コスプレでコンサルやってますけど

社内でポエマーと揶揄されるけど、コンサルタントをやっています。社会人4年目くろえの脳内あれこれ。

女の子をしながら、生きていく方法。

 

皆さんこんにちは。

仕事が詰んでいるのは相変わらずなのですが、
感情が高ぶっているので、いったん記事を書こうと思います。

 

仕事は自分の本性を表しているのか、という疑問と危機感

 

エモいことが好きだ。

きらきらした風景、人物、食べ物、文章、
かわいい子、かわいい小物、シンプルな余白への想像、
ぎゅっと抱きしめる瞬間、他人からの微かな好意への想像、
金曜日の夜の駅の哀愁、日曜夕方の物憂げな町並みが好き。

 

関連画像

 

いまの私は、ビジネスニーズに応じて、これ以上なく左脳的な労働をしている。
(「儲かる」に寄りすぎているわけではないが、左脳的な頭は使う)
多分きっと、自分にない部分を補おうとして、こういうことをしている。

 

それでも時々思ってしまうのは、
自分の本性を逸脱したところで生き続けているがゆえに
そういうエモいことへの感度が下がっているのではないか、ということ。

 

エモいことをよりエモく感じたり表現したりするためには、
そうじゃない世界も知って、その作法を身に着けておこう、と思っていたのに、
今では次第にその主従が逆転しているように感じる。

 

昔から、仕事からの現実逃避の際にたびたび考えてきたことだが、
ニコニコ、キラキラしながら人を愛おしむことでお金が貰えれば、
どんなに良いだろうか・・・と想像することがある。
(かつてのパズル教室とかは、それに該当するような気もする)

 

昨晩見た光景に、今ない自分を見た。

 

昨晩は箱根に弾丸旅行をしていたのだが、その帰り道、
親友が表参道で開いているライブを聞きに行った。

「goodBLUE」
2017/8/27 Sun.
@表参道NOSE ART GARAGE
18:30 OPEN 19:00 START

 

私の親友の歌う姿は、なにより私の心を晴れやかに、明るくするものだったが、
共演している演者さん(前から聞いて、好き!って思っていたわけだが)の曲を聞き、
色々と考えるきっかけを得た。

 

HOME - yuyukonbu0206 ページ!

YUYUKOさん、という方。

 

「きらきらしている」「透き通っている」という言葉が似合う、とても素敵な女性。
曲調は少し物憂げで、でも明るくて、
声のトーンは無邪気で天真爛漫で透き通っていて丁寧でそれでいて乱暴でもある。
aikoさんを全体的に可愛くしたようなイメージ・・・?)

 

私はこのアーティストに、女性に、心射抜かれてしまった。
こんなにいやらしくなく可愛らしい人がいるのか、と。

歌っているYUYUKOさんはとてもかわいかったし、キラキラしていたし、
息遣いまで飲み込んでしまいたいくらいに強く惹かれている自分がいた。

それと同時に、自分の中の「女の子」を探してしまった。
最近わたしはどこかで「女の子」をしているだろうか。

 

「女の子をする」とは何か

 

「女の子をする」とは何か。

  • 自分の中に内在的に存在する「可愛い」ものへの欲求

(例:「可愛い服を着たい」、「可愛いものに囲まれていたい」、「気の向くままに可愛いもの、きれいなもの、好きなものを探したい」、)

  • また、それらを通じた自分自身への「可愛さ」への欲求

(例:「可愛くありたい」、「キラキラしていたい」、「素敵なものを追求する自分でありたい」)
であると考える。

 

「女の子をできる」のは、ごく限られた場所。

 

上記のような欲望は、女子たるもの、女性のなかでも持っている人は少なくないと思う。


しかし、それを発露できる機会の有無については、また別の話であると考える。

「女の子をする」という行為は、「それを眼差す人の存在」によって初めて成立する
と言っても過言ではないのではなかろうか。

 

結局はその行為を
「見守ってほしい」、「天真爛漫さを受け入れてほしい」、「いざなわれてほしい」
という欲求が前提としてあり、それが満たされて初めて、
安心して「女の子をできる」のではないか。

