コスプレでコンサルやってましたけど

ポエマー系コンサルから、エモ系マーケターへの転身。社会人5年目に突入したくろえの思考実験あれこれ。

【事後報告】コスプレでコンサル、辞めました。

お久しぶりです。

すっかりご無沙汰しております、くろえです。

 

しなきゃしなきゃと思っていたのですが、ここでご報告を。

コンサル辞めました

4年間お世話になっていたコンサルティングファームを退職しました。

理由はいろいろあるけど、

  • 事業戦略ではなく組織戦略側の人になりたくなった
  • UX(User Experience)からEX(Employee Experience)の人になりたくなった
  • コンサルではなく事業会社の人になりたくなった
  • 「従業員が幸せに働くとはどういうことか」についてつきつめたいと思った
  • (いわゆる「激務」と「終わりなき労働」に疲れた・・・えふんえふん)

などです。

つまり、現在は「コスプレでコンサル」してません。

名称に偽りあり、ですね・・・

 

ブログタイトルを変更しました←NEW!

というわけなので、名称に偽りがあるのはいかがなものかということで
ブログの名前をね、思い切って変更しました。

 

(旧)「コスプレでコンサルやってますけど」

(新)「コスプレでコンサルやってましたけど」

 

うそじゃないからいいかな、と・・・。

(思考するのが面倒くさかっただけじゃないかというツッコミはNO)

 

社食やさんのマーケターになりました←NEW!

そういうわけで転職したのですが、こちらの会社になります。

company.okan.jp

 

ぷち社食「オフィスおかん」という
食の福利厚生サービス(全国対応!と謎の宣伝)
を提供しているんですが、

これを通じて弊社のミッションである
「働く人のライフスタイルを豊かにする」というのを
少しずつ実現していけると良いなと思いまして。

転職しました。

 

というわけで、次に転職してみて感じた変化について書いてみようと思います。

(やっと報告できた〜!!!あでゅー!!!)

 

【徒然なるままに、2月。】「自ら変化するべく行動する」方法について、冷静に考えてみた。

※徒然と記録していたものの、放出していなかったものを、短いながらも放出します、のシリーズ3作目。誰かの何らか届くと良いなと願いを込めて。

 

「自らを変化させるためには、変化を起こさないといけない」

私は年初からの数ヶ月、大前研一氏の言う
「自分を変えるために変化させるべきこと」
のネタ(?)に乗っかり、
とにかくやみくもにいろんなものを変えるべく、
自らの意思決定に向けて動こうとしてきました。

 

でも、ここまでいろいろなことを考えてきたり、
人と意見を交わしたりする中で、

「他人のほうがよっぽど自分/その手のことをよく分かっている」
というある種アタリマエのことを痛感しています。

 

それと同時に、こと私に関して言うと、
「考えれば考えるほど、踏み出せなくなる」
「考えすぎてわからなくなると、決断を誤る」
ということもまた、実感したところです。

 

・・・とはいえ、自分の行動や自分の意思決定については
自分しか責任は取れない、というのもまた理としてあり。

「じゃあどうすれば自立を諦めず、より良い決定ができるのか?」
ということを考えてみました。

 

「自ら変化に向けて行動する」プロセスを冷静に考えた

 

で。

 

基本的には以下のようにするといいかなと、現段階では思っています。

 

①まずは以下の人の意見を聞く
・自分をよく知る数名の友人
・困っている領域に関して詳しい知人(あるいはその道のプロ)

上記対象者から情報収集をし、フラットに賛成/反対を観測

③基本的には多数決に基づき意思の方向性を決め、自分の中で納得行く意味付けを行う

④最終的なストーリーを上記の人たちに話し、感触を確かめる

⑤その局面における(自分にとっての)キーパーソンの感触を確かめる

⑥(できればタイムリミットを決めて)実行

 

