エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

「(特にコミュニケーションにおける)言葉の前提は人それぞれ異なる」ということを認識する必要がある、と思った話。

こんにちは。

休日だけど仕事しなきゃで、
でも全然仕事したくないので、ブログ書いてます。

 

最近気づいたことで大きかったものをここに。

  

■ことばの前提について

 

ひとが何かを言葉にするとき、
念頭に置いている、というか、
前提にしていることって結構違うなと。

そしてその前提への理解がないことが
分かり合いの困難性を生んでいるのではないかという。

で、それは逆もしかりで、
お互いの言葉の持っている前提を知ってるかどうかが、
お互いを理解する上で本当は必要なんだろうな、と。

なんていうんだろう、
言葉の賞味期限とでも言いますか。

基本線として、言葉が何らかの真実に肉薄しようとしている
というベクトルは間違ってないかな、と思うんだけど、
もってる時間の感覚が大きく違っていて、以下の2つかなと。

 

■2種類の言葉

 ①「今、ここ」にいる自分をリアルに表す言葉

②出来るだけ普遍(不変)な事実を記述する言葉

 

この2つかなと。以下にちょっと詳細を書いてみる。

 

①「今、ここ」にいる自分が思っていることをリアルに表す
(「僭越ながら」のすみれちゃんとか「三宅のはんなり妄想記」の香帆ちゃんとか)


参照:

aboutyou2015.com

二十歳を過ぎたら、自分が自分を教育するんだ。 《三宅のはんなり京だより》 - 天狼院書店

 

②出来るだけ不変な事実を記述する

(堅いものだと教科書、法律などの公的文書がそれにあたるかなあ。)
(会社のミーティング資料とかそんな感じ)
(あとネット記事もそうだね。事実を記述しているのは特にそうかな。)
(論理的に意見を構築しているものに関しても、こちら側のイメージ。)

 

一言でいうなれば、「感性的か理性的か」とも言えるかもしれないね。


■起こりうる不和

 

んで、こと個人的なコミュニケーションのなかで
この2つが交わると、認識の齟齬や不和が生まれるのでは、と。

 

特に「何を大事にしているのか」の違いに起因するもの。 

①は「今、ここにある」感覚への肉薄を追求していて
②は「絶対的に正しくて」、「それが揺るがない」という事実性を追求している
・・・のかもなあ、と。

 

であるがゆえに、例えば恋人同士であれば、

①側の人間に起こるであろう不満:
「なんでいつも同じことしか言わないの?いつまでも同じわけないじゃん。」
「わたしの「いま」を見てよ。」
「わたしに興味なくなったんだね?」

②側の人間に起こるであろう不満:
「あのときああいってたじゃん。何で違う反応が返ってくるんだ・・・」
「その話題は一度話したよね?あれじゃダメなの?」
「理解できない。」

とかいうことになるんじゃないかなーと。

 

これだとすごい男女を念頭に置いた感じだけど、
世に遍く起こる人間の不和、って、
使っている言葉(もしくは会話に対する認識?)
に対する前提の違いによって
起こっているような気もするな、と思った次第。

 

■じゃあどうすればいいのか

 

どうするといいんだろう。

まだあまりわかっていないけど、
よりよいコミュニケーションをしようと思うのであれば、

  1. お互いに違う前提を持ってコミュニケーションしていることを知る
    (そしてそれが優劣の差ではないと認める)
  2. その違いが何かに対して関心を持つ
  3. 相手にとっても、自分にとっても、心地よい場所を探し続ける
    (きっと時間が経てばそれを意図的にすることは減っていくのだろうけど)

とかが大事なんじゃないかな、と。
(恋人でも、職場でも、友達でも、これは割と全部一緒なのでは?)

1.が超難しいんだろうなって思うわけだけど。
(自分が差異に対する受容度がもともと低いのですごく思う)

 

ふう。そろそろ仕事するかー。
あでぃおす。

 

追記

仕事終わりにファミマに寄って、
背徳感と共にサンドイッチを選ぶのが至福。
(だから太るのでは)

追記2

wakabkx.hatenadiary.jp

やっぱりきれいな文章を書く人って存在していて、
雑誌とかを読んでいてもうっとりすることがある。
文章が綺麗になるといいなあと思うし、
そのために時間や労力を使えるようになりたいなって思う。
今はチラ裏だけど、少しずつ、そういうのも。 

見たいものだけ見る。感じたいものだけ感じる。汚いものは見ないふりする。

とどのつまり、包摂とか止揚とか今まだ無理なので、
すべきこと/貢献したい・すべき人/一緒にいたい人
だけ一旦見ることにしようと思った。

 

汚いものは見ない。
汚いことに悲しみは覚えるけど、
交わろうとしない。

 

彼らと関わっても意味が無いということに気付いて
絶望して悲しくなってもしょうがないのだから。

 

もう何度も決意していることなのに、
つい忘れがちになってしまう。

 

よりよくなるかもしれない/分かり合えるかもしれない
有り得たかもしれないわずかな可能性ではなく、
目の前にあるものに、日々、まっすぐ。

 

それだけで生きてみる。今と前だけ見て生きてみる。
どんどん、生きる領域を狭くしていこう。
そういう実験。

 

それを支えてくれる人は、きっといる、と信じてみる。
大丈夫、大丈夫・・・たぶん・・・いや、そうだ。

 

おまけ

ゆず/雨と泪
https://www.youtube.com/watch?v=WmLf4tRFQKg
これが似合う夜。
画面を設計しよう・・・

他者に対して恐れや畏敬の念を持つことは超大事だけど、とはいえ不安は闇雲に持つべきではない(誰(の意見や存在)を大事にするかは自分が決める)というお話

そうしないとなぞに疲れちゃう。
なんというか、疲れるのは本末転倒で、
本当はやりたかったことをやらないことの
言い訳になってしまう(→鬱エンド)気がするので。

 

