エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

ずっと一緒にいたい、という感情/事象は起こりえるのか、というおはなし。

ずっと一緒にいたい人、ってなんだろう、と考えると。
(そもそもそんな問いを立てることを、
ここ最近は避けて生きてきたかもしれない。)

 

一緒にいるときその瞬間を楽しめる
ということはとても大事なこと。

 

でも、それだけではなく、
(どんなに苦しい状況下にあっても)
共に生きる明日のことを考えるのは、
もしかしたら、そんなに苦にはならなくて、
連続している人生の時間を肯定できる予感がする。

そう考えられている場合においては、
「本当にずっと一緒にいたい」という感情が起こるのではないか、
と思ったりする。

 

私はつい、その瞬間一番琴線に触れること、面白そうなことを
のべつまくなしやってみる、とか、
自己の連続性を無視した意思決定を
ついしてしまったりしてきたのだけど、
(責任感の欠如なのかもしれないね)


今日は今日だけで終わると思って生きるのよりは、
明日を夢見ることをわくわくできるほうが、
もしかしたら好きかもしれない。

というか、そういう生き方をできるなら、
もしかしたら幸せかもしれない。

 

そう考えると、幸せって、
瞬間的なものじゃなくて、
刹那的なものでもなくて、
恒久的にもなりえるのか?
(そんなの結果論だと思うけど)

 

・・・そんなことを考える夜21時。
もう疲れてるんだな・・・帰ろう。

自分の思考に一旦「答えを出す」ことことは、痛みを痛みとして受け入れることだ

この世の中には答えを出せと言われることがたくさんあって、
本当は自然状態では答えなんか出さなくてもいいはずなのに、
この世の中で生きてると答えを出すのが必然であるような感じで
つい安易な答えを出しながら生きてしまうのかもしれない。

・・・と思っていた。

 

で、私は「安易に答えを出す」ということに耐えられないから、
そして、「考え続けること」の美しさと崇高さに憧れていたから、
「答えを出さないで考える」という選択を取ろうとしてきた。

 

でも、本当は、「安易な選択」なんてものはないかもしれない・・・
って最近は思い始めている。

(というより、本当は「安易な選択」はもはや選んですらいないのかもしれない)

 

「答えを出す」ことそのものが(どんなに軽いものでも)
痛みを伴うものなんだろうな、
自分はそこから逃げてきただけなんだな、と。

 

ぼちぼち私自身のいる段階にも変化が訪れているのだろう、と思う。
(意図的にそうしている、というのもあるのだけど)

・そろそろ逃げてるだけの自分でいいのか分からなくなってきた
・何も決めないでいていい時期が終焉を迎えようとしている
(外部環境や自分の持っているリソース、なくなってしまうものなど)

具体的にはこんな感じかなー。
より自分に納得感のある決断をすべきなんだな、
とうすうす勘付いて、は、いる・・・はず・・・。

※そういう風に思ったことを忘れないために、
こうやって記しているわけなんだけどね笑。

 

っしゃ、今週もおわり!
週末も引き続き楽しみたい所存。

「この人/自分の幸せを願う」という概念が、「この人/自分を幸せにする」という概念になったときに、ひとは行動するし、生き生きとするのかもしれない、という新しい仮説

私は「がむしゃらに生きる」<「善く生きる」
みたいなことを思ってきたけど、

考えているだけだと本当に自己満足で、
(もちろんそれだけでもないよりはましだとは思うけど、)
結局のところ、それをいかに行動するかっていうのが、
本当は大事だったりするんじゃないかなと思った。

 

自分の過去のことを思い出してみても、
行動したことの方が圧倒的に記憶に残るし。
思い入れを持って行動できたら最強だよなと。
んであわよくば誰か喜んでくれたら、もうけもんだなと。

 

どうにもならないもどかしさと祈りで人生を終えるのは、
結果としてはしょうがないかもしれないし、
それはそれできれいなものに見えるけど、
今の私は、行動して、得られなかったものがあっても、
思い入れのあるものがいっぱいある人生を
おくれたらいいのかもな、と思ったりしました。

今日もうあんまり元気ないし、
何も行動してないので何も言えないけど、
今朝は5時まで興奮状態で眠れず笑、
今日は珍しく調査と会議が連続したので、
もう帰ろう・・・