上記の思考は主にキャリア面についての話だったんだけど、
これ基本的には人生のあらゆる側面で応用が出来るような気がしています。


※わたしの場合、自分自身の熟考の末の判断に不安定感があるので、
他人の言をとっかかりにして進捗させていこうとしているのだけど、
ここの濃淡は人それぞれだなと思いますが

殆どの場合、闇雲に変化を起こすのが良いわけではない

 

と、ここまで、一定大前研一理論(?)を
ある種所与として語ってきたけど、
いくつか気をつけるべきことがあると思う。

まず、何でも変えればいいというわけではない、ということだ。
(言ってしまえば身も蓋もないが・・・)

 

例えばキャリアの話で言えば、
(なんかよくわからない強迫観念を多分に含んではいたと思うけど、)
新卒で就職してから3年以上同じ場所で勤めたこと自体は、
変化が良いことであるという理以上のものをもたらしてくれたと思っているし、
上記だけでなく、例えば男女交際であったとしても、
じゃあ闇雲に交際相手を変化させると良いのかと言うとそんなことはない。
(かつ、この領域において意図的な変化を実践している人は見たことがない。。。笑)

 

わたしは、変化については以下のような場合においては
真面目に検討・行動するに値すると思っている。

・自分の人生において、課題意識があること
・自分の理想状態に近づくために必要なこと

(そのほうが面白い、など、いわゆるポジティブかつ楽観的な
変化を起こすたぐいの人間もいるようだが、私は基本的に
「課題解決ベース」の人間なので、その気持ちは正直あまりわからない)

 

周囲や世界を信用する、ということ


これが何より、すごく大事なことだと思っています。

 

ここまで四半世紀くらい生きてきて、
特に親元を離れて社会人になってから、だんだん、少しずつ、
分かってきたことなのだけど。

 

自分だけで考えきれるほど世の中は甘くないし、
かといって、
他人を頼っちゃいけないほど世界はいじわるでもない、
ということ。

 

世界はたぶん、想像以上に優しい。
そして、前に踏み出そうとする人に対しては
(いくらでもうがった見方は出来るけど)
世界は味方してくれる、と思う。

 

これは一種の信奉、なのかもしれないけど。 

 

 

おわりに

 

変化のしっぽは逃さないで、
でも見切り発車にならないようにする、
そんな超絶難しい人生の局面においても、
肩の力を抜いて、でも柔軟に、生きていきたいです。

いや、そうしよう。少しずつでも。

 

関連画像画像出典:https://www.pakutaso.com/20160703195post-8402.html

【徒然なるままに、2月。】自分の中の「鉱脈」を見つける、ということ。

※徒然と記録していたものの、放出していなかったものを、短いながらも放出します。誰かの何らか届くと良いなと願いを込めて。

 

自分の中の「鉱脈」を見つける

例えば、カラオケに行ったあと、お風呂の中で歌が溢れ出てくること。
例えば、お笑いを見たあと、些細なことでも笑みが溢れること。
例えば、読書をしたあと、文章が湧き出してくること。

 

こういう感覚を持つことはないだろうか。
私は、(上記のような行為が日常的でないからかもしれないが、)とてもある。


人というのは、周囲の環境や刺激に対する反応をすることで
日々を生きているのであるから、

ダイレクトな刺激を受けると、その方向につながる「鉱脈」のようなものが
自分の中を血流みたいに流れ出す感覚を覚えることがある。

 

だからこそ、日々のなかで「自分の中に新たな鉱脈を通す」
ということを意識して生きるのは大事なんだと思う。

 

その契機は別になんだって構わないのだけど、
できれば意図的に(向かいたい方向性に寄与するような、
あるいは好きと言えるような類の)そういう刺激を与えることが、
前向きに生きていくには大事なのではないか。

 

因みに、それをある人は「自分のご機嫌をつくる」と表現していた。
私はそういう言葉を、とても素敵だなと思った。

【徒然なるままに、2月。】美しいものを見る、ということの重要性について。

※徒然と記録していたものの、放出していなかったものを、短いながらも放出します。誰かの何らか届くと良いなと願いを込めて。

 