・・・というのも。

友人と昨日、お茶をしていたのだけど、
・行動を推進するのではない問い
・他者/事に対する不安に端を発した問い
(例、
「この人から嫌われないだろうか/嫌われていないだろうか」
「このことは向いていないんじゃないか」)
って結構愚問というか、
そんなん問うてもしょうがないし、
なんというか、いわゆる「いい問い」じゃないよね、と。

 

そんなこと考えるくらいなら、

・問いの根本原因を断つ
(「この人」「この事」よりも「今の状態」の解決が大事な場合)

・今後心地よく関わる方法を編み出す
(「この人」「この事」のことは好きで、関わり続けたい場合)

など、前向きな手を打ったほうがよいよね、と。

もうさ、やっぱり不快なものは不快だし、
それは「気の持ちよう」「努力」「気合」とかでは
どーーーーーっっっしても変わらないので。

 

でも

それとは別に、大事ないとなみとして

・自分と異なる価値観を理解しようとする
・自分と異なる考え方を受け入れようとする
・自分と異なるものに恐れや畏敬の念を持つ

ということがあると思うけど、
これについても、やみくもにやるのは少し違っていて、
一呼吸置いて、自分とその意見/その他者の関係性を問い、
それを双方に位置づけた上で、自分の中にどう取り入れるのか考えるほうが、
(自分にとっては)健全だよなーということを思っていたりします。
(取り入れるなり止揚するなり無視するなり、色々あると思うけど)

きれいなものだけ見ていたいのは事実だけど、
(そうできないのも事実だけど、)
いろんな価値観を取り込みたいのも事実だけど、
(そうできないのも事実だけど、)
結局取り込むも取り込まないも、
最後に決めるのは自分だなと。

 

結局自分しか自分を守れないので。
(好きでも、嫌いでも、届かなくても、歯がゆくても、幸せでも、
まあ結局のところ、そういうもんなのかなと。)

 

※勢いで書いたので、もしかしたら
特定の人や現象を鈍器で殴りにかかってる可能性もあるけど、
色んなことがうまくはいかないので、一旦書き逃げします。

 

不本意・・・


【おまけ】

・前提として、言語化されているものは所詮「叶えられないこと」や「出来ないこと」。

・一回決めた認識や価値観はなかなか変わらないし、
そのことを確認するたびに、自暴自棄だったり、自己卑下に陥るけど、
結局(変わるのも、こだわるのも)バランスで、それを心地よくしたいよね、
という当たり前の結論。

・ぐちゃぐちゃ考えているときに前を向かせてくれるのは
今までは信頼できる他人だったなと思っており、
そういう人こそ大事にしなきゃいけないなと思うし、
これからもそういう人との出会いや関係性の深みは追求したい。

・(目的も異なる他者の、という前提だが)
新たな価値観との出会いや止揚は、一旦優先順位が低いのかもしれない。

・そんなことより、大事な人、もの、ことに対して、
どうやったら大事な人に価値をもたらせるのか、
どうやったら好きな人といい時間を過ごせるのか、
どうやったら大事なものをもっと大事にできるか、
それを通じて私自身が多幸感を感じながらいきいきと生きられるのか
ということを考えるほうがよっぽどいいよなと思っている。

・それでも関わり続けたい、と欲求してしまう場合、
(つまり、毒を受けることを覚悟で毒を食べようと思う場合、)
それをどう受け止め、どうするべきなのかは不明。
(極力無くしたいわけだが・・・)

私はブルーワーカーになりたい

意味付けは意味付けでしかないと言いながら、
結局意味付けをし続けてしまうので。

 

これ、問題は意味付けをすることに意味がないことじゃなくて、
(実際、私は意味付けでも意味があるならいいじゃんって思う)
意味付けに終始して何もしていないことなんだろうな。
(行動をするべき時間/リソースを阻害して意味付けをしている)

 

だから、本当は、
意味付けをする隙がないくらい目の前にやるべきことが有って、
はあ、疲れた、と思った時にそれを意味付けして、
(これはもはや欲求なので、意図せずともやってしまう)
ああ、よかったな、と思える方がいいんだろうな。

 

つまり、意味付け/価値定義を本業にする仕事は
本当は向いていなくて、
意味付けを合間にしてほっこりする、くらいがいいんじゃないかな。
(意味付けという行為自体に罪悪感を覚えるのは
なんだかよくわかんなくなってきた・・・)

 

・・・という気づき。
意味付けする暇ないくらい作業に没頭できるといいんだろうな。
意味づけしないと価値が立ち現われない仕事は、
常に存在の価値について問い続けなきゃいけないので、
胃が一生痛い気がするんだ・・・

というわけで、冒頭の結論に至ったわけでした。
(仮説ですが)

 

※断定形は炎上の匂いがして怖いね!

 

 

おまけ

 

wol.nikkeibp.co.jp

今でも断じて高給取りというわけではないが、
いちみりくらいしか、お金を稼いでいると自負できる
価値を創出しているような気はしないので、
ここでのアンケートに答えている人は
どれだけ自分に自信があるんだろうと羨ましくなった・・・。

 

自分に経済的価値を創出することは可能なのかというのは
一生の問いになるんじゃないかと思う今日このごろ。

 

以上、くろえでした。あでぃおす。

明日もミーティング。
(案件には恵まれてるけど、やはり仕事は憂鬱だ)

ここで/数多ある場所で言語化される言葉たちはうそだらけなのかもしれない(少なくとも真実ではない)と思った話

言葉にすることで、きれいに整理することはできるかもしれない。
でもそれは真実を反映していないかもしれない。

言葉にすることで、言葉としてここに残すことはできるかもしれない。
でも言葉に縛られて、自分の認識や感性が濁って/歪んでしまうかもしれない。

 

それでもなお言葉にしてしまうのは、
言葉として出てきたものに対して
違和感を持てる、よりいいものを探そうと思える
と信じているからなのかもしれないな、と思いました。

