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コスプレでコンサルやってますけど

流れ着いた先は、似非頭脳派ドMコンサルファームでした。完全に肩書き詐欺感が否めない新人コンサルの僕が、体内から溢れ出た何かを置いておく場。

「(特にコミュニケーションにおける)言葉の前提は人それぞれ異なる」ということを認識する必要がある、と思った話。

こんにちは。

休日だけど仕事しなきゃで、
でも全然仕事したくないので、ブログ書いてます。

 

最近気づいたことで大きかったものをここに。

  

■ことばの前提について

 

ひとが何かを言葉にするとき、
念頭に置いている、というか、
前提にしていることって結構違うなと。

そしてその前提への理解がないことが
分かり合いの困難性を生んでいるのではないかという。

で、それは逆もしかりで、
お互いの言葉の持っている前提を知ってるかどうかが、
お互いを理解する上で本当は必要なんだろうな、と。

なんていうんだろう、
言葉の賞味期限とでも言いますか。

基本線として、言葉が何らかの真実に肉薄しようとしている
というベクトルは間違ってないかな、と思うんだけど、
もってる時間の感覚が大きく違っていて、以下の2つかなと。

 

■2種類の言葉

 ①「今、ここ」にいる自分をリアルに表す言葉

②出来るだけ普遍(不変)な事実を記述する言葉

 

この2つかなと。以下にちょっと詳細を書いてみる。

 

①「今、ここ」にいる自分が思っていることをリアルに表す
(「僭越ながら」のすみれちゃんとか「三宅のはんなり妄想記」の香帆ちゃんとか)


参照:

aboutyou2015.com

二十歳を過ぎたら、自分が自分を教育するんだ。 《三宅のはんなり京だより》 - 天狼院書店

 

②出来るだけ不変な事実を記述する

(堅いものだと教科書、法律などの公的文書がそれにあたるかなあ。)
(会社のミーティング資料とかそんな感じ)
(あとネット記事もそうだね。事実を記述しているのは特にそうかな。)
(論理的に意見を構築しているものに関しても、こちら側のイメージ。)

 

一言でいうなれば、「感性的か理性的か」とも言えるかもしれないね。


■起こりうる不和

 

んで、こと個人的なコミュニケーションのなかで
この2つが交わると、認識の齟齬や不和が生まれるのでは、と。

 

特に「何を大事にしているのか」の違いに起因するもの。 

①は「今、ここにある」感覚への肉薄を追求していて
②は「絶対的に正しくて」、「それが揺るがない」という事実性を追求している
・・・のかもなあ、と。

 

であるがゆえに、例えば恋人同士であれば、

①側の人間に起こるであろう不満:
「なんでいつも同じことしか言わないの?いつまでも同じわけないじゃん。」
「わたしの「いま」を見てよ。」
「わたしに興味なくなったんだね?」

②側の人間に起こるであろう不満:
「あのときああいってたじゃん。何で違う反応が返ってくるんだ・・・」
「その話題は一度話したよね?あれじゃダメなの?」
「理解できない。」

とかいうことになるんじゃないかなーと。

 

これだとすごい男女を念頭に置いた感じだけど、
世に遍く起こる人間の不和、って、
使っている言葉(もしくは会話に対する認識?)
に対する前提の違いによって
起こっているような気もするな、と思った次第。

 

■じゃあどうすればいいのか

 

どうするといいんだろう。

まだあまりわかっていないけど、
よりよいコミュニケーションをしようと思うのであれば、

  1. お互いに違う前提を持ってコミュニケーションしていることを知る
    (そしてそれが優劣の差ではないと認める)
  2. その違いが何かに対して関心を持つ
  3. 相手にとっても、自分にとっても、心地よい場所を探し続ける
    (きっと時間が経てばそれを意図的にすることは減っていくのだろうけど)

とかが大事なんじゃないかな、と。
(恋人でも、職場でも、友達でも、これは割と全部一緒なのでは?)