 

「女の子である」ということは、自らが自らをラベリングする行為だけではなく、
他者から「女の子である」という眼差しによって成立するものだから。

 

女の子であることは、クローズドな行為なのか

 

ここで、女の子らしさを表出する方法を考えると、
まず最初に、大勢に見せるものではなく、安心感を前提とした
一部の人間への女の子らしさの吐露が想起される。

 

どちらかといえば、大事な大事な人にだけ見せるもの。
安心感のなかで、女子らしい甘ったるさを表出していいのは、
ごくごく限られた文脈だろう。
(だからこそ、「女の子でいさせてくれる」人がいる女子は、強いと思う。)

 

「女の子をして、生きていく」方法

 

でも、それだけではなく、外向きにもキラキラしている人もいる。

先に述べたYUYUKOさんは、まさにそれをぎゅっと濃縮還元したような人だった。
きらきらした笑顔が素敵で、まぶしかった。

大勢に向けて、どこか無防備に、どうしようもなく魅力的に自己を表現して、
それがどうしようもなく愛おしい。

 

女性が歌ったり踊ったり、何かを表現しているときに見える姿は可愛く美しい。
特にこのYUYUKOさんは、女の子だからこそ出来る「天真爛漫で愛おしい」を地で行っている人だった。

 

つまり、「女の子をする」ことは基本的には内向きな行為であるが、
生きることを構成する大事な要素としてそれを据えている人もいて、
そうすると外向きに自分の魅力を発信していたりして、
(=女の子なら「女の子をすること」)
そういう人はどうしようもなく魅力的に見える、ということなのだろう。

タイトルにもした「女の子をして、生きていく」、ということだが
自分の人生の構成要素のなかで、「女の子である」ことを大きくしていく、
それこそが「女の子をして、生きていく」ということなのではないだろうか。

 

私にはそれができるだろうか?

 

残念な話、私はそれ(=「広く、女の子であること」)向きではないような気もする。

リズム感覚はどこかおかしい、そのくせ聴覚過敏で音には神経質、
歌が特別上手なわけでもない(絶対音感はあるので音痴ではないが)。

 

そういうのでお金を稼ぐのは難しいだろうけど、
しいて言えば、結局私にあるのは文章なんだろうなと思った。

 

 「読書 女性 フリー素材 写真」の画像検索結果

 

もちろん、身体表現も豊かであればいいなって思うし、
歌だってちょっとくらいうまく歌えるようになりたいし、
バレエもゆくゆくは踊る方に復帰できればよいし、
テニスだって美しくする方法はあると信じているけど、

やっぱり私が「いちばん好き」で「いつでも、どこでも、きっとずっと出来」て、
一番自分とつながっているのは、やっぱり文章を書くことだなと思う。

 

私はコンサルだし、整理・構造化もするし、タスク厨だけど、
でも、やっぱり本音で言えばどこかで「女の子」でありたい。

大量の仕事や婚活沼に疲れきって愚痴を垂れるOLではなく、
勿論最終的な責任は取るぞという強さを持っていながらも、
それでも、どこか甘くて、甘やかされてて、気まぐれで、
天真爛漫で、明るくて、きらきらしている人でありたい。

それを男の前でできればそれはそれで幸せだけど、
そうでなくてもどこかでキラキラする場所があってほしい。 

お金を稼ぐ、というのは無理にせよ、
私には文章がある。(それしか出来ない、というのが近いわけだが・・・)
だからそれを頑張りたい。

そういうことをやって悶々としたりしながら、
ずっと生きていたい。

そう思った、週末でした。

 

参考URL

 

学生時代の親友

twitter.com


ひとめぼれした人

twitter.com

どちらもとても素敵な女性アーティストさんなので、
ライブとか音源とか是非聞きに行ってみてください。

 

それではあでぃおす。すっきりしたので、仕事します。

【恋愛小噺 その6】男女間の友情は成立するのか

明後日報告会からの納品という
かなりアレな状況にも関わらず、
考えたい欲求が高まってしまったので、
ブログを書こうと思いたちました。

 