 

こういう日もちゃんと生き切ろう・・・

自分の意思決定はいかにあるべきか(人間関係しかり、仕事しかり)

◆私の結婚願望を溶かしてくれた一言 - はあちゅう 公式ブログ 

http://lineblog.me/ha_chu/archives/55175710.html

 

これにも記載があるけれど、

「全てがしっくりいくタイミングで
その時その時のご縁を大事にして
選択していけば別にどれでもいいな」

ってことだよな、と。

 

最近一事象にこだわろうとするときの態度の前提として、
(もちろん、こだわるときはこだわるのだけど)
その事象自体は多くあるうちの一つであり、
私がそのものと対峙しているのは偶然の産物である
という感覚を覚えていたりします。
(その上で対峙しているのはある意味必然によるものなのだろうけど)

 

でも、そのくらい儚い(偶然性のある)ものだからこそ、
信じようと思ったこととか、信じるものは、徹底的に信じた上で、
何が自分にできるのか、考えたいなあ・・・と。

 

代替可能性があるんじゃないか、
唯一無二のものなんてもとより存在しないんじゃないか、
ここに存在する意味なんて何もないんじゃないか、
というむなしさを受け止めたうえで、
それでもそうでありたいと願い、抗って行動する、といういとなみが、
何かを大事にして生きていくことなんだろうなと思っています。

 

そうやって抗う、こだわることは、多分に醜さもはらんでいて。
それを客観的にとらえると、醜くて笑ってしまいそうになるけど。
それでも、そういうものも含めて自分だと受け止めて、
(あわよくば誰かに受け止めてもらえればとてもうれしい)
日々を味わいきれれば、それは幸せだなって思いました。

 

その前提は、「帰ってくる場所がある」という感覚というか、
「戦って戻ってくる場所がある」ということなんだろうなと思っていて、
そういうものを(自分の内外に)築きながら、
日々柔軟にいろんなものを感じ、傷つき、治癒して
醜さとも対峙して、美しいものに思いを馳せながら
自分の意思決定や行動には責任を持ち、
色んなものを受け止め、悲しんだりしながらも
その感情の動きとかに幸せを感じて、
なんていうか、生を全うできたら、素敵だな、と思っています。

 

追記

最近思うことがたくさんあって幸せだと思う。
それはもはやプラスの感情であるかマイナスの感情であるかは
もはや問題ではなくて。
今生きていて、そういうことを感じられることに
ありがたいな、と思いながら、生きてます。
平和ボケですかねw
人生への惚気ですかねw

「地を這うことを選べる道」を生きることの重要性とその魅力に、私は驚きを隠せなかった、というおはなし。

さっきの「職能と職業選択」の話について。
もう少し思ったことが有ったので、追加しようと思います。

 

「職能のあるなし」によって、何が規定されうるんだろう?
と考えたとき、それは、

・地を這って何かを得る気があるか
・何かを言われて反論する気になるのか

ということに収斂するのではないかと思いました。
(要はこだわり、なのかな)

 

 

【例1】

私には、人生を通じて憧れる上司がいます。
その人とさっき(私の土壌である)授業実践について話したんですね。

曲がりなりにも(塾での集団授業や教育実習で)
人生をかけて実践を積んできたものとして思うことはあり、
自分の経験や痛みを想起して、
それなりに用意をして臨んだつもりでした。

(もちろん時間不足、準備不足は否めなかったものの、
自分なりの感想やスタンスは示したつもりです)

それを一通りやったとき
「まあ・・・教育の畑にいた人はそういう思考になりがちだよね」
という扱いを受けたと感じたとき、
(なまじ中身に思い入れがあるので、)
まず初めに悲しい気持ちになりました。

自分が曲がりなりにも頑張ってきた領域であれば、
この人とは十分に議論できる状態ではないのか
という希望が打ち砕かれたからかな。
私の存在価値はここにすらないのか、と絶望すらしました。
(もちろん、視座の違いかもしれないけど、
せめて対等に議論が出来るのでは、と
自分に期待を持っていたんでしょうね)

でも。その後、なんとなく、
反論したくてしょうがない気持ちになりました。
こだわっている自分の領域での自分の思いを
「現場由来の視座の低いもの」と括られたこと
そのものへの怒りなんだなと気づきました。