 

出したらその場で終了なのではなく、
言葉は重ね合い、解釈し、対話することで、
どんどん認識が深まっていくツールだと信じているんだろうなと。

だからこそ、大事な人との言葉の重ね合いは、
絶対にあきらめたくないし、
これからも往生際悪く、極論うそでも本当でもよくて
言葉にし続けていくんだろうなと。

 

私にとっての言葉は、
一貫性を担保するための言葉ではなく、
真実に肉薄するための有効な手段なんだろうなと。

 

もちろん言葉は万全じゃない。
言葉にできない感触も存在する。
(例えば、「もうただここに存在するしかない」という
諦めや叫びにも似たような気持ちを感じたりするのも、
それに該当するかもしれない)

 

だからこそ、言葉をもって言葉の境界までせまっていき、
最後に言葉にならないところまで行きつきたい。
もちろん、それは順番じゃないのかもだけど。

 

そういういとなみをし続けられる人生こそ、
私の歩みたいと願っている人生なんだろうな。
(そういう意味ではプロセスしか定義してない)

 

と思った、センチメンタルでもどかしい朝でした。
思っていることは思っていることでしかないけど、
執着してしまう自分を悲しく思いつつ、
何度でも壊して、新しくしようという、ささやかな決意。

今日も生きよう。

否定されることは怖いけど、それでも、これからも、他人との人間関係を、相互理解を、共感を、内包を、合一化を、求めてしまうんだろうな、という予感について。

初めての失恋ついでに、
恥ずかしいポエムでも残しておくことにする。

 

 

「こんなことになるくらいなら、
付き合わなければよかったのかも。」

 

異性とかラべリングとかにはこだわりがなく
人としての交わりを大事にしたい私と、
恋愛という契約を特別なものと捉えて
特別な関係を築きたい彼と、
重なる瞬間があったことは、
幸せなことだなと思いつつ、
その残した爪痕の大きさに、
まだ私は何の事だかわかってなくて、
今のことだか過去のことだか
はたまた未来のことだかも分からず、
ただただぼう、としています。
たぶん、人から否定されるという
世界の理、みたいなものを忘れて生きていたんだね。

 

でもね。
自分の価値観や存在なんてものは
淡くて無に等しいと思ってたのだけど、
本当に驚いたことに、確かにそこにあって、
信じられないくらいに揺るがないのだと、
はたと気づきました。

 

私は私のパーソナリティゆえ、
一度大事だと思った人とは、
好ましい関係性を未来永劫続けたい
と思ってしまうのです。

 

今回に関しては、
それが叶わない気もするので、
ただただ悲しい、のです。
自分が風化するのが嫌なのか、
相手を風化させるのが嫌なのか、
人間関係は物語だからなのか、
生きてるうちはご縁があるからなのか。
それはわがままなのかもしれないけど。

 

---

 

私の人生一番の親友は、こう言いました。
「人生はオムニバスではない、
長編映画なのだ」と。

 

過去も今も未来も全部つながっていて、
それが一つの大きなものを築いている。
全てのものは絡まり合い、影響し合い、
自分の人生を為している。
それはパーツという概念とは少し違っていて、
多分、要素分解したり定義するのは難しくて、
もっと淡くて不確実なものだけど、
確かにそこにあって、そういう重なり合いの上で、
初めて「生」が立ち現れているのだな、
という感覚を持っています。

 

(いなくなってしまったわけではないので、
厳密に言えばそうではないのだけど、)
大事な人を失うことは、
なにもなくなってしまったような、
足場がなくなってしまったような、
どうしようもない不安との対峙を意味するけど、
その意味だって、人生を構成する一要素である、
と捉えることで、今日この場をなんとか生き切れるのだろう、
と思っています。

 

※ていうか、しみじみ思うけど、
ここで仕事に逃避しないのが、
怠惰虫の真髄だよね笑。

 

人から否定されたり、悪意を向けられるのは
もはや慣れっこなのだけど、
身近な人や大事な人からNoを突き付けられるのは、
母親との一件以来、久しぶりなので、
(というか能動的に関係を築いた中では
初めてなんじゃないかっていうレベル)
けっこう動揺しているんだなあ、と
自分を観察して、冷笑しています。

 

それでも、今後も、好ましい人とは
好ましい関係を作りたくて、
理解したくて、好きになりたくて、
好きになってほしくて、
っていう人生を送っていくんだろうなあ。

今は
「ああ、ひとりになってしまったのかな」
という思いを止められないけど、

いつか
「こんなことになってでも、
付き合ってよかったなあ」

 と思えるような未来が来るといいのかもしれないね。

 

人生は連続するものでしかないのに、
明日のことなんてなんも分からないし、
延長線上の未来が最上に見えるから苦しいし、
未練というかなんというか未練しかない・・・
ような気がしないでもないけど。

 

あでぃおす。そろそろ仕事するね。

 

追記

 

真実も虚栄も、全部全部
うわべでしかないような気もするし、
何を頼りに生きていけばいいのかなんて
もはやわかんないし、
というかもはや自分が今何をしているのか
ということすら訳が分かっていないし、
なんというか、呼吸するのも痛くて、
ぐるぐるしてしまうけど、
それでも生きているのが不思議ね。
(死ぬ気もないので、不思議でもないけど)

 

今日が、昨日が、もっと昔がそうだったように、
明日には、もっと未来には、
こんな感覚がなくなってるのかも、
ということに、言いようのない恐怖を感じながら、
でもそんなこと言ってもしょうがないので、
今日を生き切ることだけですね。

 

一日が長すぎて押しつぶされそうだ・・・

「代替不可能性」なんてものはこの世に存在しないという事実について。(そしてその事実とどう向き合うかについて。)

人生を共にする人に求める要件も、
それを満たす人の代替不可能性も、
本来的には「先に存在する」ということはなくて、
とすると、(メタ的にとらえるのであれば、)
本当は何でも/誰でもいいんだろうな
と、ふと、思っている、というお話です。