今回のテーマは
「男女間の友情は成立するのか」。

 

なぜ時間もなく体力もない中このテーマ設定なのか。
自分を疑うことしか出来ないのですが、
「持続可能性」などという言葉をかなぐり捨ててるので、
ランナーズハイモードですがお付き合いくださいませ。

 

男女間の友情は成立するのか

「男女 友達 フリー素材 写真」の画像検索結果 

 

私は

「成立し得るが、ごく限られた文脈・状況において
不断の努力もしくは妥協、我慢が行われた結果爆誕するものである」

と思っている。

 

以下にその理由を記していこうと思う。

 

※ただし、これはあくまで男性からのニーズに関する女性筆者の想像であり、
本来的にどうかは是非ご意見を頂戴したいところ。

 

 

【前提】男性は何故わざわざ女性と関わるのか

 

いきなりで恐縮だが、私は反フェミニストだ。
暴論かも知れないが、
統計によれば男性の方が年収が女性の倍近くあるのは事実だし、
東大や京大、東工大は男だらけだ。

【最新版】年代別平均年収を発表! 男女差、企業規模別、業種別ランキング|「マイナビウーマン」


ポテンシャルはどうであれ、現代社会においては男性の方が
総合的に知力・体力など、社会を渡っていくための能力には
優れていると思っている、というのが前提。

 

で、もし実際に男性の方が能力高いかつ稼ぐとして、
また、もし人との交わりに何らか「実益」を求めるとして、
なんで男性はわざわざ女性と交わるんだろう?と思う。

 

(これもまた暴論なのは承知だが、)女性の方が非合理的だったり、
脳の構造や思考のプロセスが異なる生き物であるがゆえに
分からない部分がたくさんあるはずなのに。

(そもそも異なるものとの交わりは、
人に対して多かれ少なかれストレスを与えるもののはずなのに。)

 

それに対する答えをすごく乱暴に言うと、
「社会的実利以外の効用」なのだと思う。
例えば、ぬくもり(身体的なものでも、精神的なものでも)・庇護(被母性)・恋愛・性交のようなものだ。

 

 

やっぱり男女の友情って成立しにくそう

 

というよりは、到達しにくい、というのに近いと思う。

男性側から見たときに、女性との関係性のなかでメリットが大きいものは、
上記のものの方が想起しやすい。

だとすると、そうでない上記の例以外のものを求める関係性はありえるのだろうか。

それを手に入れられない(先にそれらが獲得できる可能性のない)
「異性との友情関係」というものは成立し難い(より崇高とでも言おうか)気がする。

 

※友情=扇情的な/性的な感情を抜きに、相手を想える関係性と定義する。
※更に補足。Wikipedia氏によると
「友情(ゆうじょう)は、共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと。友達同士の間に生まれる情愛のこと。」とのこと

 

 

男女間の友情の成立条件

 

成立するのは結構難しそうということは分かるが、
では、どういう条件下なら成立するのだろうか。

 

まず想起されるのは、当たり前の話だが、
「恋愛対象ではない」ということだ。
これを噛み砕いて考えると、以下のことが考えられる。

 

  • どちらか、もしくは双方に付き合っている人や好きな人が他におり、恋愛対象とみなせない状態
  • 恋愛というのを性的感情と捉えるのであれば、そういう感情が備わっていない人
  • 異性が性的対象にならない同士

などだろうか。

また、友情が成立しているということは、
双方に相手の心地よい距離感を守っている状態、とも言えそうだ。

(双方ならまだ良いが、どちらかのみが恋愛対象とみなせない状態の場合、より難しそうなわけだが・・・)

 

 

男女の関係性にはどんなものがあるんだろう

 

以上のように、男女の間の友情は、
「性的関係/恋愛関係を廃した双方向での思い合い」ということになる。

 