美しいものを目にすること

日々を漫然と生きすぎてしまうと、自分の延長線上でしか生きられない。

もちろん地を這うようなつらみや、糸を丁寧に紡ぐような毎日も大事だけど、
それと両輪で大事なのは、「美しいもの」「理想の延長線上にあるもの」
に折に触れて出会うことなのかもしれない、と思う。

 

きれいな女優さん、驚異的な活躍をするスポーツ選手、
息を飲むほど美しい景色、ぞくっとするような言葉、
理想とする家や暮らし、など・・・

ぴっと背筋が伸びて、ああ、こういう世界もあるのか、
人生もきっと捨てたもんじゃないし、ここに近づいているかしら、
と意識をぐっと遠くに持っていくことが出来る。

テレビなんかはその際たるだ。
映画だって小説だって、その役割を担えるだろう。

特に、限りなく現実主義者である自分にとっては、
そういう存在を意識的に摂取することが大事かもしれない。

 

・・・なんていうことを、
引越し先でテレビを付けたときに
ふと、思った。

 

以上、羽生結弦石田ゆり子のお話、でした。

【映画感想】「勝手にふるえてろ」を観て ~確かに松岡茉優は最高だ!だが、それだけではない!(ネタバレあり)

こんにちは。くろえです。


ところで新年早々、Twitterで「松岡茉優ちゃんがやばい」なるつぶやきを見まして・・・

綿矢りさ黄金世代ドンピシャのわたくし、参戦してまいりました! 

勝手にふるえてろ」@シネマカリテ!

www.youtube.com

 

評価

総合:★★★★☆ 4.5点/5.0点(2018年1位)
共感:★★★★★★★★★★ 10.0点/5.0点(!)
圧倒:★★☆☆☆ 2.0点/5.0点
ほっこり:★★★☆☆ 3.0点/5.0点

 

おすすめシチュエーション

  • 恋愛話できる友人と
  • これから恋愛したい異性と
  • 最近付き合い始めた恋人と
  • 最近マンネリ気味の恋人と

 

というわけで、以下、感想と考察を記載します。

 

映画概要

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綿矢りさの小説を原作としたラブコメ

雰囲気はポップでシュールでナチュラルで、
ミュージカル調なシーンあり、ほっこりするシーンあり。
こじらせててシリアスなネタも、随所に笑いを織り込んでいて飽きさせない。

ラストのシーンのこじらせ異常っぷりと、それを包み込む二の愛が、
もう本当に、やばいとしか言いようが無い!(語彙力が極端に不足していて悲しい)

(私は最後泣いた。)

 

登場人物 ~とにかくヨシカちゃんが最高!

下馬評通りといえばそうだけど、とにかく松岡茉優ちゃんが・・・やばい。
彼女だから成立した映画、と言っても過言ではない。

アンモナイトタモリ倶楽部が好き。過去に生き、現実から逃げている」
という主人公のキャラクターを、これでもかというほどに上手に表現している。

可愛すぎて息が苦しい。声も、仕草も、狂おしく可愛い。
こういうのを「演技がうまい」というんだろうな。

(細かいところで言うと、ふぁっくふぁっくふぁっく・・・!が可愛すぎて、
抱きしめたすぎる。)

 

そして、渡辺大知が全然好みじゃないけど、じわじわくる。
最初から最後まで、ずっとダサくて、空回りしてて、怪しくて、ちょっと変で、
でも器が大きくて、何よりヨシカのことが大好き。

(彼の気持ちはあまり理解できないけど、こういう人類が
世の中にいたらいいなあ・・・と密かに妄想したのも事実。)

イチもイチで絶妙に拗らせていて、これはこれでいけすかなくてよろしい。

 

ここからは中身の話。

 