1.が超難しいんだろうなって思うわけだけど。
(自分が差異に対する受容度がもともと低いのですごく思う)

 

ふう。そろそろ仕事するかー。
あでぃおす。

 

追記

仕事終わりにファミマに寄って、
背徳感と共にサンドイッチを選ぶのが至福。
(だから太るのでは)

追記2

wakabkx.hatenadiary.jp

やっぱりきれいな文章を書く人って存在していて、
雑誌とかを読んでいてもうっとりすることがある。
文章が綺麗になるといいなあと思うし、
そのために時間や労力を使えるようになりたいなって思う。
今はチラ裏だけど、少しずつ、そういうのも。 

見たいものだけ見る。感じたいものだけ感じる。汚いものは見ないふりする。

とどのつまり、包摂とか止揚とか今まだ無理なので、
すべきこと/貢献したい・すべき人/一緒にいたい人
だけ一旦見ることにしようと思った。

 

汚いものは見ない。
汚いことに悲しみは覚えるけど、
交わろうとしない。

 

彼らと関わっても意味が無いということに気付いて
絶望して悲しくなってもしょうがないのだから。

 

もう何度も決意していることなのに、
つい忘れがちになってしまう。

 

よりよくなるかもしれない/分かり合えるかもしれない
有り得たかもしれないわずかな可能性ではなく、
目の前にあるものに、日々、まっすぐ。

 

それだけで生きてみる。今と前だけ見て生きてみる。
どんどん、生きる領域を狭くしていこう。
そういう実験。

 

それを支えてくれる人は、きっといる、と信じてみる。
大丈夫、大丈夫・・・たぶん・・・いや、そうだ。

 

おまけ

ゆず/雨と泪
https://www.youtube.com/watch?v=WmLf4tRFQKg
これが似合う夜。
画面を設計しよう・・・

他者に対して恐れや畏敬の念を持つことは超大事だけど、とはいえ不安は闇雲に持つべきではない(誰(の意見や存在)を大事にするかは自分が決める)というお話

そうしないとなぞに疲れちゃう。
なんというか、疲れるのは本末転倒で、
本当はやりたかったことをやらないことの
言い訳になってしまう(→鬱エンド)気がするので。

 

・・・というのも。

友人と昨日、お茶をしていたのだけど、
・行動を推進するのではない問い
・他者/事に対する不安に端を発した問い
(例、
「この人から嫌われないだろうか/嫌われていないだろうか」
「このことは向いていないんじゃないか」)
って結構愚問というか、
そんなん問うてもしょうがないし、
なんというか、いわゆる「いい問い」じゃないよね、と。

 

そんなこと考えるくらいなら、

・問いの根本原因を断つ
(「この人」「この事」よりも「今の状態」の解決が大事な場合)

・今後心地よく関わる方法を編み出す
(「この人」「この事」のことは好きで、関わり続けたい場合)

など、前向きな手を打ったほうがよいよね、と。

もうさ、やっぱり不快なものは不快だし、
それは「気の持ちよう」「努力」「気合」とかでは
どーーーーーっっっしても変わらないので。

 

でも

それとは別に、大事ないとなみとして

・自分と異なる価値観を理解しようとする
・自分と異なる考え方を受け入れようとする
・自分と異なるものに恐れや畏敬の念を持つ

ということがあると思うけど、
これについても、やみくもにやるのは少し違っていて、
一呼吸置いて、自分とその意見/その他者の関係性を問い、
それを双方に位置づけた上で、自分の中にどう取り入れるのか考えるほうが、
(自分にとっては)健全だよなーということを思っていたりします。
(取り入れるなり止揚するなり無視するなり、色々あると思うけど)

きれいなものだけ見ていたいのは事実だけど、
(そうできないのも事実だけど、)
いろんな価値観を取り込みたいのも事実だけど、
(そうできないのも事実だけど、)
結局取り込むも取り込まないも、
最後に決めるのは自分だなと。

 

結局自分しか自分を守れないので。
(好きでも、嫌いでも、届かなくても、歯がゆくても、幸せでも、
まあ結局のところ、そういうもんなのかなと。)