では、男女の関係性にはどのようなものがあるのだろうか。

  • 性的関係を伴う関係(セフレなど)
  • 恋愛感情を伴う関係(カップル)
    ---
  • 仕事上の契約関係に関連する関係(同僚・上司・部下など)
    ※特定の領域における目的を共有した関係(趣味仲間など)はこれに近い?
  • 婚姻上の契約関係に関連する関係(夫婦)
    ---
  • 親子
  • 兄弟(予測変換で「京大」と出てきたあたりに社会の闇を感じますね)

 

上記から外れた、一種の主観的合理性を逸脱したところにあるのが
「友情」という感じになる、ということなのだろうか。

 

(特に趣味に関しては、何が目的なのかが
人によって様々なので(出会い厨もいる)、一概には言えないわけだが・・・)

 

男女の友情があると言えるあなたに

 

上記をまとめると、異性間での関係性は
基本的に性的な扇情や引き寄せが基本で、
それ以外が仕事などの契約関係もしくは
友情というか紐帯(愛情)だという感じの心象風景。

(憧れの対象、などはそもそも関係性ではなく
一方通行なので、考えないものとする)

 

異性間において(仕事などの契約関係以外で)性的なもの以外を築けるのは
ほぼ限られた人との間でしか成立しないように見える。

 

「関係を深めない理性」(=相手が望む距離感を保つ)や、
見返りを求めずに、ただ、ただ、相手を(人間的に)好きでいられる胆力
などが揃っている場合においてのみ成り立ち得るのだと思う。

それが成立していると思っている人は、多分だいぶ幸せなので、
どうしてそれが成立しているのか、再考してみてもらえるといいと思う。

 

因みに、私は特に異性の友達は殆どいないわけだが、
やっぱりお互い好きな人や付き合っている人がいる
という場合においてじゃないと友情は成立しない気がしますね。

 

(次の記事を書くために押し出した記事なので、
つぎ!つぎ!つぎいこう!)

 

最後に

 

DJあおい先生のありがたいお言葉でしめます。

djaoi.blog.jp

『友情』というものは
その人の言動を拘束する鎖ではありません
お互いの自由を尊重できる関係が友情なのです

くうう・・・!!!

ではあでぃおす!!!おやすみ!!!

私にとっての夏休みと、この夏を機にやりたいこと。

 

夏休みなう。
というわけで、先日金曜日から、弊社は夏休みに突入した。

*** 

正直、夏休みの前は、いつも私は途方に暮れる。

普段の平日は目の前にある仕事をウンウン唸りながら何とかこなし、
休日はそれ以外の自分のしたいこと、やらなきゃいけないことを片付ける。

しかし夏休みになると突然長い休みを言い渡される。

 

人生においてやりたいことがあまりないかつ、
休みの日まで(まして大好き上司様のいない)
仕事場に行くのは何となくプライドが許さないかつ、
家にいるのが嫌いな自分にとって、試練のときが訪れる。

 

これまでの夏休み

 

これまでは正直、そのとき付き合っている殿方に
夏の時間を旅行するなどして良きように
埋めてもらっていた(気がする)。


(上記だと至極言い方に語弊があるようにも思うが、
実際のところは「好きな人との紐帯を深めるために夏の時間を利用していた」
と表現のほうが適切かもしれない)

 

今年の夏

 

しかし、この夏はそういうことが一切ない。

これまで「彼氏」と公言できる人が、(ましてこの時期に)
いないことはなかったから、余計に狼狽した。

※夏は誕生日でもあることから、
余計に意識して人といるようにしていた
・・・ということなのかもしれない。

 

いつもやんわり遊んでくれている人も、今年はどことなくつれない。
密かに萌えしだいている人も、日本ではないどこかに消えていった。
女友達はだいたい、収まるべきところに収まっている。

その所在なさたるや。

 

というわけで、
この夏はいよいよもって自分の中にあるものとちゃんと向き合い、
それを表に出す取り組みに着手するべきタイミングかと思っている。

 

20日までの一週間は、そういうことに少しずつ取り組んでいきたい。

 

上司様と約束したこと

 