普段の仕事の領域では
「みんな枠にとらわれている状態だよね★」
と冷静に揶揄していられたけど、です。
(「こんな気持ちになるんだ」と自分自身に驚きました)

もちろん、思考にこだわればこだわるほど、
思考は凝り固まっていくのは知っているけど、
それでもなお、違うんだ、と抵抗したい、
という欲求が自分の中にあることに、
割と大きな驚きをもちました。

 

【例2】

最近、仕事における目標設定をしています。
「やらなきゃいけないこと」を洗い出し、
目標として何を掲げるかを考え、
KPIやKGI(達成要件や効果測定)を設定し、
自分にとって好ましい状態を想像します。

それを考える中で、
どうしても「嫌悪感」「徒労感」ばかりが
見えてしまう自分がいます。

・やらなきゃいけないことは知ってる
・これが出来ないとあらゆることが出来ないのと同義なのも知ってる

それでも、です。

 

何が嫌なのかすらよくわからないけど、
それが上手にできる人に対して羨ましさを覚えると同時に、
「私は彼らとは違うから没入しないところで止めておこう」
と思っているんだな、と。

 

で、今、そのことに対する違和感があります。

【例1】のことは、自分が没入した経緯があるからこそ(なのかな?)、
(もちろん思考が凝り固まっている可能性はあるが、)
思い入れを持って主張したいと思うし、
真摯に学びたいと思うし、
無条件にもっとよい状態になりたいなと願っています。
(将来教師になる以上、当たり前のことだとも思うし。)

【例2】のことについては、私の価値観として
「地を這わなきゃいけないことは美しくないこと」
「枠にとらわれるのは醜いこと」
というのがあり、
「そこそこにしておきたいな」
「はまりすぎないようにしたいな」
「最低限できる形ってどんな感じ?」
という度合いのことを考えているんだな、と思いました。

(もちろん、このスキルに一定価値を感じているから、
この場にとどまり続けているのだけど。。)

私は自分で「美醜の概念が大事である」と思っていたし、
それはそれであながち間違いじゃないんだなと思っています。
でもそれは
事象そのものに対する思いがない場合
(つまり自分にしか思いが持てない場合)」であり、
事象に対して思い入れがある場合には、
そうではない反応になるんだな、という。

 

どう生きていくか、という問いにも
つながっていく話なのかもしれないけど、
どういう生き方を選ぶにせよ、
「怒るぞ!」って思うくらい
思い入れを持てるようなものについて、
仕事ができること、それこそが「職能」なのでは?
と思いました。

 

自分にとって異質できれいじゃないと思っているものが、
心の底からは美しく見えるわけなんてなくて、
それなのに美醜の概念に沿って考えようとしている時点で、
自分が目指しているところはいつまでも達成できない、
ということに気づき、絶望した・・・
というのがここ何時間かの気づき、というわけです。

(これは枠組み論とか認識論とかを超越して、
身体感覚レベルで、というのかな、
本当にびっくりしたことだったので、
腱鞘炎になりかけの腕を酷使してみました笑。)

 

あたしは
・ちゃんと枠組みを認識していたい
という気持ちと同時に、
・関わる人の気持ちや痛みや悲しみを
(汚いものや首肯できないもの、くだらないものも含め)
理解できないなりに理解しようと努力して、
伝わるか分からなくても愛を伝えて、
そういうのをきゅっと抱きしめられる人になりたい
って思っているし、
そういう意味では、
・どこまでも人と泥臭く生きていきたい
と願っています。

つまり、働き方、ひいては生き方を再考しよう、
というおはなし、かな、と。

 

長くなりました。備忘録程度のものですが、大事な衝撃だったので。

「人にそれぞれ出来ること出来ないことがあり、それが職業という形で生かせる」という風に思える世界があればとても幸せだろうなという妄想のおはなし。

それが、夢じゃないかもしれない、
と思ってしまったから記録する。

---

わが同期に、メンサ全開の男子がいる。

決して器用、というわけではない。
人とのコミュニケーションが苦手で、
言葉を言葉面としてしか捉えられない。
なのでナチュラルに会話がかみ合わない。

でも、文章の整理や構造化、
やるべきことに実直に向かう力は
本当に秀でている。処理能力というか、
The 東大生というか・・・

 

