちまソリティアするとかは一応できる)し、他人に興味がある点ではウェイも一応理解はできる(ので、マリオパーティーとかボードゲームは一応出来る)。

・対局に極度によっている人種同士は、お互いの人生のゲームのルールがぜんぜん違うので、お互いを理解することができず(理解する機能というか相手のゲームの変数というかゲージがないので)相容れない可能性が高い。
例えば、
第一象限と第三象限。それはさっき説明した通り。第二象限と第四象限とかも同様。弾幕ゲーやってる引きニートと某大学のテニサーウェイの親和性の低さを想像してもらえば何となく分かるかな。

 

【教訓】

・自分がなんのゲームをしていて、どこまでは対応できて、相対する人間がメインでやってるゲームは何なのか、ということを理解することで、自分との親和性や、関わり方を考えることは出来ると思う。自分の得意な人間としか関わらない、というのは難しいし、ときに自分と違う世界の人間と交わることにも、場合によってはそれなりに意味があることもある(かもしれない)し。

・そして、もしゲームが違うことを相互に理解出来てると多分すごい。相容れないはずのセグメントにいても、「(普通にしていたら)理解できない」ということを認識できるので、一定打ち手を想定しながら人間関係を構築できる可能性が生まれる。

・そして、双方にゲームが違うことを理解すれば、「なんでわかってくれないの!?」問題は一定解決する気がする。ラブプラスの人は他者理解のゲージを持ってるしそこをレベ上げしたいけど能力とか筋肉量みたいなゲージはなくて、前者のゲージをパワプロの人に求めてもそういうゲームじゃないしね、という感じで。他人に建設的でない期待をせず、より好ましい関係構築に向かうことが出来るのではないか、という期待。

・(おまけにすぎないが)たぶん人間社会の中で圧倒的に多いのは【第二象限】。ちゃんと組織社会のなかで生きれる人。続いて【第三象限】。資本主義社会でうまくやっていける人。で、社会でうまくやれないのはそれ以外のタイプなんではないかなと。集団社会もしくは資本主義社会に適応出来ていない可能性が高いので、第一、第四象限に属する人間はそのことを認識したうえで、第二、第三象限との関わり方や適応方法(せめて理解できるように)を思考すべき。

・逆を言えば、第二、第三象限の人たちが、第一、第四象限の人を理解する必然性はそこまでないかも。 生きているうえで必要になったら、という感じか。それをどうすればいいのかは私にはわかりません。

 ・さっきこれ上司に喋ったら「象限の中にも濃淡があって、象限の中で濃淡の違う人だと逆にけんかとかしちゃうかも。逆に俺は違う象限の人とのほうが一緒にいれるなあ」とのことだったので、理解できる、ということと、好きである、とか、一緒にいる、というのは違うのかも知れない。

・ただ、これは上司が「自分がどこのゲームをどのくらいの濃度で戦っているか」を認識しているからなのではないかとは思った。さらに言えば、「自分がどこのゲームを戦っているか」を自覚していない人の場合、自分のゲームで戦うことを全種類の人間に要求するので、その場合は同じ象限内でないとうまくいかないんだろうな、とも思った。

・そして、「自分がどこで戦っているのか」と「自分がどこまで理解・適応可能か」というのはそれこそ経験を通じてしか体得&拡大できないらしい。

 

・・・というわけで深夜テンションで投稿したけど、
割と人間の価値観をすっきり2軸で表現できる
整理フレームな気がするので、ぜひ使ってみてください\(^o^)/(?)

 

ではではあでぃおーす。よきしるばうぃくを!
(なお私のしるばうぃくは終焉を迎えた!明日は会社だ!死にたい!)

目的ない記事投稿をしてみんとて、するなり(主に人間関係について)

最近、文章化やコミュニケーションに関する思考をする機会が多いので、とりあえずそれらを一切無視して、昨日くらいなのかな、仕事しながら書いてた日記(付箋に書いてあった)をここにコピペで置いていく。

 

<免責文言>

テーマもなければ、投稿に目的もない。(ターゲットは潜在的には存在している可能性はあるが・・・)強いて言えば私理解か。かまってちゃんか。

一旦、何の制約もなく、ただ文字を衝動的につむぎ、それを世に出す、という無意味ないとなみをしてみたい、と思ったからだ。

というわけで、さんざん免責文言を並べた上で、置き逃げ。

 

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【家族について】

・私は家族(特に父かな)でいると、違う視点からの考察により思考に刺激がもたらされる&思考が進捗するから好きなんだなあ

・ママの愚痴は、自分の置かれている境遇と恐ろしいほど似ていて、すごく嫌だと思ったけど、ただの同族嫌悪だなと思って本当に嫌だ

 

【男女関係について】

・相手が何かいけない(もしくは不快な)ことをしたときに、それを受けて別れるのか、それとも相手を許して相手が変わっていくのを待つのか
→基本的には、相手の変化する可能性を信じて付き合うというものなんだろうな
→付き合う根拠はほぼ衝動・感覚。契約に基づくものではないのが人間関係の特異性

 

【コミュニケーション不全】

・かまってちゃんだからなのか、中途半端に目的思考だからなのか、特定の読み手を想定してアウトプットしてもしかるべきリアクションがないのは、こうなんというか死体に向かって話しかけているような気分になり、自分への不信だけではなく対象者への不信につながるんだなあ

・アウトプットしないほうがマシということなのか。よく芝居などで、相手からの返事がなくても相手の無事を祈って手紙を書き続ける戦時中の妻みたいなの出てくるけど、基本的にインタラクティブなコミュニケーションがないのであればアウトプットする意味が無いしなんていうかそんなに人間できてないしそこまでして特定の人間に固執して悲しくなる必要はないし自分の醜さに辟易とするのは気持ちいいことではあるけど実際相手からすると不条理である可能性もあるしもうなんていうかとここまで書いてみて横文字の多さに草

 