毎年、親愛なる上司氏と夏の目標を(一応)立てる。

この夏は「具現化しよう!」ということになった。

※経緯としては、私が画面設計を始めとした
具現化フェーズを極度に苦手にしており、

・とっかかりが遅い
・なかなかPDCAが回らない
・仕事に対するやる気が減退する
・ますますやらない
・一朝一夕にどうにかしようとするがそういうものでもない

などの課題を持っていることが所以と考えられる。

 

これはつまり「思考した何かが吐き出される」
ということに対して、よりは、
「他人が見ても大丈夫なくらい、表に出せる何らかのブツ」
が出来てくることを期待されているのだろうと思う。

 

・・・ということなので、まず明日からは
「具現化とは何か」というところから考えていることを書き連ねようと思う。

直観的には、
「仕事でもいい、それ以外でもいい、
何か自分の中で腑に落ちるものを世に出せたら最高だ」
と思っているように思う。

しかし、この心理的障壁の大きさはなんだろう。

まずはその心の動きや心持ちが
どういうことを意味しているのか、考えてみることとする。

 

自分と約束したこと

 

以前にも書いていたし、顔本のお誕生日投稿にも記したことだが、
私は「自分自身が読書と距離があること」が大きなコンプレックスである。

本に没入したことは今までにない。
本に感動を覚えたこと?ましてない。
(ウェブ記事とかならあるわけだが)

 

長い論理構成や主張を咀嚼する力がない、という話以上に、
壮大な物語への想像力が欠如していたり、
ダイナミズムをもって進行する物語を俯瞰できない、
そもそも即座に利益になるものしか興味を持てない、

・・・など、自分の狭量さや浅学さなど、全てのコンプレックスの端緒に
「自らの読書体験の貧しさ」が影響していると考えている。

 

なので、この夏は、半ば無理矢理にでも
本と接触する機会を増やそうと思っている。

・1日1冊読破
※ただし漫画は含まない。短編集や小説はOK

以上のルールを運用していければと思っている。

 

終わりに

 

この夏が終わったとき、
「振り返れば、何かいいことや示唆が得られた」
という状態になっていればいいな、と思う。

毎年同様(どちらかと言えば私的な用事で)
忙しくすることは規定事項なのだけれど、
そのなかでも、少しずつ自らにとって心地よく、さらに言えば
自己を承認してあげられるような習慣づけを
少しずつやっていけるような、その端緒としたい。

 

それでは。あでぃおす!

~夜間の水上温泉より、愛をこめて~

f:id:cloalien:20170813005930j:plain

f:id:cloalien:20170813005938j:plain

f:id:cloalien:20170813005954j:plain

【備忘録2】ゆず好きな歌ランキング!愛が高じて50位~100位もつけてみた

皆さんこんにちは。

この前のランキング、どうしても漏れがあるだろうと思ったので、
今度は50位~100位について書こうと思います。

どれも捨てがたすぎる。
自分的ゆず大好きランキング、第2弾です。

blog.livedoor.jp

ご笑覧ください。

 

91位~100位

 

91位 シュミのハバ
92位 空模様
93位 恋の歌謡日
94位 ポケット
95位 いちご
96位 一っ端
97位 昨日の俺は俺にあらず
98位 ソウロウ
99位 ダスティンホフマン
100位 桜道2

 

81位~90位

 

81位 冷めたコーヒー
82位 カナブン
83位 青
84位 新しい朝
85位 みらい
86位 つぶやき
87位 ムラサキ色
88位 二つの言葉
89位 スーパーマン
90位 君は東京
 

71位~80位

 

71位 待ちぼうけ
72位 終わらない映画
73位 ぼんやり光の城
74位 四時五分
75位 心の音
76位 ねこじゃらし
77位 言えずのアイ・ライク・ユー
78位 ルルル
79位 手暗がりの下
80位 嗚呼、青春の日々

 

61位~70位

 

61位 てっぺん
62位 うまく言えない
63位 灰皿の上から
64位 使い捨て世代
65位 フラリ
66位 ウソっぱち
67位 人生芸無
68位 幸せの扉
69位 葉月の雨
70位 いつか
 