 

※勢いで書いたので、もしかしたら
特定の人や現象を鈍器で殴りにかかってる可能性もあるけど、
色んなことがうまくはいかないので、一旦書き逃げします。

 

不本意・・・


【おまけ】

・前提として、言語化されているものは所詮「叶えられないこと」や「出来ないこと」。

・一回決めた認識や価値観はなかなか変わらないし、
そのことを確認するたびに、自暴自棄だったり、自己卑下に陥るけど、
結局(変わるのも、こだわるのも)バランスで、それを心地よくしたいよね、
という当たり前の結論。

・ぐちゃぐちゃ考えているときに前を向かせてくれるのは
今までは信頼できる他人だったなと思っており、
そういう人こそ大事にしなきゃいけないなと思うし、
これからもそういう人との出会いや関係性の深みは追求したい。

・(目的も異なる他者の、という前提だが)
新たな価値観との出会いや止揚は、一旦優先順位が低いのかもしれない。

・そんなことより、大事な人、もの、ことに対して、
どうやったら大事な人に価値をもたらせるのか、
どうやったら好きな人といい時間を過ごせるのか、
どうやったら大事なものをもっと大事にできるか、
それを通じて私自身が多幸感を感じながらいきいきと生きられるのか
ということを考えるほうがよっぽどいいよなと思っている。

・それでも関わり続けたい、と欲求してしまう場合、
(つまり、毒を受けることを覚悟で毒を食べようと思う場合、)
それをどう受け止め、どうするべきなのかは不明。
(極力無くしたいわけだが・・・)

私はブルーワーカーになりたい

意味付けは意味付けでしかないと言いながら、
結局意味付けをし続けてしまうので。

 

これ、問題は意味付けをすることに意味がないことじゃなくて、
(実際、私は意味付けでも意味があるならいいじゃんって思う)
意味付けに終始して何もしていないことなんだろうな。
(行動をするべき時間/リソースを阻害して意味付けをしている)

 

だから、本当は、
意味付けをする隙がないくらい目の前にやるべきことが有って、
はあ、疲れた、と思った時にそれを意味付けして、
(これはもはや欲求なので、意図せずともやってしまう)
ああ、よかったな、と思える方がいいんだろうな。

 

つまり、意味付け/価値定義を本業にする仕事は
本当は向いていなくて、
意味付けを合間にしてほっこりする、くらいがいいんじゃないかな。
(意味付けという行為自体に罪悪感を覚えるのは
なんだかよくわかんなくなってきた・・・)

 

・・・という気づき。
意味付けする暇ないくらい作業に没頭できるといいんだろうな。
意味づけしないと価値が立ち現われない仕事は、
常に存在の価値について問い続けなきゃいけないので、
胃が一生痛い気がするんだ・・・

というわけで、冒頭の結論に至ったわけでした。
(仮説ですが)

 

※断定形は炎上の匂いがして怖いね!

 

 

おまけ

 

wol.nikkeibp.co.jp

今でも断じて高給取りというわけではないが、
いちみりくらいしか、お金を稼いでいると自負できる
価値を創出しているような気はしないので、
ここでのアンケートに答えている人は
どれだけ自分に自信があるんだろうと羨ましくなった・・・。

 

自分に経済的価値を創出することは可能なのかというのは
一生の問いになるんじゃないかと思う今日このごろ。

 

以上、くろえでした。あでぃおす。

明日もミーティング。
(案件には恵まれてるけど、やはり仕事は憂鬱だ)

ここで/数多ある場所で言語化される言葉たちはうそだらけなのかもしれない(少なくとも真実ではない)と思った話

言葉にすることで、きれいに整理することはできるかもしれない。
でもそれは真実を反映していないかもしれない。

言葉にすることで、言葉としてここに残すことはできるかもしれない。
でも言葉に縛られて、自分の認識や感性が濁って/歪んでしまうかもしれない。

 

それでもなお言葉にしてしまうのは、
言葉として出てきたものに対して
違和感を持てる、よりいいものを探そうと思える
と信じているからなのかもしれないな、と思いました。