【私の持つ欲求とコミュニケーションの関係性】

・私個人が持っている「人の痛みをわからないながらも理解しようとし続けたい」という根源的な欲求をもとに行為する先に何らかのメリットがないのであれば、その人間関係は私にとっては破綻しているといっても過言ではない。「理解に基づき、その痛みをよりよいものにしたい」という欲求がワークしない(相手にとってメリットとならない)のであれば、関わる意味も薄いのかもしれない。

 

【異なる価値観】

・自分と異なる他者に出会った時、面白い!と言ってその人を理解しようとし、その人の見方で世界を見ようとするのか、それとも、自分とあう/合わないという尺度で物事を見ようとしているのかという話なのではないか

・私は前者でありたい。前者の人に刺激され続けたいし、学び続けることを妨げられたくない。人との関わりの一つ一つに、勝手に思いを馳せて、勝手にきゅっとしたい

・人と分かり合えない現実を分かりながらも、どこまでも肉薄していきたいという醜い願望を認識しながら。理解できることがないという敬意を持ちながら。そして、そんな感覚を共有できるといいんだろうなー

・そろそろ色んなコトを真面目に考えないと。私はどんな世界を生きていたいだろうか
・無言の信頼なんてものは「存在すると思うもの」ではなく、「存在するもの」であるはずで。言語化すべきでも、望むべきもなく、あるかないかだけ。議論や欲求すること自体が野暮なのかもしれない

 

【人間関係は「役割」なのか】

・そもそも人間関係に「役割」をあてがうというものが、私の認識の中では少し違うような気がしている。

・それこそユーザビリティは「特定の利用状況において、特定のユーザによって、ある製品が、指定された目標を達成するために用いられる際の、有効さ、効率、ユーザの満足度の度合い」のことを指すけど、これは社会を構成するものを思考するのには役立つ概念だなとは思いつつも、人間関係――こと、恋愛など、包括的に人生を支えるもの――については、必ずしも当てはまらないのではないか(それはほぼ欲求や衝動、感情、感性といったものが起点になっていると考えているため)と最近思う。

・役割の枠組みが先に立つ人間関係は、もはや「恋愛関係」ではないし、私の定義するところでは人間関係ですらないのではないか(だからといったらいいわけになるが、私の人間関係の幅は極端に狭いという認識がある)

 

【「仕事」や相手、外部環境のせいにすること】

 ・(ここでいう「仕事」というのは概念としてであり中身としてではないが)「仕事」に逃避できたり、「仕事」で言い訳できたり、相手のせいに出来たりする環境は幸せだよね。自分も今までずっとそうやってきたし、今の部下とかを見てても思う

・とはいえ自分も思考しないところなんていくらでもある。例えばリラックマの商品があると刺激反応的に全部買う、とかは無思考ちゃ無思考だよなと思う。それは好きゆえなのかアイコンとしてなのかもはやその境界はわからない・・・そういうものなのかな(すべての行動を意図的に行っていたら時間がいくらあっても足りないというのはもちろんで、だからこそ大事なことは大事にしたいし結果的に時間を使っているという状態になるということ)

・仕事くらい逃避させてくれる場でもいいのかもしれないけど、わたしは、人間関係に関しては、逃げないで自責でやらねばならぬことを常に認識し、慢心しないでいたい

・相手のあることなので必ずしも自分の信念通りに行動するのが正しいわけではないが、そうならないのであればどちらが正されるべきなのかに関しては意思を持ちたい

 

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こうなんというか全体的に野暮感あるけど、日々割と真剣に生きてます。

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格が無い」を俺好みにしてみた

こんにちは。
最近の諸々の鬱憤を晴らすべく、
文字で遊んでみようと思い馳せ参じました。くろえです。

※仕事はつらいけど、たくさん幸せです。

 

さて、ここから本題に。

 

 「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格が無い」

 

かつて部活の顧問に言われた冒頭の言葉。
繰り返し言われたこの言葉の真意は何だったんだろう。

 

※どうやら、「レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の私立探偵、フィリップ・マーロウのせりふ」らしい。
これを引用し、日本では高倉健主演の映画「野性の証明」(1978年、森村誠一原作)の宣伝文句(「男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」)に使われたんだとか。

なんにせよ、深く心に残っている。言葉の印象の強さ故か。

いずれこの顧問の話については書くとして、
その言葉のなんとなく意味するところを解釈したり、
それを勘違いして使っている人をにがにがしくおもいながら、
ここまで生きてきたような気がしています。

 

で、そろそろ、私もこれに対するしっくりくる言葉を
探してみようと思い立ったので、してみんとす。

 

■「強くなければ生きていけない」

 

まず、「生きていけない」、とはどういうことか。
強い、生きる、などの話から想起されるのは、
リアルな生存の話なのだと思う。

私がここまで生きてきた中で、
この世の中は少なからず残酷だ、とは思うけど、
強くなければ生きていけないほどは、世の中は厳しくない。
貧しければ貧しいなりに、厳しければ文句を言いながら、
なんとか生きていくことは出来る。

 

では次に、「強くなければ」のところだ。
そもそも強いとは何か。
精神的な強さなのか、技術的な強さなのか。

ここで言われている(少なくとも語られていたのは)
技巧、実力としての「強さ」だったと思う。
イメージとしては、百獣の王のような。
私はこれをどう捉えようか。
イメージ、ロジャー・フェデラーなんだよなあ。これ。
力だけが秀でているというよりは、総合的に強いみたいな。
「心身ともに」ということになるのかな。

 

・・・とすると私は、
「心身ともに強くなければ、生きるのは大変だ(つらい)。」
というのがしっくりくるかなと。

 

■「優しくなければ生きる資格が無い」

 

ではこちらだ。

「優しさ」とはなんだろうか。
これはすなわち「人としての器の大きさ」かなと思う。
人の痛みを、限界をわきまえながらも想像し、
他人に敬意を払いながら、その人に憑依する。
だれにでも入り込めるわけではないという己の限界を知りつつも、
その範囲においては、相手の立場に心を寄せられるような。

 