51位~60位

 

51位 みぞれ雪
52位 オーバー
53位 凸凹
54位 境界線
55位 未練歌
56位 眼差し
57位 グッドモーニング
58位 風吹く町
59位 おやすみ
60位 日だまりにて

 

というわけで、栄えある?51位は
大好きな「みぞれ雪」とさせていただきました。

 

今週もお疲れ様でした!
徹夜明けで頭がおかしくなっているくろえでした。

良き夏休みを。

【備忘録】ゆず好きな歌ランキング!ベスト50をつけてみた

皆さんこんにちは。

今日はこんなスレッドに感化されちまったので、
自分的ゆず大好きランキングを雑に付けました。

blog.livedoor.jp

ご笑覧ください。

 

50位~40位

 

 40位 贈る詩
41位 シュビドゥバー
42位 冷めたコーヒー
43位 空模様
44位 ふくろ
45位 今夜君を迎えに行くよ
46位 〜風まかせ〜
47位 日だまりにて
48位 表裏一体
49位 桜木町
50位 スミレ

 

39位~30位

 

30位 サヨナラバス
31位 日曜日の午後
32位 センチメンタル
33位 雨と泪
34位 夕暮れどき
35位 風に吹かれた
36位 連呼
37位 かまぼこ
38位 使い捨て世代
39位 朝もや

 

29位~20位

 

20位 Re:スタート
21位 時刻表
22位 はじめの一歩
23位 向日葵ガ咲ク時
24位 ダスキン
25位 風とともに
26位 旅立ちのナンバー
27位 威風堂々
28位 飛べない鳥
29位 方程式2

 

19位~10位

 

10位 少年
11位 かえるのご帰宅
12位 月影
13位 街灯
14位 直径5mm
15位 春三
16位 以上
17位 飛行機雲
18位 君宛てのメロディー
19位 過食な健康食

 

10位~5位

 

5位 月曜日の週末
6位 3カウント
7位 朝もやけ
8位シャララン
9位 アゲイン

 

5位~1位

 

1位 始発列車
2位 チョコレート
3位 くず星
4位 人間狂想曲
5位 濃

 

というわけで、1位は悩みに悩んだ上で
「始発列車」とさせていただきました。

今週も頑張ってまいりましょう。

【恋愛小噺その5】「好き」を直観的に自覚する尺度とは? ~あるコンサルタントのひとりごと

おはようございます。

昨晩はチームの大好き上司と飲みに行くも、
席が遠くて&場の盛り上がりから直接あまり話せず
悲しみを感じながら、つくづく場への精神的な適応性の低さを反省しました。

飲み会はやっぱり苦手なくろえです。

 

昨日少し書いていた記事の追記についてその後考えたので、
再度独立して掲載することにしました。

お題は、「恋愛として好き」であることを直観的に判別する方法についてです。

 

(いってい拗らせているときには、自分のことがわからなくなり、
「直観する」という言葉の意味すらもよくわからなくなって、
「直観」を感知する方法を言語化しようとしている、ということです。)

(でも、受動的に生きていてかつ言語化しないと物事を認識できない人間が
自分の主体的な心の動きを観測しようというのは、大事なことだと思う、
と自己正当化を図ってみたり。。。)

 

検索してみた

 

Google先生に「自分 好き 判別」と問いかけてみると、
「相手が自分を好きなのか判別する方法!」みたいな記事ばかり出てきて、
世間のニーズはそちら側なんだな、と思いつつ、
いくつかの当てはまりそうな記事を読んでわかったことを以下にまとめます。

 

人生のマインドシェアを獲得していること=好き?