彼はかつて、
同じ事業部でコンサルティングのお仕事をしていた。
私には、彼はどこか苦しんでいたように見えた。
自己肯定感が持てない、とも言っていた。

 

今は、ライティング能力や情報の構造化、
もろもろの能力を見込まれて、
弊社の記事や本の執筆をする仕事をしている。

私からすると、彼には笑顔が
(過去との比較だが)増えたような気がするし、
労働時間はもちろん短くはないかもしれないけど、
彼は彼のペースで生き生きと働いているように見える。

 

それがすごく幸せなことだなと思いつつ、
ちょっとうらやましかったりもするんだなあ、
とも思ったりする。

(自分が不幸だとかいう話はしていない)

 

まさにこの規模間の会社だからできることなのかもしれないし、
ここまで明確な「強み」「弱み」がないと
こういうことは起きないんだろうなとは思いつつ、
自分にもいつか「これだ!」と思えるモノとの
出会いとか、変化とか、起こるといいなと思っている。
(他人事というか、もはや祈りのレベル。笑)

自分をちゃんと認識して、
どんがらがっしゃんするにせよ、
自分のレベ上げを大人しく受け入れて努力するにせよ。
(物事に没入するのが苦手なキョロ充なので、
そんな感覚は得られないかもしれないが)

 

うーん、なんか最近すごく思うのは、
自分のしたことしか返ってこないから、
ちゃんと自分で考えなきゃなということ。

そういう視座に立つと、
何者にもなれる気もするし、
何者にもならなくていい気もするし、
何も手に入らない気もするし、
何でも「手に入った」と認識できそうではあるし、
というかそもそも何もしなくてもいいような気もしており、
なんというか、ゆるやかに死に向かっている感覚を覚える。

エンジンが緩やかに空回りしている感覚。
幸せが幸せでなくなることの恐怖とか。
考えなくていいことを憂いでみたりとか。

 

私は私のしたことでできているから、
「今」「ここで」生きることに一生懸命でないのかもしれない。

(「一生懸命」な状態があるのかは不明だし、
そういう状態をよしとするわけではないが)
「今」「ここで」生きることに感謝はしているけど、
知らない、できないことに安住したままだ。
(幸せぼけなのかもしれないね。)

 

そういう意味でいうと、
今私は生きることの「悲しみ」という蜜を
味わう権利はないような気はする。
(そのこと自体はとても「悲しい」ことだと思う)
(どうしようもない悲しみや痛み、みたいなものは、
まっとうに生きることでしか得られない)


でも、悲劇のヒロインでない、
行為したこと以上の意味はない、
という自己認知があるからこそ、
今ほんのりと感じたりすることには、
何らかの意味があるのかな、と思ったりする。

 

うーん、なんだろうなあ、
(まあもちろんそんなものないかもなんだけど、)
そういう認識を持っているからこそ、
逆にもし、何か自分のうかがい知らないものが
自分に備わっていたり、
自分が見つけられたりしたらいいのになあ、
とちょっと傲慢というか、思考放棄というか、
ふわふわしていることを考えたくなってしまう今日この頃。

 

何もできないのにね。
つい多くを望んでしまってだめだね。

 

自分にできることなんて限られてるのに。
それを増やそうなんて思ってないのに。

 

そして、前に進まないのは退化だ、とは言うけど、
もう進化だろうが退化だろうが、
ここにあるものを大事に思う以上のことは
ないような気もしている。
(行動に認識の主軸を置けなくなってきたのかもしれない)

無欲に生きていきたいけど、
そんななかでも欲望を持ってしまう矛盾を、
愛せるようになるといいなあ。

 

ふゆ。

痛みとか悲しみと向き合い続けることこそが生きることの意味なんじゃないかという仮説を私は持ち続けて生きていくんだと思う、というおはなし。

私が人生を通じてやりたいことは何か、
と自分の胸に問うてみる。

 

想いを持っている人、ものに対して
何かしよう、役に立ちたい、と思えば思うほど、
「どうにもならない」「何もできない」
という感覚を持つようになるときって
人間だれにでもあるんじゃないかと思う。

 