「生きる資格が無い」という言葉、これが一番しっくりこない。
そもそも生きることは資格を与えられることではなく、
もうこの世に生を受けてしまった時点で生き抜くことを運命づけられている
ように思う(長さや背負う制約は違えど)。
なので、資格は生きている時点であるし、
仮に人が優しくしなかろうと、世間は何も彼を咎められないし、
まして彼の生きることを咎めることはないだろう。

・・・とすると、私は
「優しくなければ、世界は優しくない」
くらいの感じがしっくりくるかな、と思う。

優しさを持っている人だけが享受できる世界や感覚がある。
それは、一般的には「よりよい」とされているが、
そこを志向するかは本人の自由なので。

 

■結論

 

というわけで、

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格が無い」

は、私的解釈でいうと

「心身ともに強くなければ、生きるのがつらい。でも、優しくなれば、世界は心地よいものになるのもまた事実。」
とかになるかな。

 

■感想

体育会な名言が、私好みのふんわり感に置き換わってしまった。


周りの評価とか資格とか格付けとかではなく、
自分の心地よさを追求したいよな、と。
というか、それくらいしか生きる際に追求すべきことなんて
存在しないようにも思うしね。

 

以上、現実世界での鬱憤を憂さ晴らししている私でした。
もう金曜日だ、仕事しよう・・・

 

■おまけ

「強くなければ生きづらい。優しくなければ生を肯定できない」
「強くなければ戦いに負ける、でも、優しければ戦わず済む」
とかいうのもちょっと悩みました。何かアイディアあれば教えて下さい。

「(特にコミュニケーションにおける)言葉の前提は人それぞれ異なる」ということを認識する必要がある、と思った話。

こんにちは。

休日だけど仕事しなきゃで、
でも全然仕事したくないので、ブログ書いてます。

 

最近気づいたことで大きかったものをここに。

  

■ことばの前提について

 

ひとが何かを言葉にするとき、
念頭に置いている、というか、
前提にしていることって結構違うなと。

そしてその前提への理解がないことが
分かり合いの困難性を生んでいるのではないかという。

で、それは逆もしかりで、
お互いの言葉の持っている前提を知ってるかどうかが、
お互いを理解する上で本当は必要なんだろうな、と。

なんていうんだろう、
言葉の賞味期限とでも言いますか。

基本線として、言葉が何らかの真実に肉薄しようとしている
というベクトルは間違ってないかな、と思うんだけど、
もってる時間の感覚が大きく違っていて、以下の2つかなと。

 

■2種類の言葉

 ①「今、ここ」にいる自分をリアルに表す言葉

②出来るだけ普遍(不変)な事実を記述する言葉

 

この2つかなと。以下にちょっと詳細を書いてみる。

 

①「今、ここ」にいる自分が思っていることをリアルに表す
(「僭越ながら」のすみれちゃんとか「三宅のはんなり妄想記」の香帆ちゃんとか)


参照:

aboutyou2015.com

二十歳を過ぎたら、自分が自分を教育するんだ。 《三宅のはんなり京だより》 - 天狼院書店

 

②出来るだけ不変な事実を記述する

(堅いものだと教科書、法律などの公的文書がそれにあたるかなあ。)
(会社のミーティング資料とかそんな感じ)
(あとネット記事もそうだね。事実を記述しているのは特にそうかな。)
(論理的に意見を構築しているものに関しても、こちら側のイメージ。)

 

一言でいうなれば、「感性的か理性的か」とも言えるかもしれないね。


■起こりうる不和

 

んで、こと個人的なコミュニケーションのなかで
この2つが交わると、認識の齟齬や不和が生まれるのでは、と。

 

特に「何を大事にしているのか」の違いに起因するもの。 

①は「今、ここにある」感覚への肉薄を追求していて
②は「絶対的に正しくて」、「それが揺るがない」という事実性を追求している
・・・のかもなあ、と。

 

であるがゆえに、例えば恋人同士であれば、

①側の人間に起こるであろう不満:
「なんでいつも同じことしか言わないの?いつまでも同じわけないじゃん。」
「わたしの「いま」を見てよ。」
「わたしに興味なくなったんだね?」

②側の人間に起こるであろう不満:
「あのときああいってたじゃん。何で違う反応が返ってくるんだ・・・」
「その話題は一度話したよね?あれじゃダメなの?」
「理解できない。」

とかいうことになるんじゃないかなーと。

 

これだとすごい男女を念頭に置いた感じだけど、
世に遍く起こる人間の不和、って、
使っている言葉(もしくは会話に対する認識?)
に対する前提の違いによって
起こっているような気もするな、と思った次第。

 

■じゃあどうすればいいのか

 

どうするといいんだろう。

まだあまりわかっていないけど、
よりよいコミュニケーションをしようと思うのであれば、

  1. お互いに違う前提を持ってコミュニケーションしていることを知る
    (そしてそれが優劣の差ではないと認める)
  2. その違いが何かに対して関心を持つ
  3. 相手にとっても、自分にとっても、心地よい場所を探し続ける
    (きっと時間が経てばそれを意図的にすることは減っていくのだろうけど)

とかが大事なんじゃないかな、と。
(恋人でも、職場でも、友達でも、これは割と全部一緒なのでは?)

1.が超難しいんだろうなって思うわけだけど。
(自分が差異に対する受容度がもともと低いのですごく思う)

 

ふう。そろそろ仕事するかー。
あでぃおす。

 

追記

仕事終わりにファミマに寄って、
背徳感と共にサンドイッチを選ぶのが至福。
(だから太るのでは)

追記2

wakabkx.hatenadiary.jp

やっぱりきれいな文章を書く人って存在していて、
雑誌とかを読んでいてもうっとりすることがある。
文章が綺麗になるといいなあと思うし、
そのために時間や労力を使えるようになりたいなって思う。
今はチラ裏だけど、少しずつ、そういうのも。 

見たいものだけ見る。感じたいものだけ感じる。汚いものは見ないふりする。

とどのつまり、包摂とか止揚とか今まだ無理なので、
すべきこと/貢献したい・すべき人/一緒にいたい人
だけ一旦見ることにしようと思った。

 

汚いものは見ない。
汚いことに悲しみは覚えるけど、
交わろうとしない。

 