 

・・・もちろん誰でもいいわけではない。
「一緒にいれそうだ」と思える限りにおいてなら、だ。
「この人といたい」と思う段においては、
それが永続するかなんていうのは、
もはや問題ではなくて。
今この瞬間、そう思えるという気持ち、
(それを直観と呼ぶのかもしれないが)
それがあればなんでもいいんだろうなと。

 

きっとその後時間を重ねて、
ものを一緒に見ていく経験を重ねて、
どんどん一緒にいたい、と思えるだろうから。

 

(とはいえ、だからといって
本当に誰でも/何でもいいわけではない。
①「大丈夫そう」は集積であって、
一つの尺度で判断できるものではない。
即座に判断できるものでもないのだろう。
②「大丈夫そう」に適さないと思ったら、
人生を共にすることは出来ないのかもしれない。
③もし「ダメそうだ」と思ったら、
自分に正直に生きることを願う人であれば、
多分、諦めるしかないのかもしれない。)
※すいませんこの辺はちょっとまだわかってません。。。

 

そういう淡さ/不確実性/偶然性の中でも、
「今、相対している」「一緒にいたいと思っている」
という運命を受け入れ、
いつも相手に対して正直に、
真っ直ぐ真っ直ぐ向き合い続けられるのであれば、
きっとその2人の人生は、
どのような交わり方であっても
(それが「一緒にいる」という帰結には
ならないのかもしれないけど)
幸せな方向に向かうんじゃないかな、と
思った、というお話でした。

 

・・・という備忘録。

 

悲しいことを悲しいこととして
体内に取り込み、受け入れ、
ただ悲しいと感じることしかできないけど、
それだけだともう1mmも生きていられないので、
せめてもの慰めに、文章をしたためてみています。

 

物質的距離がたとえ近かったとしても、
きっと届かないであろう文章を書いて、
仕事に向かうことにします。

あでぃおす。

 

追記

また過去と同じことを言ってしまった・・・

cloalien.hatenablog.com

幸せは「ドーピング」でも「麻薬」でも「甘いお菓子」でもなくて、「辛みや自己嫌悪のなかでこそ感じられるもの」であるという仮説。

こんばんは。

 

労基が入っててんやわんやな会社を、
どこか他人事のような目で見ている私です。


(監査のおかげで4月は9時20時なんだってさ)
(それを「労基対策」と言っちゃう上の人は嫌いじゃない笑)

 

なんだか久しぶりの更新になってしまいました。

 

なぜ更新しようとしたかというと。
まあ、更新する気になったからです。

というわけなので、更新しようという気になった
自分の状態について、備忘録でも残しておこうかと。

 

lineblog.me

 

かやたんのブログに書いてあったけど。

「切実さ」「リスクを取れる」「覚悟」という言葉で形容されているけど、
「覚悟」をするくらいの「つらみ」を引き受けることこそが、
人生の中では必要なんだと思う。
そうすることが、その人をよりいっそう美しく見せるし、
強くするんだろうな、と。

でもって、そうすることではじめて
幸せを享受することを許容できるのかなと。

 

で。翻って考えてみると。
私の最近を思い返してみると、
幸せだな、と毎日思うことばかりで。

大好きな上司とお仕事できているし、
そこそこ好きな会社で、やっと、本当にやっと、
自分の仕事とも向き合えるようになってきたし、
大好きな友人と会ったり話したりできているし、
大好きな人との辛い恋愛も過去のものに出来たし、
大切な人と日々あることの幸せを感じることで
今ここで生きる自分をちょっとずつ肯定できていて。

なんというか、本当に最近は毎日に満足していたんだろうなと。

 

そんなわけで、最近はブログも更新することもなく。

自分の中から言葉があふれだす体験を、最近久しくしてなかった。
「伝えたい相手」に対して、然るべき言葉を紡ごう、とは思ったけど、
それはその人との関係性構築・感情の共有という目的のもとに閉じていて。

「切実さ」「リスクを取れる」「覚悟」という言葉で形容できるような
感じでは、なかったかな、と。


・・・で、今日何が起こったかというと。

ここ最近(3月)、久しぶりに1人でコンサルとして案件をやっていたのだけど、
その報告会が終わって。
お客さんのところに行って、徹夜・急ごさえ・不十分ではあるが
俺もう頑張ったよ・・・と思える報告書を持って行った。

お客さんは何を考えてるんだろう、と不安に苛まれながらも、
お客さんも議論の中で盛り上がってくれていたし、
上司の顔を見ても、吝かでもなさそうなので嬉しかった。
んで、最近仕事をするのが吝かではないような気もしており、
そこそこ満足して会社に帰ってきた。

でもって、割といい気分でチームの会議へ。
納品前だけどこんな感じっすわー、と言いながら、共有。
端的に言えば、上の人は満足してくれなかった。
なんで、私、結構頑張ったのだけど、と若干ムッとしながらも、
そうかプロってそういうやつだったか(意識は高くない)、
まあ、また次頑張るかあ、と思ったりはしたのだけど、
この痛い感じ・・・というか、どうにかしたいけどできない
自己嫌悪とか申し訳無さとかうんざり感とか悲しみとか
そういうのがあるからこそ、言葉が溢れ出してきたり、
好きな人をより求めたり、その存在意義を確認したり、
上司との信頼を確認したり、できるんだなーというのを、
しみじみ感じたりしたのでした。