そういう人生の悲しみというか、
痛みや悲しみや叫びを帯びた何かを、
大事だと思う人と一緒に見たいんだ。感じたいんだ。

 

そして、その痛みを越えることは、

無感覚になることでも、
枠組みを決めることでも、
忘れることでも、
結論付けることでも、

ないと思っているんだよな。

 

祈るしかないことを知っているけど、
それでも何かが起きるんじゃないかと
希望を持ち続けて、
じくじくと考え続けて、
痛みを抱え続けて生きたい。

 

生き続けていくってそういうことだと思うし、
それが出来る人生は幸せだ。

 

私にとっての幸せの形はそんな感じ。
物質にも、思考にも、結果にも、
規定されないきゅっとした痛みに、
どうしようもない幸せを感じるんだ。

 

ふゆ。今週も終わりだ。

 

今日はお仕事が終わったら、
末期がんのおばあちゃんのところへ。

それでも毎日飛び回り、元気でい続けるおばあちゃんに、
若干の不思議さと圧倒的畏怖の念を持っている。

夕飯を作って待っているらしいから、
今日は拍子抜けするほどのくだらない会話を
たくさん重ねてこようと思う。

 

あとちょっと頑張ろう。

若かりし岩沢厚治に萌え続けながら。
(「シュミのハバ」のPVとかやばい)

好きな人、ものを真っ直ぐに「好きだ」と思う気持ちは実際のところ独立して存在しており、それらを躊躇わずに伝えられるようになりたいというおはなし。

自分が美しい、好ましい、愛おしいと思うものは
やっぱり自分にとっては美しい、好ましい、愛おしいし、
それぞれにはそれぞれの意味があると思うんだ。


それぞれが相互に干渉したり、軽重をつけたり、比較することで、
それらを好きであるという気持ちを曇らせたいとは思わないし、
極力(せめて自分の内部には)それらは独立したものとして大事にしたい。

(現実社会を生きる上で守らねばならぬことももちろんあるし、
唯一無二の大事なもの、というのは、この世に存在するとも思っている)

 

よくばりかもしれないけど、
それぞれの愛おしさや大事さは嘘じゃなくて、
そういうものをそれぞれ大事にした結果、
自分が幸せになれるといいなと思いました。
(周りの事象やひと、ものに関しても同様に。)

 

だから、自分にとって大事なもの(仕事も趣味も人間関係も)
それぞれに向き合いたいし、
本来的にはどれもないがしろになんてしたくないし、
できないのだろうなと。

 

自分中心主義?

 

ほざけ。そーだよ。

 

私の幸せを肯定できないような人やものになんて、目もくれてやるもんか。

他者に期待するだけの人生は、終わりにしてやるんだ。

 

※つんつんしてるときは、だいたいキてる。

 

明日ミーティングだ・・・俺選手、資料作り終われ・・・・

今日の最後にはどうしてもこれを言わなくてはいけないということがあってだな

語りえぬものについては、
沈黙しなければならない。

 

「何が語り得ることであり、何が語り得ないかを明確にする」
こと、この行為と探求自体が哲学だとするのであれば、
私は今日ちょっとその片鱗を見た気がする。

 

言葉にするのが野暮だ、という事象は枚挙にいとまがないけど、
本当に、ぐちゃぐちゃとか、意味不明とかではなく、
もうなんか、言葉になんかできないけど、胸に押し寄せる何か、
を言葉にしようとするのはなんかもうちょっと
もはや言葉にしようとすること自体が間違ってて、
それが語り得ないものであるということを自分の中で理解し、
そうであることを受け入れることしかできないんだな、と
自分の無力さと世界の大きさを感じたのでした。まる。

 

今日過ごした世界はこうして今日も無事に色々な変化を遂げ、
終わっていくのでした。まる。

 

無力。

思考と言語化の関係性

ずっと、思考するって何なんだろう、と考えている。

 

それに対する端的な答えは、
「思考の方法は人によって違って、
それを認知し、探究することにこそ
思考が存在するのだ」
ということなんだろうなと思う。

 

●私の思考および言語化の特徴

・網羅的に考えるのが苦手
・整理して考えるのが苦手
・圧倒的な情報量をそのまま受け止めて、
整理しないでそのままうにゃっと吐き出す
行為を繰り返すうちに、自分の中で本当に
大事なものがどれかあたりをつける
・あくまで感覚的に、理解したような感覚になる
・がしかし言語化するのが苦手なので、
人に理解されることは少ない