彼らと関わっても意味が無いということに気付いて
絶望して悲しくなってもしょうがないのだから。

 

もう何度も決意していることなのに、
つい忘れがちになってしまう。

 

よりよくなるかもしれない/分かり合えるかもしれない
有り得たかもしれないわずかな可能性ではなく、
目の前にあるものに、日々、まっすぐ。

 

それだけで生きてみる。今と前だけ見て生きてみる。
どんどん、生きる領域を狭くしていこう。
そういう実験。

 

それを支えてくれる人は、きっといる、と信じてみる。
大丈夫、大丈夫・・・たぶん・・・いや、そうだ。

 

おまけ

ゆず/雨と泪
https://www.youtube.com/watch?v=WmLf4tRFQKg
これが似合う夜。
画面を設計しよう・・・

他者に対して恐れや畏敬の念を持つことは超大事だけど、とはいえ不安は闇雲に持つべきではない(誰(の意見や存在)を大事にするかは自分が決める)というお話

そうしないとなぞに疲れちゃう。
なんというか、疲れるのは本末転倒で、
本当はやりたかったことをやらないことの
言い訳になってしまう(→鬱エンド)気がするので。

 

・・・というのも。

友人と昨日、お茶をしていたのだけど、
・行動を推進するのではない問い
・他者/事に対する不安に端を発した問い
(例、
「この人から嫌われないだろうか/嫌われていないだろうか」
「このことは向いていないんじゃないか」)
って結構愚問というか、
そんなん問うてもしょうがないし、
なんというか、いわゆる「いい問い」じゃないよね、と。

 

そんなこと考えるくらいなら、

・問いの根本原因を断つ
(「この人」「この事」よりも「今の状態」の解決が大事な場合)

・今後心地よく関わる方法を編み出す
(「この人」「この事」のことは好きで、関わり続けたい場合)

など、前向きな手を打ったほうがよいよね、と。

もうさ、やっぱり不快なものは不快だし、
それは「気の持ちよう」「努力」「気合」とかでは
どーーーーーっっっしても変わらないので。

 

でも

それとは別に、大事ないとなみとして

・自分と異なる価値観を理解しようとする
・自分と異なる考え方を受け入れようとする
・自分と異なるものに恐れや畏敬の念を持つ

ということがあると思うけど、
これについても、やみくもにやるのは少し違っていて、
一呼吸置いて、自分とその意見/その他者の関係性を問い、
それを双方に位置づけた上で、自分の中にどう取り入れるのか考えるほうが、
(自分にとっては)健全だよなーということを思っていたりします。
(取り入れるなり止揚するなり無視するなり、色々あると思うけど)

きれいなものだけ見ていたいのは事実だけど、
(そうできないのも事実だけど、)
いろんな価値観を取り込みたいのも事実だけど、
(そうできないのも事実だけど、)
結局取り込むも取り込まないも、
最後に決めるのは自分だなと。

 

結局自分しか自分を守れないので。
(好きでも、嫌いでも、届かなくても、歯がゆくても、幸せでも、
まあ結局のところ、そういうもんなのかなと。)

 

※勢いで書いたので、もしかしたら
特定の人や現象を鈍器で殴りにかかってる可能性もあるけど、
色んなことがうまくはいかないので、一旦書き逃げします。

 

不本意・・・


【おまけ】

・前提として、言語化されているものは所詮「叶えられないこと」や「出来ないこと」。

・一回決めた認識や価値観はなかなか変わらないし、
そのことを確認するたびに、自暴自棄だったり、自己卑下に陥るけど、
結局(変わるのも、こだわるのも)バランスで、それを心地よくしたいよね、
という当たり前の結論。

・ぐちゃぐちゃ考えているときに前を向かせてくれるのは
今までは信頼できる他人だったなと思っており、
そういう人こそ大事にしなきゃいけないなと思うし、
これからもそういう人との出会いや関係性の深みは追求したい。

・(目的も異なる他者の、という前提だが)
新たな価値観との出会いや止揚は、一旦優先順位が低いのかもしれない。

・そんなことより、大事な人、もの、ことに対して、
どうやったら大事な人に価値をもたらせるのか、
どうやったら好きな人といい時間を過ごせるのか、
どうやったら大事なものをもっと大事にできるか、
それを通じて私自身が多幸感を感じながらいきいきと生きられるのか
ということを考えるほうがよっぽどいいよなと思っている。

・それでも関わり続けたい、と欲求してしまう場合、
(つまり、毒を受けることを覚悟で毒を食べようと思う場合、)
それをどう受け止め、どうするべきなのかは不明。
(極力無くしたいわけだが・・・)

私はブルーワーカーになりたい

意味付けは意味付けでしかないと言いながら、
結局意味付けをし続けてしまうので。

 

これ、問題は意味付けをすることに意味がないことじゃなくて、
(実際、私は意味付けでも意味があるならいいじゃんって思う)
意味付けに終始して何もしていないことなんだろうな。
(行動をするべき時間/リソースを阻害して意味付けをしている)

 

だから、本当は、
意味付けをする隙がないくらい目の前にやるべきことが有って、
はあ、疲れた、と思った時にそれを意味付けして、
(これはもはや欲求なので、意図せずともやってしまう)
ああ、よかったな、と思える方がいいんだろうな。

 

つまり、意味付け/価値定義を本業にする仕事は
本当は向いていなくて、
意味付けを合間にしてほっこりする、くらいがいいんじゃないかな。
(意味付けという行為自体に罪悪感を覚えるのは
なんだかよくわかんなくなってきた・・・)

 

・・・という気づき。
意味付けする暇ないくらい作業に没頭できるといいんだろうな。
意味づけしないと価値が立ち現われない仕事は、
常に存在の価値について問い続けなきゃいけないので、
胃が一生痛い気がするんだ・・・

というわけで、冒頭の結論に至ったわけでした。
(仮説ですが)

 

※断定形は炎上の匂いがして怖いね!