私にとっては、仕事をする、お金をもらう、以上に、
何かを感じることが何より大事なので、
そういう感覚を覚えられることはとても幸せで。

「やっぱり自分には整理・構造化は向いてないんじゃないか」と思ったり、
そもそも徹夜で眠いし視界は霞むしげろげろだし体も限界な気もするけど
こういうのたまにあるくらいが心地よいのかもなとも思ったり、
自分が動ける限界と今後の行動範囲や仕事に思いを馳せてみたり、
ちゃんと本気でやると、本気でFBしてくれる人がいて、
ちゃんと生きてると、ちゃんと向き合ってくれるってことだよなと思ったり、
とはいえ今あるようにあることしかできないんだろうなと思ったり、
このまま生きていき続けなきゃいけないのは辛いなと思ったり、
やっぱり周りの人の温かさに触れてにんまりしてみたり、
思考世界を本気で共有できるこの仕事は好きなんだよなと思ったり、
私の思考のあり方は「コンサルタント」然としていないのかもしれないけど、
それでもこの世界にいられるなら、越境者としてもがいてみようかなと思ったり、
まあいろんなことを考えるわけで。

思考することとか、
(恋人など、自分を肯定してくれることが前提ではない)誰かと向き合うことは、
自分のダメなところと向き合うことそのものだし、
そういう機会があってこそ、私は「わたし」の人生を生きられて、
健全な危機感やメンヘラ感のなかで、自分の大事なものを
本当に取捨選択して感謝したりできるんだな、とありがたく思ったりしました。

・・・という、納品前日なのにブログを書いた背徳感で、
今日もお仕事を続行することとします。

 

---

 

最後に、大好きだ、と思った文章を。
このブログで以前取り上げた、すみれちゃんの文章。

 

aboutyou2015.com

 

「あなたもわたしも、とにかく寂しがりやで、承認欲求が強くて、長期的な願望は抱えてるくせに自分が認められる空間があると後先考えず(考えてるフリだけ、実際は勢いで)飛び込んじゃう。なんとなく違う、違う、を抱え続けて、耐えきれなくなって恋愛に逃げる。その後で猛烈な自己嫌悪。同じこと繰り返してるとわかりつつも抜け出しきれなくてもがく。周りからしてみたら「お前まだそこにいるの」って感じなんだけど、本人的には小さな大躍進。そんなあがく自分を認めてあげたいから過去分析は大好きで、過去の整理はもう何周か済んだ。あとはどう生きるかの未来目線の軸さえ一本通れば、今までいろんな方向に分散させてしまっていたエネルギーをドカンと注入して進んでいけるのに。
なーんて部分であなたとわたしはそっくりだと思うんだけど、どうかな?

さーて、この状態からは君もわたしも一歩くらいは抜け出したはず、よね? 舞い戻ることがないように、一歩も引けない状況を自分で作っていきましょうな。」

 

なんていうか、生きてるってこんな感じ。
私は生きるエネルギーを持て余し気味で、
いろんな方向に分散させてみたり、
誰かにドッヂボールよろしくぶつけてみたり、
突如として姿を消してみたり、
ドカンと注入して進んでいく覚悟をしてみたり、
人を疑ってみたり信じてみたり。

そういう毎日を愛せて、かつ、
そういう毎日を愛してくれる人がいれば、
何があっても生きていて怖くないな、と思ったり、
怖さを手放したいという傲慢さに辟易としたり、
私は私にうんざりしながら、
自己愛と猜疑心と自己嫌悪でぐちゃぐちゃな自分と
向き合わなきゃいけないんだなあと思いました。


というわけで、
「私は今日も生きているんだな」と思いながら、
げろげろになりながらお仕事をして、
終電でおうちに帰るんだろうと思います。

 

さて。頑張ってもういっちょ仕事しますか。
それでは。

 

追記

cloalien.hatenablog.com

この日とほぼ同じことを言っているな。
そういうもので毎日は出来ているな。

『明日死ぬとしたら、今日何する?』という思考実験は思わぬ発見をもたらすよ、というおはなし。(東日本大震災によせて)


おはようございます。

 

今日は3.11、東日本大震災の日ですね。5年経つのか。

私は日本にいなかったのと、身近に影響があったわけではないので、
必ずしも自分の事として受け止められていませんが、
帰国してもなお続く地震といたましい災害の状況を見て
悲しさとか無力感とか恐れってこういうものなのか、
と感じたりしていたのを懐かしく感じたりもします。

(その痕跡を確かめるために単身東北ボランティアに行ったけど、
自分の浅はかな承認欲求とささやかな祈りの気持ちと、
それでも交わろうとする人間の根源的な欲求と、
結局自分の人生を生きるしかないという諦念を得て
帰ってきた気がします)

 

で。

 

ここで勧めたいのは、
寄付でも政治的運動でもなく。

『明日死ぬとしたら、今日何する?』という思考実験かなと。

 

http://aboutyou2015.com/2016/03/10/to-you/


こちら、私が尊敬している女の子の話題提起に刺激を受けてですが。

明日(になった瞬間)死ぬとして、という妄想をしてみた。昨晩の話。

 

 

【思考実験を一部抜粋】

そうか、明日死ぬのか。
死ぬ・・・死ぬ??
うーん、今から何をするかな。
まず、仕事は、しないな。やめやめ。
とりあえず・・・うーん・・・
待って明日って何時?夜?今日の24時?
・・・誰に会おう。

~略~

あと、食べるもの。うーん。
なんか気分的にキャベツは食べたいなあ。
あとチーズを電子レンジでチンして食べたいな。
あー安い舌してるんだな。
もうお金もいらないから・・・うーん・・・いいチーズを食べよう。
お酒?いらない。思考が混濁するのは嫌だ。

あーでもちょっと待って、明日人生が終わるの私だけなのか。
でもちょっとまって、あれだ、まず人に言うかな?
大事な人には言うのだろうか?私明日死ぬらしいって。
とりあえずお金あるし大事な人にはめっちゃいいものをあげておこう。
なんだろう、今あげれるもの・・・
やばい。お金いらねー。いらなすぎる。
財産・・・いいや、誰かもらってくれ。おわり。