 

どうやら

・相手に関する情報収集をする(相性占い、趣味、仕事についてなど)
・相手を目で追う(これはそうかもね)
・相手に会う前に高揚感を感じる(ドキドキ、わくわく、ある種の緊張、あるいは帰りたい感)
・相手と話すとき、普段どおりの性格で接することができない
・相手と一緒にいない時でも、もっと会いたいと思う
・相手のことを好きであるということを公言できない

といったことが「好き」のシグナルとして紹介されているようです。

 

自分の人生の時間のなかで一定のマインドシェアを獲得している
ということすなわち、「好き」と捉える、という話のようです。

ただ、上記は「好きである」という納得があっての行為でもあるように見えて、
ここで扱いたいのは、もっと原始的な身体的感覚(=「直観」)の話かなと。

自分がその人のことを好きだと思っているのか、
相手から来ているものに対して受動的に反応しているのか、
ということの境界は往々にして淡く、自覚しづらい。

だからこそ、自分のなかにある能動的(あるいは直観的)な「好き」を
知覚できる方法を探しているのです。

 

直観的な感覚のなかでも、重視すべきこと  

 

今のところ、自分の中の主体的な「好き」を観測するには、
「手をつなぎたいと思うかどうか」という尺度が
最も適切な判別方法である、と思っています。

 

例えば私の場合、
あまり人と距離を詰めるのが得意/好きではないので、
「手を繋ぎたいなあ」とある種直観的に思った人については、
「一定距離を詰めて良い、むしろ詰めたい」と認識していることになり、
あ、これ「好きだ」と思っているのかも、ということでこれは納得がいくなと。 

 

 

f:id:cloalien:20170728163941p:plain

 

※「いい匂いだなあ」と思うこと、とかも候補ではあったのですが、
これは関係性の有無にあまり寄与しないのであくまで次点としました。

(自分のその人に対する距離感や態度ではなく、
ただ相手を判断するだけの尺度なので)

(でも付き合う人はみんな好きな匂いだったな、と思うと

直観のうちの大事な要素なのかも。。。)

「直観」は中長期的な関係を支える最重要事項である

 

個人的な感覚としては、そういう身体的(直観的)な良さを
双方に感じている関係であればあるほど、
その後仲が深まったとして、何らかの危機を乗り越えられる気がします。

(まあでも顔とかもそれに近いのかもしれないね。)

(そして、双方にそう思い合っている状態は理想的だしとても大事。
それこそ相手側のそれは認識できないので難しいわけですが。)

中長期的な関係性の維持という側面でも、
最初の身体的な直観を大事にすべきなのだと思います。

 

f:id:cloalien:20170729091350p:plain

 


参照

xn--pssr7mv4sjkcu0f.jp 

koimemo.com

 

「2人きりになりたいか、どうか」というのも、
先の身体的接触の話にも近いのかもしれませんね。

 

---

 

さて、今日は久しぶりにお休みできそうなので(涙)、
図書館で積読消化をしてきます。乱読じゃ・・・

 

それではあでぃおす!皆様良き週末を!

【恋愛小噺その4】好きのカタチ。 ~あるコンサルタントのひとりごと

こんにちは。

最近エモい文章ばっかり書きたがる愛の権化(?)くろえです。

(エモいわけではなく、
自分から、今まで持っていたはずの「好き」の気持ちが
なくなっちゃうのが怖いだけかもしれない。
・・・というのはただの照れ隠しなのかもしれないですね、非常にわかりやすい)

 

さて、今回は「好き」という感情について
少し考えてみたので、書いてみます。

 

「恋愛 写真 フリー素材」の画像検索結果

 

好きの「カタチ」は人それぞれ。

 

好きの対象にもよるし、
好きの発信者にもよる。
好きという感情を持つ人の数だけ、
あるいはその対象物の数だけ、
好きの概念は形を変えうると思う。

 

世の中は「好き/嫌い」の二項対立・・・ではない。

 

好きと嫌いはわかりやすい二項対立だけど、
広く捉えると、世界を構成しているのは
「好き」と「嫌い」の二項対立ではなく、
「好き/嫌い(いわゆる関心。認識可能)」と「無関心(認識不可能)」
の二項対立のほうであることは明白だ。

 

「好き/嫌い」という認識を持つことはどういうことなのか?