 

 

おまけ

 

wol.nikkeibp.co.jp

今でも断じて高給取りというわけではないが、
いちみりくらいしか、お金を稼いでいると自負できる
価値を創出しているような気はしないので、
ここでのアンケートに答えている人は
どれだけ自分に自信があるんだろうと羨ましくなった・・・。

 

自分に経済的価値を創出することは可能なのかというのは
一生の問いになるんじゃないかと思う今日このごろ。

 

以上、くろえでした。あでぃおす。

明日もミーティング。
(案件には恵まれてるけど、やはり仕事は憂鬱だ)

ここで/数多ある場所で言語化される言葉たちはうそだらけなのかもしれない(少なくとも真実ではない)と思った話

言葉にすることで、きれいに整理することはできるかもしれない。
でもそれは真実を反映していないかもしれない。

言葉にすることで、言葉としてここに残すことはできるかもしれない。
でも言葉に縛られて、自分の認識や感性が濁って/歪んでしまうかもしれない。

 

それでもなお言葉にしてしまうのは、
言葉として出てきたものに対して
違和感を持てる、よりいいものを探そうと思える
と信じているからなのかもしれないな、と思いました。

 

出したらその場で終了なのではなく、
言葉は重ね合い、解釈し、対話することで、
どんどん認識が深まっていくツールだと信じているんだろうなと。

だからこそ、大事な人との言葉の重ね合いは、
絶対にあきらめたくないし、
これからも往生際悪く、極論うそでも本当でもよくて
言葉にし続けていくんだろうなと。

 

私にとっての言葉は、
一貫性を担保するための言葉ではなく、
真実に肉薄するための有効な手段なんだろうなと。

 

もちろん言葉は万全じゃない。
言葉にできない感触も存在する。
(例えば、「もうただここに存在するしかない」という
諦めや叫びにも似たような気持ちを感じたりするのも、
それに該当するかもしれない)

 

だからこそ、言葉をもって言葉の境界までせまっていき、
最後に言葉にならないところまで行きつきたい。
もちろん、それは順番じゃないのかもだけど。

 

そういういとなみをし続けられる人生こそ、
私の歩みたいと願っている人生なんだろうな。
(そういう意味ではプロセスしか定義してない)

 

と思った、センチメンタルでもどかしい朝でした。
思っていることは思っていることでしかないけど、
執着してしまう自分を悲しく思いつつ、
何度でも壊して、新しくしようという、ささやかな決意。

今日も生きよう。

否定されることは怖いけど、それでも、これからも、他人との人間関係を、相互理解を、共感を、内包を、合一化を、求めてしまうんだろうな、という予感について。

初めての失恋ついでに、
恥ずかしいポエムでも残しておくことにする。

 

 

「こんなことになるくらいなら、
付き合わなければよかったのかも。」

 

異性とかラべリングとかにはこだわりがなく
人としての交わりを大事にしたい私と、
恋愛という契約を特別なものと捉えて
特別な関係を築きたい彼と、
重なる瞬間があったことは、
幸せなことだなと思いつつ、
その残した爪痕の大きさに、
まだ私は何の事だかわかってなくて、
今のことだか過去のことだか
はたまた未来のことだかも分からず、
ただただぼう、としています。
たぶん、人から否定されるという
世界の理、みたいなものを忘れて生きていたんだね。

 

でもね。
自分の価値観や存在なんてものは
淡くて無に等しいと思ってたのだけど、
本当に驚いたことに、確かにそこにあって、
信じられないくらいに揺るがないのだと、
はたと気づきました。

 

私は私のパーソナリティゆえ、
一度大事だと思った人とは、
好ましい関係性を未来永劫続けたい
と思ってしまうのです。

 

今回に関しては、
それが叶わない気もするので、
ただただ悲しい、のです。
自分が風化するのが嫌なのか、
相手を風化させるのが嫌なのか、
人間関係は物語だからなのか、
生きてるうちはご縁があるからなのか。
それはわがままなのかもしれないけど。

 

---

 

私の人生一番の親友は、こう言いました。
「人生はオムニバスではない、
長編映画なのだ」と。

 

過去も今も未来も全部つながっていて、
それが一つの大きなものを築いている。
全てのものは絡まり合い、影響し合い、
自分の人生を為している。
それはパーツという概念とは少し違っていて、
多分、要素分解したり定義するのは難しくて、
もっと淡くて不確実なものだけど、
確かにそこにあって、そういう重なり合いの上で、
初めて「生」が立ち現れているのだな、
という感覚を持っています。

 

(いなくなってしまったわけではないので、
厳密に言えばそうではないのだけど、)
大事な人を失うことは、
なにもなくなってしまったような、
足場がなくなってしまったような、
どうしようもない不安との対峙を意味するけど、
その意味だって、人生を構成する一要素である、
と捉えることで、今日この場をなんとか生き切れるのだろう、
と思っています。

 

※ていうか、しみじみ思うけど、
ここで仕事に逃避しないのが、
怠惰虫の真髄だよね笑。

 

人から否定されたり、悪意を向けられるのは
もはや慣れっこなのだけど、
身近な人や大事な人からNoを突き付けられるのは、
母親との一件以来、久しぶりなので、
(というか能動的に関係を築いた中では
初めてなんじゃないかっていうレベル)
けっこう動揺しているんだなあ、と
自分を観察して、冷笑しています。

 

それでも、今後も、好ましい人とは
好ましい関係を作りたくて、
理解したくて、好きになりたくて、
好きになってほしくて、
っていう人生を送っていくんだろうなあ。

今は
「ああ、ひとりになってしまったのかな」
という思いを止められないけど、

いつか
「こんなことになってでも、
付き合ってよかったなあ」

 と思えるような未来が来るといいのかもしれないね。

 

人生は連続するものでしかないのに、
明日のことなんてなんも分からないし、
延長線上の未来が最上に見えるから苦しいし、
未練というかなんというか未練しかない・・・
ような気がしないでもないけど。

 

あでぃおす。そろそろ仕事するね。

 

追記

 