・・・っていう書き方をしている時点で、
物事を整理するという発想がなさそう
というのはお察しいただけると思うのだけど。

 

●思考方法について

思考の方法は人それぞれなんだけど、
大きく2つに分類できるような気がしていて

①アウトプットを意識した思考をする人
(枠組みに当てはめて考える人、というか、
枠組みの方から選択し思考する人)
※整理、枠組み思考、論理的思考が得意

②餌を咀嚼する過程で思考する人
(ゴール思考じゃないのかもしれない)
(他人に説明可能であることを第一条件にしていないので、
理解されない可能性が一定高い)
※直感、納得感が大事。で、論理、というかは分からないが、
本人の中では一貫性はある。

というたぶん二種類があって、私は多分後者なんだろうなと思っています。

 

●①の思考の型というものの存在が私からどう見えるか

私は①の人へのコンプレックスが強いと思っています。

なので、自分の人生をかけて、
・①の思考を出来るようになるのか
・①の思考を②で凌駕することができるのか
ということを問うていたりします。

でもね、思ったんだけど、
私は①にはなれなくて、
②側からしか①側の思考を
捉えられないんだなあと。

でもでも、
①の人たちが持っているとされている
思考の型、みたいなものが、
この世に存在するんだと思ってたんです。

でもでもでも、
そんなものは本当は存在しなくて。
(それを容易にする枠組みは世の中に存在するし、
それを取り入れるのはいいのだけど、)
結局それを行為するのはほかでもない自分で、
自分がそれをどう運用するかという思考錯誤のなかにしか
「思考する」という行為はうまれないんじゃないかなと。

(わたしは枠組みは「使うべきもの」ではあるが
「支配されてはならぬもの」と捉えているのかもね)

 

だから私にできることは、
①の人たちの枠組みを感じたり理解することまでで、
決して①にはなれないんだなって思いました。
(ていうか、なりたくないし)

どうやって彼らの「賢い思考といういとなみ」をこえられるのか、
それを、コンサルティング事業部にいる2016年は、
いや、一生かけて、
考えていくんだろうなと思いました。

まだ道半ばですが、
ゆっくりじっくり考えていきたいなと。

自立しなくちゃという危機感で
つい枠組みに閉じそうになっているけど、
もうちょっと自由に、でも誠実に、
日々を生きなきゃ、と思っています。
(今は意思ではなく危機感なのが残念ではある・・・)

 

今日の午前中の反省文でした。

人は(というか私は)驚異的に傷つきやすいがまた圧倒的に治癒力も高いという当たり前の事実とどう向き合うか

※完全に自己満足です。

 

私は1個のミス、1つの言葉で
マリアナ海溝レベルにへこむこともあり、

逆に言えば、1晩寝るだけで
超回復したりするわけだが、

最近ふと思ったのは、
私はこの人生を首肯しているんだなということ。

 

むしろその起伏に振り回されない限りにおいては、
その感情の起伏こそが人生の醍醐味だろう
とも思っている。(それは昔から、かも)

 

だから死んじゃだめだし、
きっと明日はいいことあるよ、と思って
思い切って寝ることが大事なのも、
最近ようやくわかってきた。
それは諦めでもあるが、希望でもある。

 

がんばれ、未来の自分。
今はどん詰まりだけど、
朝になれば「どうにかなるかもしれない」と
毎朝期待を持って何度でも生き直すのだから。

コミュニケーションバグの発生について

私はコミュニケーション障害をこじらせている。
かなり重度だと思う。
「そんなことないでしょw」と言われることは多いが、本当にそんな感じだ。

 

いや、コミュニケーションに障害があるというよりは、
「人によって適切な距離感や話題を選ぶ」ことが非常に苦手なのだと思う。

 

これが出来ないことによるよくないことはいろいろあって、

・全く興味のない人から「俺のこと好きでしょ」と勘違いされる
・大事にしたい人に「誰にでも同じような態度だよね」と言われる

・・・など。

 

これに対して手を打つ方法を考えてはいるが、
さて、どうすればいいのか・・・途方に暮れている。

 