 

そして「関心をもつこと」そのものは、
対人、モノ、場所と広く捉えられ、
自分を取り巻くおよそ全ての関係する事物が対象となりえる。

そのなかでも特に自分にとって重要なもの、
自己との向き合いを要するもの、が遡上にあがってくるのではないか。

 

こと人間に関して、好き嫌いの感情が湧くのは、ある種の必然。

 

上記のように、「自己との向き合いを要するもの」であり、
「一定交わる必然性がある」ものがその対象になりえるのだとすれば、
こと人間に対して好き・嫌いの感情を持つのはある種当然に見える。

 

「好き」はコントロール可能なのだろうか?

 

さて、そうなってくると次はその中身だ。

人間関係について考えるとき、「好き・嫌い」という感情は、
場の目的、個人の目的に合わせてコントロール可能なようにも見える。
本当だろうか。

言い換えれば、人との交わりには「思い込み」だけでOKなのか?
好きは思い込みで、意図的にコントロールできるのだろうか?

 

いまの自分が「嫌いなもの」については、きっと許容できない。

 

私は、そういうことではないようにも思う。
(最近特に思っている。)

認識下になかったものを認識し、それを好きになることはあり得る気もするが、

(自分との向き合いをふまえて)人として許容できない部分を持つ人を、
好きになることは難しい。そこは人工的に操作できるものではない。
どうしても首肯できない人は存在する。

そしてそれは自分の自分に対する認識の柔らかくなさを投影しているとも言える。

(これまで好きだった対象をどうしても首肯できなくなることもある。
これは、自分の変化に対応した結果の反応なのかもしれない。)

 

では、「許容できない人間」以外はどうなるのか?

 

許容できない=好きになれない人間が一定数存在するとして笑、
そうでない場合には、ある種「好きになろう」として(あるいはせず)、
好きになっている側面はあるのかもしれない。

であれば、交わる人は「みんな好き」ということになるわけであり、
実際のところ、そんな気もする。

 

好きであることと、関係性を築くことは少し違う。

 

首肯できない他人でないのであれば
濃淡はあれ好きという感情を持てるとわかってきたので、
次に、好きという感情がいかに人間関係に反映されるのかについて考えたい。

 

まず、前提として、異なる二者が存在する場合、
それぞれに対して抱く「好き」のかたちと、
相手が自分に対して抱く感情が掛け合わさったところに、
最適な交わり(冒していい領域と精神的な公開範囲)が決まる。

例えば「目的×関係性」といったように。

 

そしてそれは双方に主観的合理性を持っている(はず)。

 

上記の例として、ごく一般的な認識としての
「仕事上の上司とは寝ないよね」みたいなものは、
双方の双方に対する認識の結果だ。

仕事をする上で大事な存在である上司、という認識と、
同じく仕事の上で必要な部下、という認識がクロスした先には
よりよい仕事をする、ということしかない。はず。

 

まあ、ごくまれに、そういう関係のなかで一線を越える人も存在するが、
それだって双方の主観的合理性はあるのだろう。

感情が合致したところにそれがあったからであり、
世間の一般常識とは何ら関係なく
主体的には合理的な結論だと考えられる。

(例えば双方の制止する感情が弱かった、もしくは「好き」が強すぎたなど)

※筆者のコメントは差し控えますがあえて言えば好きにすればって感じ。

 

好きな人と心地よい関係を持てているだろうか?と自問し続けること。

 

上記のようなトピックは極端な話になってしまうが、
至極アタリマエのことを言っているようにも思う。

双方が主体的合理性を担保しながら、
好きな人と何らかの交わりを持てるように、
そしてそれが適切な距離感や領域、公開範囲であるように
そしてそれが相手にとっても心地よい関係性であるように、
常に自問し、自戒し続ける必要があり、
それを意識することによって、好きな人と心地よい人間関係が
構築できるようになるのではないかと考えている。

 

まあ要するに、お互い好きな方が幸せじゃんね!って話ですね。
(随分乱暴なシメ。)

 ---

今週も一週間お疲れ様でした!

調査終わって駄文書きたい気持ちが高じてしまった成れの果てでした。
あでぃおす。