真実も虚栄も、全部全部
うわべでしかないような気もするし、
何を頼りに生きていけばいいのかなんて
もはやわかんないし、
というかもはや自分が今何をしているのか
ということすら訳が分かっていないし、
なんというか、呼吸するのも痛くて、
ぐるぐるしてしまうけど、
それでも生きているのが不思議ね。
(死ぬ気もないので、不思議でもないけど)

 

今日が、昨日が、もっと昔がそうだったように、
明日には、もっと未来には、
こんな感覚がなくなってるのかも、
ということに、言いようのない恐怖を感じながら、
でもそんなこと言ってもしょうがないので、
今日を生き切ることだけですね。

 

一日が長すぎて押しつぶされそうだ・・・

「代替不可能性」なんてものはこの世に存在しないという事実について。(そしてその事実とどう向き合うかについて。)

人生を共にする人に求める要件も、
それを満たす人の代替不可能性も、
本来的には「先に存在する」ということはなくて、
とすると、(メタ的にとらえるのであれば、)
本当は何でも/誰でもいいんだろうな
と、ふと、思っている、というお話です。

 

・・・もちろん誰でもいいわけではない。
「一緒にいれそうだ」と思える限りにおいてなら、だ。
「この人といたい」と思う段においては、
それが永続するかなんていうのは、
もはや問題ではなくて。
今この瞬間、そう思えるという気持ち、
(それを直観と呼ぶのかもしれないが)
それがあればなんでもいいんだろうなと。

 

きっとその後時間を重ねて、
ものを一緒に見ていく経験を重ねて、
どんどん一緒にいたい、と思えるだろうから。

 

(とはいえ、だからといって
本当に誰でも/何でもいいわけではない。
①「大丈夫そう」は集積であって、
一つの尺度で判断できるものではない。
即座に判断できるものでもないのだろう。
②「大丈夫そう」に適さないと思ったら、
人生を共にすることは出来ないのかもしれない。
③もし「ダメそうだ」と思ったら、
自分に正直に生きることを願う人であれば、
多分、諦めるしかないのかもしれない。)
※すいませんこの辺はちょっとまだわかってません。。。

 

そういう淡さ/不確実性/偶然性の中でも、
「今、相対している」「一緒にいたいと思っている」
という運命を受け入れ、
いつも相手に対して正直に、
真っ直ぐ真っ直ぐ向き合い続けられるのであれば、
きっとその2人の人生は、
どのような交わり方であっても
(それが「一緒にいる」という帰結には
ならないのかもしれないけど)
幸せな方向に向かうんじゃないかな、と
思った、というお話でした。

 

・・・という備忘録。

 

悲しいことを悲しいこととして
体内に取り込み、受け入れ、
ただ悲しいと感じることしかできないけど、
それだけだともう1mmも生きていられないので、
せめてもの慰めに、文章をしたためてみています。

 

物質的距離がたとえ近かったとしても、
きっと届かないであろう文章を書いて、
仕事に向かうことにします。

あでぃおす。

 

追記

また過去と同じことを言ってしまった・・・

cloalien.hatenablog.com

幸せは「ドーピング」でも「麻薬」でも「甘いお菓子」でもなくて、「辛みや自己嫌悪のなかでこそ感じられるもの」であるという仮説。

こんばんは。

 

労基が入っててんやわんやな会社を、
どこか他人事のような目で見ている私です。


(監査のおかげで4月は9時20時なんだってさ)
(それを「労基対策」と言っちゃう上の人は嫌いじゃない笑)

 

なんだか久しぶりの更新になってしまいました。

 

なぜ更新しようとしたかというと。
まあ、更新する気になったからです。

というわけなので、更新しようという気になった
自分の状態について、備忘録でも残しておこうかと。

 

lineblog.me

 

かやたんのブログに書いてあったけど。

「切実さ」「リスクを取れる」「覚悟」という言葉で形容されているけど、
「覚悟」をするくらいの「つらみ」を引き受けることこそが、
人生の中では必要なんだと思う。
そうすることが、その人をよりいっそう美しく見せるし、
強くするんだろうな、と。

でもって、そうすることではじめて
幸せを享受することを許容できるのかなと。

 

で。翻って考えてみると。
私の最近を思い返してみると、
幸せだな、と毎日思うことばかりで。

大好きな上司とお仕事できているし、
そこそこ好きな会社で、やっと、本当にやっと、
自分の仕事とも向き合えるようになってきたし、
大好きな友人と会ったり話したりできているし、
大好きな人との辛い恋愛も過去のものに出来たし、
大切な人と日々あることの幸せを感じることで
今ここで生きる自分をちょっとずつ肯定できていて。

なんというか、本当に最近は毎日に満足していたんだろうなと。

 

そんなわけで、最近はブログも更新することもなく。

自分の中から言葉があふれだす体験を、最近久しくしてなかった。
「伝えたい相手」に対して、然るべき言葉を紡ごう、とは思ったけど、
それはその人との関係性構築・感情の共有という目的のもとに閉じていて。

「切実さ」「リスクを取れる」「覚悟」という言葉で形容できるような
感じでは、なかったかな、と。


・・・で、今日何が起こったかというと。

ここ最近(3月)、久しぶりに1人でコンサルとして案件をやっていたのだけど、
その報告会が終わって。
お客さんのところに行って、徹夜・急ごさえ・不十分ではあるが
俺もう頑張ったよ・・・と思える報告書を持って行った。

お客さんは何を考えてるんだろう、と不安に苛まれながらも、
お客さんも議論の中で盛り上がってくれていたし、
上司の顔を見ても、吝かでもなさそうなので嬉しかった。
んで、最近仕事をするのが吝かではないような気もしており、
そこそこ満足して会社に帰ってきた。

でもって、割といい気分でチームの会議へ。
納品前だけどこんな感じっすわー、と言いながら、共有。
端的に言えば、上の人は満足してくれなかった。
なんで、私、結構頑張ったのだけど、と若干ムッとしながらも、
そうかプロってそういうやつだったか(意識は高くない)、
まあ、また次頑張るかあ、と思ったりはしたのだけど、
この痛い感じ・・・というか、どうにかしたいけどできない
自己嫌悪とか申し訳無さとかうんざり感とか悲しみとか
そういうのがあるからこそ、言葉が溢れ出してきたり、
好きな人をより求めたり、その存在意義を確認したり、
上司との信頼を確認したり、できるんだなーというのを、
しみじみ感じたりしたのでした。