~略~

うーん・・・明日死ぬんだよね?
今日の夜は寝らんないな・・・
今晩は妹子とちゃんとしゃべるかー。
とりあえず人生を振り返って、
信じてもらえないだろうけど友達には連絡して・・・
TwitterそれからFacebookにも一応謝辞を述べておくか。
家族は・・・うーん、いいや今は。後で。
あ、でもばあちゃんには電話しとこっかな。
明日は会社に来るけど仕事はしないで、
話したい人と話せれば、それでいいや。
親友にはなんとかして会いたいな・・・
連絡するか・・・昼間ふらっと会社の近くとか行くか・・・

~略~

大事な人・・・きっと話しきれないなー。
話を切り出すこともできないんだろうなー。
ただ泣くことしかできないのかもしれないなー。
最後は好きな人と一緒にいてふっと死にたいなー。

~略~

 

 

 【発見】

・最後に日に仕事はしない
・でも会社には行くっぽい
=人に会いたいから?
・人に「死ぬ」とは言わないっぽい
・でも大事な人にはなんとかして会いたい
・でも大事な人には冗談めかして言うかも、程度
・でもわがままは言えなそう
・大事な人の時間や仕事を邪魔したらいけない、という思考
=自己肯定感の低さ?
・食べ物は、キャベツとチーズがあればいいらしい
(ので昨晩めっちゃキャベツとチーズ食べた)
・会いたい人にもあまり執着はしなそうだ
(という話を大事な人にしたら寂しがられた)
・あまり欲はないのかも
・自分の人生を自分だけのものだと捉えている
(相手がどう思うかはあまり考えていない)
・お金はあまり必要なさそう
・でもやっぱり最後の瞬間は好きな人といたい、それはもはや必然

 

 【教訓】

・もっとわがままに生きてもいいのかも
・「執着している」状態を自分の中で受け入れるのが大事
・大事な人がどう思うか、という他者目線は持てるようになりたい
・自分のしたいことと向き合うべき
=条件や外部環境ありきで考えるくせを治したい

 

 【感想】

これやると色々見つけることとか、
もっとこうやって生きれたらいいな、とか
いろいろ考えられるからおすすめ。


なんていうのかなー、
一旦死んで、また生きなおそう、と思えました。

 

 【これからやりたいこと】

遺書・・・か、と。
明日死ぬなら遺書とか書くのかな。
どうなんだろう。今だったらどんな遺書を書くかな。
ただただ、大事な人にありがとうを伝えることしかできないかも。

でも、死を意識して生きていくことで、
自分のほんとうの欲求に向き合えるなら、
それは幸せなことだな、と思いました。

 

 【終わりに】

今日がその節目の日であるにも関わらず、
私の中にはあまり追悼感全くないですが、
(不謹慎と言われてしまうかもしれませんが)
今生きている私の大事な人、
これから大事になるかもしれない人が、
幸せを感じているといいな、と、願う日だなと思います。

 

では。

「平和」や「幸せ」の世界に甘んじると、逆に平和も幸せも享受できなくなる、というおはなし。

私は今、客観的にも主観的にも、
「すごく幸せ」なのかなと思う、し、
自分自身もほんとにそう思っている。

 

でも、「本当にそれでいいのか?」という問いは、
常に自分の中で成り立つし、あらねばならぬのだ、
とも思っている。

 

(こと私は、マルチタスクが苦手なゼロイチ思考をしてしまいがちなので)
つい何か大事そうなものを見つけると、それに耽溺したり、
それに伴って何かを大事にできなくなったり、心を配れなくなったりする。


とはいえ、1つのものだけを信じようとする態度は
あまり健全ではないことも知っている。
ので、そういうのは出来れば避けたいし、
そう自戒して生き続けたいと思う。

 

そして、健全ではない、というだけではなく、
私は色んなことがないと生きていけない、という側面も持っているようだ。

 

例えば。
私は、本来的には、疑いようのない幸せや平和を享受する、
地に足をつけて長期的に何かをする、ということが絶望的に苦手なようだ。

不条理に対するモチベーションは高いが、
何かを作ること、何かと真剣に向き合い行為すること、
に対するモチベーションは相対的には低い。

だから、ホントは、適度に不条理がある中で、
辛がり、何かを呪いながら生きていないと、
生きる活力自体が失われてしまうんだな、と思ったりしている。

物事は、常に何かとの差分に酔って価値を認識するものだと思っているし、
色んな物がある社会だからこそ、あるものを大事に思えたり、
愛おしく思えたりするのだろう、とも思っているので。

 

・・・とすると、「恒久的な平和なんてない」ということを自戒するのは、
もはや自分のメンテナンスのために必要な虚言?なのかもしれないなと。

不安にはそのときどきに対処する必要があるのかも知れないが、
それは、私にとっては持ち続けている方が健全なものでもあるのかなと。

 

平和も幸せも、享受したいしめいっぱい幸せでありたい。
と思う自分もいるし、それは全然嘘ではないことも知っている。

でも、それは恒久的に続くものだなんて無思考になりたくないし、
思わない方がいいとも思っている。信じるのが怖いからかもしれない。
幸せになれない体質、なのかもしれない。


そういう自己といかに向き合い、
現実をいかに幸せなものにするか、という葛藤が、
今後の人生のなかでついてまわるのだろうなと予感している。

甘々な人生だって、人生の何処かにはあってほしい。
だけど、それだけだと人生はつまらないよね、という。
(そのために「仕事」のようなものがあるのかもしれない、と思ったりもする)

そろそろバランスできるようになりたいとも思いつつ、
バランスとかないのかもしれないな、とも思うので、
こういう性質を認識して、うまくスイッチできるようになろう、
とも思ったりする昼下がりでした。

外出なくなったから、ちゃんと仕事しよっと。

ずっと一緒にいたい、という感情/事象は起こりえるのか、というおはなし。

ずっと一緒にいたい人、ってなんだろう、と考えると。
(そもそもそんな問いを立てることを、
ここ最近は避けて生きてきたかもしれない。)

 

一緒にいるときその瞬間を楽しめる
ということはとても大事なこと。

 