不器用で拗らせているけどまっすぐな主人公の愛らしさ

自分への期待値が高いし、
周りへの期待値も高い。
人は好きだ。他者と交わりたい。
でも、人から傷つけられるのは怖いので、
自分で自分を判断し、値踏みして、
外の世界に出ていこうとしない。
一方で、自分語りや持論の展開は超得意。

 特に妄想癖を発揮しまくっているシーンからは、
「いやいやwwwそこまで不器用か!?」
と思ってしまう程度には、不器用だけど、

人は初めてのことに対してここまでピュアで繊細で猪突猛進で、
他人との交わり、主体者として世界に降り立ったときに
こんなに醜くも美しくなるんだ、と思い、
ただただ心が震えた。。。

 

過去の自分との類似性

それと同時に、まさに自分だ・・・と感じた。

自己肯定感が低いのに自尊心は高いところが、
学生時代~社会人初期の自分に重なることこの上なし。

高校時代、上様(世界史教師♀)が好きだったのは
もはや「そういうキャラ」だったのと同じように、
天然王子は「自分が恋している」ことのアイコンであったのだろうなと。

他人を自分のアイデンティティの一部としていわば「利用する」やりくちは、
すごく理解できるし、人が生きていくために必要な要素だなと思いつつ、
ただただ心が痛かった。
(視野見、できるようになるよね・・・わかる・・・)

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉を強く感じた。

 

「イチを選ぶか、二を選ぶか」という問い

「追う恋愛、追われる恋愛なら、どちらが幸せ?」
という問いは、いわば誰もが対峙する問題であるように思う。
また、過去に似た経験をしたことがある人は少なくないだろう。

こんなことで(と言ったら失礼だが)、人の心はズキズキと痛むし、
それだけ人間関係というのはシンプルだけど難しい。

現実と、生身の人間と、否定されるかもしれない恐怖と
自由奔放に振る舞いたい欲求の間で揺れ動きながら、
それでも人と交わることは、
きっとほんとうに大変なことだから。

 

「名前のないわたし」について

そんな拗らせ系のヨシカに転機が訪れる出来事、それは、
片思いのイチと意気投合してまさに天にも登らんとしている時に発覚した、
「イチがわたしの名前を覚えていない」という事実。

ここに彼女の「イチ」への期待値と、
世界と交わらないでい続けたことの罰、のようなものが
一気に表出している。

そして、彼女の構築していた空想世界が瓦解していく。ああ・・・

(このシーンで、この映画のテーマは「自己との対話」であり、
その中に空想と現実世界を入り組ませるという構図だったことに気付く。)

 

私はいま「名前のない自分」であることに、
さほど抵抗はない程度には他人への期待値が落ちていると感じるけど、
そのことにショックを受ける彼女を見て、
「だから人は世界と交わりたいと思うんだなあ・・・」
としみじみ思った。

 

今後の自分への期待

私は今年の目標を「傍観者から実践者」への移行である、というのは
以前のブログにも記載した通り。

で、上記にも記した通りだが、この映画は、
「現実逃避に近い恋愛(というか妄想)の世界ではなく、
いかに自分の世界(人生)を主体的に生きるべきか」
というテーマだったのだと思う。

 

名前をちゃんと呼び、人と話し、誰かを好きになりたくなる。
不器用でも、世界と交わろうとする。

(もちろん、最後まで不器用なので、それは「交流」ではなく、
自己との対話であるのでは!?という違和感は残り続けるわけだけど・・・)

 これは私の今年の目標でもある「傍観者から実践者へ」というものにもぴったりで、
先人を見た後輩のような気持ちになった。

 

自分の殻にこもり、他人を信じず、自分への期待値が異常に高く、
世界との交わりを避けてきた主人公の姿は、自分のこれまでの姿と重なり、
そして最終的な帰結は、私の思い描く未来でもあるわけで、

私もこの世界でいきたいって思ったし、そうできるような選択を(キャリア・恋愛・人間関係、生きるすべてにおいて)しよう、
と前向な気持ちになれた作品だった。

 

というわけで、この映画、おすすめです!
(特に女子校・男子校とかで拗らせてしまった経験のある人は感じる所も多い作品です)

furuetero-movie.com

  

おまけ ~恋って何?