私にとっては、仕事をする、お金をもらう、以上に、
何かを感じることが何より大事なので、
そういう感覚を覚えられることはとても幸せで。

「やっぱり自分には整理・構造化は向いてないんじゃないか」と思ったり、
そもそも徹夜で眠いし視界は霞むしげろげろだし体も限界な気もするけど
こういうのたまにあるくらいが心地よいのかもなとも思ったり、
自分が動ける限界と今後の行動範囲や仕事に思いを馳せてみたり、
ちゃんと本気でやると、本気でFBしてくれる人がいて、
ちゃんと生きてると、ちゃんと向き合ってくれるってことだよなと思ったり、
とはいえ今あるようにあることしかできないんだろうなと思ったり、
このまま生きていき続けなきゃいけないのは辛いなと思ったり、
やっぱり周りの人の温かさに触れてにんまりしてみたり、
思考世界を本気で共有できるこの仕事は好きなんだよなと思ったり、
私の思考のあり方は「コンサルタント」然としていないのかもしれないけど、
それでもこの世界にいられるなら、越境者としてもがいてみようかなと思ったり、
まあいろんなことを考えるわけで。

思考することとか、
(恋人など、自分を肯定してくれることが前提ではない)誰かと向き合うことは、
自分のダメなところと向き合うことそのものだし、
そういう機会があってこそ、私は「わたし」の人生を生きられて、
健全な危機感やメンヘラ感のなかで、自分の大事なものを
本当に取捨選択して感謝したりできるんだな、とありがたく思ったりしました。

・・・という、納品前日なのにブログを書いた背徳感で、
今日もお仕事を続行することとします。

 

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最後に、大好きだ、と思った文章を。
このブログで以前取り上げた、すみれちゃんの文章。

 

aboutyou2015.com

 

「あなたもわたしも、とにかく寂しがりやで、承認欲求が強くて、長期的な願望は抱えてるくせに自分が認められる空間があると後先考えず(考えてるフリだけ、実際は勢いで)飛び込んじゃう。なんとなく違う、違う、を抱え続けて、耐えきれなくなって恋愛に逃げる。その後で猛烈な自己嫌悪。同じこと繰り返してるとわかりつつも抜け出しきれなくてもがく。周りからしてみたら「お前まだそこにいるの」って感じなんだけど、本人的には小さな大躍進。そんなあがく自分を認めてあげたいから過去分析は大好きで、過去の整理はもう何周か済んだ。あとはどう生きるかの未来目線の軸さえ一本通れば、今までいろんな方向に分散させてしまっていたエネルギーをドカンと注入して進んでいけるのに。
なーんて部分であなたとわたしはそっくりだと思うんだけど、どうかな?

さーて、この状態からは君もわたしも一歩くらいは抜け出したはず、よね? 舞い戻ることがないように、一歩も引けない状況を自分で作っていきましょうな。」

 

なんていうか、生きてるってこんな感じ。
私は生きるエネルギーを持て余し気味で、
いろんな方向に分散させてみたり、
誰かにドッヂボールよろしくぶつけてみたり、
突如として姿を消してみたり、
ドカンと注入して進んでいく覚悟をしてみたり、
人を疑ってみたり信じてみたり。

そういう毎日を愛せて、かつ、
そういう毎日を愛してくれる人がいれば、
何があっても生きていて怖くないな、と思ったり、
怖さを手放したいという傲慢さに辟易としたり、
私は私にうんざりしながら、
自己愛と猜疑心と自己嫌悪でぐちゃぐちゃな自分と
向き合わなきゃいけないんだなあと思いました。


というわけで、
「私は今日も生きているんだな」と思いながら、
げろげろになりながらお仕事をして、
終電でおうちに帰るんだろうと思います。

 

さて。頑張ってもういっちょ仕事しますか。
それでは。

 

追記

cloalien.hatenablog.com

この日とほぼ同じことを言っているな。
そういうもので毎日は出来ているな。

『明日死ぬとしたら、今日何する?』という思考実験は思わぬ発見をもたらすよ、というおはなし。(東日本大震災によせて)


おはようございます。

 

今日は3.11、東日本大震災の日ですね。5年経つのか。

私は日本にいなかったのと、身近に影響があったわけではないので、
必ずしも自分の事として受け止められていませんが、
帰国してもなお続く地震といたましい災害の状況を見て
悲しさとか無力感とか恐れってこういうものなのか、
と感じたりしていたのを懐かしく感じたりもします。

(その痕跡を確かめるために単身東北ボランティアに行ったけど、
自分の浅はかな承認欲求とささやかな祈りの気持ちと、
それでも交わろうとする人間の根源的な欲求と、
結局自分の人生を生きるしかないという諦念を得て
帰ってきた気がします)

 

で。

 

ここで勧めたいのは、
寄付でも政治的運動でもなく。

『明日死ぬとしたら、今日何する?』という思考実験かなと。

 

http://aboutyou2015.com/2016/03/10/to-you/


こちら、私が尊敬している女の子の話題提起に刺激を受けてですが。

明日(になった瞬間)死ぬとして、という妄想をしてみた。昨晩の話。

 

 

【思考実験を一部抜粋】

そうか、明日死ぬのか。
死ぬ・・・死ぬ??
うーん、今から何をするかな。
まず、仕事は、しないな。やめやめ。
とりあえず・・・うーん・・・
待って明日って何時?夜?今日の24時?
・・・誰に会おう。

~略~

あと、食べるもの。うーん。
なんか気分的にキャベツは食べたいなあ。
あとチーズを電子レンジでチンして食べたいな。
あー安い舌してるんだな。
もうお金もいらないから・・・うーん・・・いいチーズを食べよう。
お酒?いらない。思考が混濁するのは嫌だ。