 

出したらその場で終了なのではなく、
言葉は重ね合い、解釈し、対話することで、
どんどん認識が深まっていくツールだと信じているんだろうなと。

だからこそ、大事な人との言葉の重ね合いは、
絶対にあきらめたくないし、
これからも往生際悪く、極論うそでも本当でもよくて
言葉にし続けていくんだろうなと。

 

私にとっての言葉は、
一貫性を担保するための言葉ではなく、
真実に肉薄するための有効な手段なんだろうなと。

 

もちろん言葉は万全じゃない。
言葉にできない感触も存在する。
(例えば、「もうただここに存在するしかない」という
諦めや叫びにも似たような気持ちを感じたりするのも、
それに該当するかもしれない)

 

だからこそ、言葉をもって言葉の境界までせまっていき、
最後に言葉にならないところまで行きつきたい。
もちろん、それは順番じゃないのかもだけど。

 

そういういとなみをし続けられる人生こそ、
私の歩みたいと願っている人生なんだろうな。
(そういう意味ではプロセスしか定義してない)

 

と思った、センチメンタルでもどかしい朝でした。
思っていることは思っていることでしかないけど、
執着してしまう自分を悲しく思いつつ、
何度でも壊して、新しくしようという、ささやかな決意。

今日も生きよう。

否定されることは怖いけど、それでも、これからも、他人との人間関係を、相互理解を、共感を、内包を、合一化を、求めてしまうんだろうな、という予感について。

初めての失恋ついでに、
恥ずかしいポエムでも残しておくことにする。

 

 

「こんなことになるくらいなら、
付き合わなければよかったのかも。」

 

異性とかラべリングとかにはこだわりがなく
人としての交わりを大事にしたい私と、
恋愛という契約を特別なものと捉えて
特別な関係を築きたい彼と、
重なる瞬間があったことは、
幸せなことだなと思いつつ、
その残した爪痕の大きさに、
まだ私は何の事だかわかってなくて、
今のことだか過去のことだか
はたまた未来のことだかも分からず、
ただただぼう、としています。
たぶん、人から否定されるという
世界の理、みたいなものを忘れて生きていたんだね。

 

でもね。
自分の価値観や存在なんてものは
淡くて無に等しいと思ってたのだけど、
本当に驚いたことに、確かにそこにあって、
信じられないくらいに揺るがないのだと、
はたと気づきました。

 

私は私のパーソナリティゆえ、
一度大事だと思った人とは、
好ましい関係性を未来永劫続けたい
と思ってしまうのです。

 

今回に関しては、
それが叶わない気もするので、
ただただ悲しい、のです。
自分が風化するのが嫌なのか、
相手を風化させるのが嫌なのか、
人間関係は物語だからなのか、
生きてるうちはご縁があるからなのか。
それはわがままなのかもしれないけど。

 

---

 

私の人生一番の親友は、こう言いました。
「人生はオムニバスではない、
長編映画なのだ」と。

 

過去も今も未来も全部つながっていて、
それが一つの大きなものを築いている。
全てのものは絡まり合い、影響し合い、
自分の人生を為している。
それはパーツという概念とは少し違っていて、
多分、要素分解したり定義するのは難しくて、
もっと淡くて不確実なものだけど、
確かにそこにあって、そういう重なり合いの上で、
初めて「生」が立ち現れているのだな、
という感覚を持っています。

 

(いなくなってしまったわけではないので、
厳密に言えばそうではないのだけど、)
大事な人を失うことは、
なにもなくなってしまったような、
足場がなくなってしまったような、
どうしようもない不安との対峙を意味するけど、
その意味だって、人生を構成する一要素である、
と捉えることで、今日この場をなんとか生き切れるのだろう、
と思っています。

 

※ていうか、しみじみ思うけど、
ここで仕事に逃避しないのが、
怠惰虫の真髄だよね笑。

 