でも、それだけではなく、
(どんなに苦しい状況下にあっても)
共に生きる明日のことを考えるのは、
もしかしたら、そんなに苦にはならなくて、
連続している人生の時間を肯定できる予感がする。

そう考えられている場合においては、
「本当にずっと一緒にいたい」という感情が起こるのではないか、
と思ったりする。

 

私はつい、その瞬間一番琴線に触れること、面白そうなことを
のべつまくなしやってみる、とか、
自己の連続性を無視した意思決定を
ついしてしまったりしてきたのだけど、
(責任感の欠如なのかもしれないね)


今日は今日だけで終わると思って生きるのよりは、
明日を夢見ることをわくわくできるほうが、
もしかしたら好きかもしれない。

というか、そういう生き方をできるなら、
もしかしたら幸せかもしれない。

 

そう考えると、幸せって、
瞬間的なものじゃなくて、
刹那的なものでもなくて、
恒久的にもなりえるのか?
(そんなの結果論だと思うけど)

 

・・・そんなことを考える夜21時。
もう疲れてるんだな・・・帰ろう。

自分の思考に一旦「答えを出す」ことことは、痛みを痛みとして受け入れることだ

この世の中には答えを出せと言われることがたくさんあって、
本当は自然状態では答えなんか出さなくてもいいはずなのに、
この世の中で生きてると答えを出すのが必然であるような感じで
つい安易な答えを出しながら生きてしまうのかもしれない。

・・・と思っていた。

 

で、私は「安易に答えを出す」ということに耐えられないから、
そして、「考え続けること」の美しさと崇高さに憧れていたから、
「答えを出さないで考える」という選択を取ろうとしてきた。

 

でも、本当は、「安易な選択」なんてものはないかもしれない・・・
って最近は思い始めている。

(というより、本当は「安易な選択」はもはや選んですらいないのかもしれない)

 

「答えを出す」ことそのものが(どんなに軽いものでも)
痛みを伴うものなんだろうな、
自分はそこから逃げてきただけなんだな、と。

 

ぼちぼち私自身のいる段階にも変化が訪れているのだろう、と思う。
(意図的にそうしている、というのもあるのだけど)

・そろそろ逃げてるだけの自分でいいのか分からなくなってきた
・何も決めないでいていい時期が終焉を迎えようとしている
(外部環境や自分の持っているリソース、なくなってしまうものなど)

具体的にはこんな感じかなー。
より自分に納得感のある決断をすべきなんだな、
とうすうす勘付いて、は、いる・・・はず・・・。

※そういう風に思ったことを忘れないために、
こうやって記しているわけなんだけどね笑。

 

っしゃ、今週もおわり!
週末も引き続き楽しみたい所存。

「この人/自分の幸せを願う」という概念が、「この人/自分を幸せにする」という概念になったときに、ひとは行動するし、生き生きとするのかもしれない、という新しい仮説

私は「がむしゃらに生きる」<「善く生きる」
みたいなことを思ってきたけど、

考えているだけだと本当に自己満足で、
(もちろんそれだけでもないよりはましだとは思うけど、)
結局のところ、それをいかに行動するかっていうのが、
本当は大事だったりするんじゃないかなと思った。

 

自分の過去のことを思い出してみても、
行動したことの方が圧倒的に記憶に残るし。
思い入れを持って行動できたら最強だよなと。
んであわよくば誰か喜んでくれたら、もうけもんだなと。

 

どうにもならないもどかしさと祈りで人生を終えるのは、
結果としてはしょうがないかもしれないし、
それはそれできれいなものに見えるけど、
今の私は、行動して、得られなかったものがあっても、
思い入れのあるものがいっぱいある人生を
おくれたらいいのかもな、と思ったりしました。

今日もうあんまり元気ないし、
何も行動してないので何も言えないけど、
今朝は5時まで興奮状態で眠れず笑、
今日は珍しく調査と会議が連続したので、
もう帰ろう・・・

 

こういう日もちゃんと生き切ろう・・・

自分の意思決定はいかにあるべきか(人間関係しかり、仕事しかり)

◆私の結婚願望を溶かしてくれた一言 - はあちゅう 公式ブログ 

http://lineblog.me/ha_chu/archives/55175710.html

 

これにも記載があるけれど、

「全てがしっくりいくタイミングで
その時その時のご縁を大事にして
選択していけば別にどれでもいいな」

ってことだよな、と。

 

最近一事象にこだわろうとするときの態度の前提として、
(もちろん、こだわるときはこだわるのだけど)
その事象自体は多くあるうちの一つであり、
私がそのものと対峙しているのは偶然の産物である
という感覚を覚えていたりします。
(その上で対峙しているのはある意味必然によるものなのだろうけど)

 

でも、そのくらい儚い(偶然性のある)ものだからこそ、
信じようと思ったこととか、信じるものは、徹底的に信じた上で、
何が自分にできるのか、考えたいなあ・・・と。

 

代替可能性があるんじゃないか、
唯一無二のものなんてもとより存在しないんじゃないか、
ここに存在する意味なんて何もないんじゃないか、
というむなしさを受け止めたうえで、
それでもそうでありたいと願い、抗って行動する、といういとなみが、
何かを大事にして生きていくことなんだろうなと思っています。

 

そうやって抗う、こだわることは、多分に醜さもはらんでいて。
それを客観的にとらえると、醜くて笑ってしまいそうになるけど。
それでも、そういうものも含めて自分だと受け止めて、
(あわよくば誰かに受け止めてもらえればとてもうれしい)
日々を味わいきれれば、それは幸せだなって思いました。

 

その前提は、「帰ってくる場所がある」という感覚というか、
「戦って戻ってくる場所がある」ということなんだろうなと思っていて、
そういうものを(自分の内外に)築きながら、
日々柔軟にいろんなものを感じ、傷つき、治癒して
醜さとも対峙して、美しいものに思いを馳せながら
自分の意思決定や行動には責任を持ち、
色んなものを受け止め、悲しんだりしながらも
その感情の動きとかに幸せを感じて、
なんていうか、生を全うできたら、素敵だな、と思っています。