あーでもちょっと待って、明日人生が終わるの私だけなのか。
でもちょっとまって、あれだ、まず人に言うかな?
大事な人には言うのだろうか?私明日死ぬらしいって。
とりあえずお金あるし大事な人にはめっちゃいいものをあげておこう。
なんだろう、今あげれるもの・・・
やばい。お金いらねー。いらなすぎる。
財産・・・いいや、誰かもらってくれ。おわり。

~略~

うーん・・・明日死ぬんだよね?
今日の夜は寝らんないな・・・
今晩は妹子とちゃんとしゃべるかー。
とりあえず人生を振り返って、
信じてもらえないだろうけど友達には連絡して・・・
TwitterそれからFacebookにも一応謝辞を述べておくか。
家族は・・・うーん、いいや今は。後で。
あ、でもばあちゃんには電話しとこっかな。
明日は会社に来るけど仕事はしないで、
話したい人と話せれば、それでいいや。
親友にはなんとかして会いたいな・・・
連絡するか・・・昼間ふらっと会社の近くとか行くか・・・

~略~

大事な人・・・きっと話しきれないなー。
話を切り出すこともできないんだろうなー。
ただ泣くことしかできないのかもしれないなー。
最後は好きな人と一緒にいてふっと死にたいなー。

~略~

 

 

 【発見】

・最後に日に仕事はしない
・でも会社には行くっぽい
=人に会いたいから?
・人に「死ぬ」とは言わないっぽい
・でも大事な人にはなんとかして会いたい
・でも大事な人には冗談めかして言うかも、程度
・でもわがままは言えなそう
・大事な人の時間や仕事を邪魔したらいけない、という思考
=自己肯定感の低さ?
・食べ物は、キャベツとチーズがあればいいらしい
(ので昨晩めっちゃキャベツとチーズ食べた)
・会いたい人にもあまり執着はしなそうだ
(という話を大事な人にしたら寂しがられた)
・あまり欲はないのかも
・自分の人生を自分だけのものだと捉えている
(相手がどう思うかはあまり考えていない)
・お金はあまり必要なさそう
・でもやっぱり最後の瞬間は好きな人といたい、それはもはや必然

 

 【教訓】

・もっとわがままに生きてもいいのかも
・「執着している」状態を自分の中で受け入れるのが大事
・大事な人がどう思うか、という他者目線は持てるようになりたい
・自分のしたいことと向き合うべき
=条件や外部環境ありきで考えるくせを治したい

 

 【感想】

これやると色々見つけることとか、
もっとこうやって生きれたらいいな、とか
いろいろ考えられるからおすすめ。


なんていうのかなー、
一旦死んで、また生きなおそう、と思えました。

 

 【これからやりたいこと】

遺書・・・か、と。
明日死ぬなら遺書とか書くのかな。
どうなんだろう。今だったらどんな遺書を書くかな。
ただただ、大事な人にありがとうを伝えることしかできないかも。

でも、死を意識して生きていくことで、
自分のほんとうの欲求に向き合えるなら、
それは幸せなことだな、と思いました。

 

 【終わりに】

今日がその節目の日であるにも関わらず、
私の中にはあまり追悼感全くないですが、
(不謹慎と言われてしまうかもしれませんが)
今生きている私の大事な人、
これから大事になるかもしれない人が、
幸せを感じているといいな、と、願う日だなと思います。

 

では。

「平和」や「幸せ」の世界に甘んじると、逆に平和も幸せも享受できなくなる、というおはなし。

私は今、客観的にも主観的にも、
「すごく幸せ」なのかなと思う、し、
自分自身もほんとにそう思っている。

 

でも、「本当にそれでいいのか?」という問いは、
常に自分の中で成り立つし、あらねばならぬのだ、
とも思っている。

 

(こと私は、マルチタスクが苦手なゼロイチ思考をしてしまいがちなので)
つい何か大事そうなものを見つけると、それに耽溺したり、
それに伴って何かを大事にできなくなったり、心を配れなくなったりする。


とはいえ、1つのものだけを信じようとする態度は
あまり健全ではないことも知っている。
ので、そういうのは出来れば避けたいし、
そう自戒して生き続けたいと思う。

 

そして、健全ではない、というだけではなく、
私は色んなことがないと生きていけない、という側面も持っているようだ。

 

例えば。
私は、本来的には、疑いようのない幸せや平和を享受する、
地に足をつけて長期的に何かをする、ということが絶望的に苦手なようだ。

不条理に対するモチベーションは高いが、
何かを作ること、何かと真剣に向き合い行為すること、
に対するモチベーションは相対的には低い。

だから、ホントは、適度に不条理がある中で、
辛がり、何かを呪いながら生きていないと、
生きる活力自体が失われてしまうんだな、と思ったりしている。

物事は、常に何かとの差分に酔って価値を認識するものだと思っているし、
色んな物がある社会だからこそ、あるものを大事に思えたり、
愛おしく思えたりするのだろう、とも思っているので。

 

・・・とすると、「恒久的な平和なんてない」ということを自戒するのは、
もはや自分のメンテナンスのために必要な虚言?なのかもしれないなと。

不安にはそのときどきに対処する必要があるのかも知れないが、
それは、私にとっては持ち続けている方が健全なものでもあるのかなと。

 

平和も幸せも、享受したいしめいっぱい幸せでありたい。
と思う自分もいるし、それは全然嘘ではないことも知っている。

でも、それは恒久的に続くものだなんて無思考になりたくないし、
思わない方がいいとも思っている。信じるのが怖いからかもしれない。
幸せになれない体質、なのかもしれない。


そういう自己といかに向き合い、
現実をいかに幸せなものにするか、という葛藤が、
今後の人生のなかでついてまわるのだろうなと予感している。

甘々な人生だって、人生の何処かにはあってほしい。
だけど、それだけだと人生はつまらないよね、という。
(そのために「仕事」のようなものがあるのかもしれない、と思ったりもする)

そろそろバランスできるようになりたいとも思いつつ、
バランスとかないのかもしれないな、とも思うので、
こういう性質を認識して、うまくスイッチできるようになろう、
とも思ったりする昼下がりでした。

外出なくなったから、ちゃんと仕事しよっと。