好ましい人に「あなたは私にとって好ましい存在なのだ」
ということを真っ直ぐに伝えられるようになる、
ということは第一段階として大事なのだが、

これが解決すると、新たな問題が発生する。
距離を詰めすぎるフェーズに入るようだ。

(私が元来自立した人間ではないことに起因しているとは思うが、)
自分、か、相手への過信により、相手を甘やかす。
特に近しい関係だと、人をダメにしてしまうこともままある。

 

無思考にならずに相手を尊重し続け、
かつ、そのことが相手に伝わるような
健全なコミュニケーションを行えるようになりたいな、
と思った金曜日の朝。

 

好ましい、と思う場所や人、ものがあることの幸せをかみしめながら。

(比較的些末なことだけど、「好き」を、「好ましい」とか
言っちゃうあたりが分かりにくいと言われてしまう所以なのかもしれないね)

(私は好きエネルギーが強いので、朝の通勤時間は割とにやにやしている)

 

今日も一日がんばって生きよう。

キーボード入れ替えたら仕事が捗るようになったという話

こんにちは。
明日はお休みなので、腑抜け気味の僕です。

 

最近。

デスクの上に日めくりカレンダーを置いてみたり。
マグカップをお気に入りのものにしてみたり。
加湿器を机の上に置いてみたり。
猫の置物を大量投入してみたり。
季節が感じられる飾りを置いてみたり。

・・・といった、目の保養になるものの導入は積極的にやっている。
これによる気分の高揚は、確実ではあるにせよ、一時的であるということに気付いた。

 

ので、最近それとは別に、
ガジェット系(?)のカスタマイズに力を入れてみている。

キーボードを打ちやすいものにしてみたり。
パソコンの画面を横から縦に変えてみたり。

 

キーボードを新しくしたのは、故障したことがきっかけだったけど、
私はそれを機にブログを新調したし、
仕事のメモも捗るようになった。
(日記の量も増えた笑)

 

パソコンの画面を縦長にしたことによって、
PowerPointでの画面設計や
Excelでの課題管理などは
圧倒的に捗るようになった。

 

しかも、それによる昂揚感は割と長く続いてる。
(仕事場だから当たり前かもしれないけど)

 

やっぱり、仕事に直結するカスタマイズは、重要。
という当たり前の気づき。

文字を紡ぐことが好きな私としては、
もっとキーボードとか、メモとか、こだわりたいなと思ったり。

 

もっと便利にしたいなー。

以上、MTG前のたわごと。
仕事しよっと。

 

追記

とはいえ、入社初年度、
机の上にあふれんばかりのリラックマを飾り、
さらに机の上に本棚を設置し、
上司にガチ切れされたことに定評のある僕なので、
加減には気を付けよう・・・

人が人を信頼するときの根拠は「一貫性の有無」ではなく「一貫性への理解の有無」だということ

おはようございます。
人を手放しに信じないことに定評がある僕だよ!

 

いきなりだけど、発見だったので備忘録。

 

人が人を信じる上で大事なのは、
「その人の中の一貫性を発見・理解できること」なんだなと。

 

私が不信感を覚えるときを思い返すと、
・人によって対応が変わる
・状況によって言うことが変わる
・機嫌によって言うことが変わる
(ように見える)場合なんだろうなと。
(そして会社ではそれが頻発する(ように見える))

 

それは変わることのないものなんだろうと思っていたけど、

本当は根っこには誰しも「(その人の中では)一貫性」を持っていて、
それが「理解できない」から不信感を持つんだろうなと思ったわけです。

 

相手のなかの「一貫性」がなんなのかに目を向ける意識を持つことで、
毛嫌いしたりつっぱねたりする浅はかな選択を回避できるのかも、と思いましたとさ。

 

(まあ、それが美しいと思うかどうかは受け手の問題だけど。)

 

大人になろう。

今日もがんばろう。

私は人より少しだけ愛が多いようだ。

うっかり溢れてしまいそうな愛。
使い道はいかようにもできる。
私のそれはちょっと過剰で、
逆に触れると鋭利な刃物で、
そして、うら若き愛は暴走しやすい。
そして自分をも傷つけたりする。

 

でも、出来れば好きな人の幸せのために、平和的に使いたいもんだね。

 

見えない夕陽に思いを馳せながら。