人から否定されたり、悪意を向けられるのは
もはや慣れっこなのだけど、
身近な人や大事な人からNoを突き付けられるのは、
母親との一件以来、久しぶりなので、
(というか能動的に関係を築いた中では
初めてなんじゃないかっていうレベル)
けっこう動揺しているんだなあ、と
自分を観察して、冷笑しています。

 

それでも、今後も、好ましい人とは
好ましい関係を作りたくて、
理解したくて、好きになりたくて、
好きになってほしくて、
っていう人生を送っていくんだろうなあ。

今は
「ああ、ひとりになってしまったのかな」
という思いを止められないけど、

いつか
「こんなことになってでも、
付き合ってよかったなあ」

 と思えるような未来が来るといいのかもしれないね。

 

人生は連続するものでしかないのに、
明日のことなんてなんも分からないし、
延長線上の未来が最上に見えるから苦しいし、
未練というかなんというか未練しかない・・・
ような気がしないでもないけど。

 

あでぃおす。そろそろ仕事するね。

 

追記

 

真実も虚栄も、全部全部
うわべでしかないような気もするし、
何を頼りに生きていけばいいのかなんて
もはやわかんないし、
というかもはや自分が今何をしているのか
ということすら訳が分かっていないし、
なんというか、呼吸するのも痛くて、
ぐるぐるしてしまうけど、
それでも生きているのが不思議ね。
(死ぬ気もないので、不思議でもないけど)

 

今日が、昨日が、もっと昔がそうだったように、
明日には、もっと未来には、
こんな感覚がなくなってるのかも、
ということに、言いようのない恐怖を感じながら、
でもそんなこと言ってもしょうがないので、
今日を生き切ることだけですね。

 

一日が長すぎて押しつぶされそうだ・・・

「代替不可能性」なんてものはこの世に存在しないという事実について。(そしてその事実とどう向き合うかについて。)

人生を共にする人に求める要件も、
それを満たす人の代替不可能性も、
本来的には「先に存在する」ということはなくて、
とすると、(メタ的にとらえるのであれば、)
本当は何でも/誰でもいいんだろうな
と、ふと、思っている、というお話です。

 

・・・もちろん誰でもいいわけではない。
「一緒にいれそうだ」と思える限りにおいてなら、だ。
「この人といたい」と思う段においては、
それが永続するかなんていうのは、
もはや問題ではなくて。
今この瞬間、そう思えるという気持ち、
(それを直観と呼ぶのかもしれないが)
それがあればなんでもいいんだろうなと。

 

きっとその後時間を重ねて、
ものを一緒に見ていく経験を重ねて、
どんどん一緒にいたい、と思えるだろうから。

 

(とはいえ、だからといって
本当に誰でも/何でもいいわけではない。
①「大丈夫そう」は集積であって、
一つの尺度で判断できるものではない。
即座に判断できるものでもないのだろう。
②「大丈夫そう」に適さないと思ったら、
人生を共にすることは出来ないのかもしれない。
③もし「ダメそうだ」と思ったら、
自分に正直に生きることを願う人であれば、
多分、諦めるしかないのかもしれない。)
※すいませんこの辺はちょっとまだわかってません。。。

 

そういう淡さ/不確実性/偶然性の中でも、
「今、相対している」「一緒にいたいと思っている」
という運命を受け入れ、
いつも相手に対して正直に、
真っ直ぐ真っ直ぐ向き合い続けられるのであれば、
きっとその2人の人生は、
どのような交わり方であっても
(それが「一緒にいる」という帰結には
ならないのかもしれないけど)
幸せな方向に向かうんじゃないかな、と
思った、というお話でした。

 

・・・という備忘録。

 

悲しいことを悲しいこととして
体内に取り込み、受け入れ、
ただ悲しいと感じることしかできないけど、
それだけだともう1mmも生きていられないので、
せめてもの慰めに、文章をしたためてみています。

 

物質的距離がたとえ近かったとしても、
きっと届かないであろう文章を書いて、
仕事に向かうことにします。

あでぃおす。

 

追記

また過去と同じことを言ってしまった・・・

cloalien.hatenablog.com