 

追記

最近思うことがたくさんあって幸せだと思う。
それはもはやプラスの感情であるかマイナスの感情であるかは
もはや問題ではなくて。
今生きていて、そういうことを感じられることに
ありがたいな、と思いながら、生きてます。
平和ボケですかねw
人生への惚気ですかねw

「地を這うことを選べる道」を生きることの重要性とその魅力に、私は驚きを隠せなかった、というおはなし。

さっきの「職能と職業選択」の話について。
もう少し思ったことが有ったので、追加しようと思います。

 

「職能のあるなし」によって、何が規定されうるんだろう?
と考えたとき、それは、

・地を這って何かを得る気があるか
・何かを言われて反論する気になるのか

ということに収斂するのではないかと思いました。
(要はこだわり、なのかな)

 

 

【例1】

私には、人生を通じて憧れる上司がいます。
その人とさっき(私の土壌である)授業実践について話したんですね。

曲がりなりにも(塾での集団授業や教育実習で)
人生をかけて実践を積んできたものとして思うことはあり、
自分の経験や痛みを想起して、
それなりに用意をして臨んだつもりでした。

(もちろん時間不足、準備不足は否めなかったものの、
自分なりの感想やスタンスは示したつもりです)

それを一通りやったとき
「まあ・・・教育の畑にいた人はそういう思考になりがちだよね」
という扱いを受けたと感じたとき、
(なまじ中身に思い入れがあるので、)
まず初めに悲しい気持ちになりました。

自分が曲がりなりにも頑張ってきた領域であれば、
この人とは十分に議論できる状態ではないのか
という希望が打ち砕かれたからかな。
私の存在価値はここにすらないのか、と絶望すらしました。
(もちろん、視座の違いかもしれないけど、
せめて対等に議論が出来るのでは、と
自分に期待を持っていたんでしょうね)

でも。その後、なんとなく、
反論したくてしょうがない気持ちになりました。
こだわっている自分の領域での自分の思いを
「現場由来の視座の低いもの」と括られたこと
そのものへの怒りなんだなと気づきました。

普段の仕事の領域では
「みんな枠にとらわれている状態だよね★」
と冷静に揶揄していられたけど、です。
(「こんな気持ちになるんだ」と自分自身に驚きました)

もちろん、思考にこだわればこだわるほど、
思考は凝り固まっていくのは知っているけど、
それでもなお、違うんだ、と抵抗したい、
という欲求が自分の中にあることに、
割と大きな驚きをもちました。

 

【例2】

最近、仕事における目標設定をしています。
「やらなきゃいけないこと」を洗い出し、
目標として何を掲げるかを考え、
KPIやKGI(達成要件や効果測定)を設定し、
自分にとって好ましい状態を想像します。

それを考える中で、
どうしても「嫌悪感」「徒労感」ばかりが
見えてしまう自分がいます。

・やらなきゃいけないことは知ってる
・これが出来ないとあらゆることが出来ないのと同義なのも知ってる

それでも、です。

 

何が嫌なのかすらよくわからないけど、
それが上手にできる人に対して羨ましさを覚えると同時に、
「私は彼らとは違うから没入しないところで止めておこう」
と思っているんだな、と。

 

で、今、そのことに対する違和感があります。

【例1】のことは、自分が没入した経緯があるからこそ(なのかな?)、
(もちろん思考が凝り固まっている可能性はあるが、)
思い入れを持って主張したいと思うし、
真摯に学びたいと思うし、
無条件にもっとよい状態になりたいなと願っています。
(将来教師になる以上、当たり前のことだとも思うし。)

【例2】のことについては、私の価値観として
「地を這わなきゃいけないことは美しくないこと」
「枠にとらわれるのは醜いこと」
というのがあり、
「そこそこにしておきたいな」
「はまりすぎないようにしたいな」
「最低限できる形ってどんな感じ?」
という度合いのことを考えているんだな、と思いました。

(もちろん、このスキルに一定価値を感じているから、
この場にとどまり続けているのだけど。。)

私は自分で「美醜の概念が大事である」と思っていたし、
それはそれであながち間違いじゃないんだなと思っています。
でもそれは
事象そのものに対する思いがない場合
(つまり自分にしか思いが持てない場合)」であり、
事象に対して思い入れがある場合には、
そうではない反応になるんだな、という。

 

どう生きていくか、という問いにも
つながっていく話なのかもしれないけど、
どういう生き方を選ぶにせよ、
「怒るぞ!」って思うくらい
思い入れを持てるようなものについて、
仕事ができること、それこそが「職能」なのでは?
と思いました。

 

自分にとって異質できれいじゃないと思っているものが、
心の底からは美しく見えるわけなんてなくて、
それなのに美醜の概念に沿って考えようとしている時点で、
自分が目指しているところはいつまでも達成できない、
ということに気づき、絶望した・・・
というのがここ何時間かの気づき、というわけです。

(これは枠組み論とか認識論とかを超越して、
身体感覚レベルで、というのかな、
本当にびっくりしたことだったので、
腱鞘炎になりかけの腕を酷使してみました笑。)

 

あたしは
・ちゃんと枠組みを認識していたい
という気持ちと同時に、
・関わる人の気持ちや痛みや悲しみを
(汚いものや首肯できないもの、くだらないものも含め)
理解できないなりに理解しようと努力して、
伝わるか分からなくても愛を伝えて、
そういうのをきゅっと抱きしめられる人になりたい
って思っているし、
そういう意味では、
・どこまでも人と泥臭く生きていきたい
と願っています。

つまり、働き方、ひいては生き方を再考しよう、
というおはなし、かな、と。

 

長くなりました。備忘録程度のものですが、大事な衝撃だったので。