「恋」が分からない。

仕事柄か、性質ゆえか、
常に(間柄のラベリングは問わず)異性と何らかの関係は持っている方だし、
仲の良い間柄であれば、
「愛おしいなあ」「大事にしたいなあ」「交わり続けたいなあ」
と思うことはしばしば発生するといえば、する。

ただ、友人からは
「(異性間交流を)目的的で殺伐としたものと捉えすぎなのでは?」
「そうやってなんでも意味づけしたり言葉にしようとすると、
それは向き合いきれないし表しきれないし、結局辛いのでは?」
みたいなことも言われた。

それは、「大いなる安心感」を得たことがないからかもしれないし、
「誰かの期待に応え続けたい(そうしないと不安)」という
ある種の長女精神ゆえなのかもしれない。

でもだからこそ、この映画の「二」のような
「すごく辛くて面倒くさくて、よくわからないけど、好き!どこまででも走っていけちゃう!」
みたいなまっすぐな気持ちに憧れる。
だからこの映画が好きだったのかも。

岡崎京子でも読み直すか・・・
(だからこの辺が拗らせの所以なんだよな)

 

f:id:cloalien:20180109064759j:plain映画館にアンモナイトいた。@シネマカリテ

 

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さて!今日から仕事始めです。
(12/27に仕事を納めて、約2週間ぶりの出社!)

2018年も頑張っていきましょう~!

【毎年恒例】2018年目標 ~自分を活かし、物事を良くする「実践者」になる

皆様こんばんは、くろえです。
(もうそろそろ胃もたれですね、分かります。)

毎年恒例、スキー旅行からの父方の実家に帰省しています。

ちょっと悲しいことがあって執筆意欲が湧いているので、
本日(?)3本めの記事をアップすることにします。

というわけで、もはや定例ですが、2018年をどうするかについて。

振り返りは未来の自分をよりよくしていくための処方箋のようなイメージ。
目標は落ち着いて未来を見据えるため、年中を落ち着いて生きるため、
変化を起こす指標とするため、とりあえず方向性だけでも。

 

「朝日 素材」の画像検索結果

 

2018年の目標

2017年に「自分にとっての心地よさ」を定義できたので、
2018年は自分が心地よい環境や自分をを活かせるような環境を作り、
「傍観者」から「実践者」になること、を目標とすることにした。

 

実現に向けて取り組むべきこと

以下に取り組んでいこうと思う。

 

  • 思いを形にする。

私の場合、一番大事だと思っているのは、わかりやすく文章にすること。
アウトプットをすることによって思考は進捗するし、その手段は、
図でも絵でもなく、まずは文章だなと思っている。

現段階では、情熱で大量の文章を書くことはできるが、
それをいかにわかりやすく伝えるのか、というところへの思慮が圧倒的に不足している。

きれいな文章に触れ、とにかく書き、誰かしらの心をゆり動かす
(つかむ?はっとさせる?納得いく?なんでもいいけど)ような文章を紡ぎたい。

(そして、1人で文章を揉むのが苦手なので、これ手伝ってくれる人見つけたい・・・)

 

  • ブログを更新する。

上記を実現するための手段は、ブログである、と認識している。
(仕事でのレポートなどももちろんあるけれど)

継続は力なり、と言いますが、これはずっと続けていきたい。

これについては以下のような役割を意識してやっていこうと思っている。

<対他人>
・関心を持ってくれた人へ自己紹介する場所
・共鳴の発生する場所
・自分の研究発表的な場所
<対自分>
・人生を置いておく場所
・立ち返り、自分自身を愛することのできる場所

たくさん書いて、できれば色んな人からフィードバックもらいたいです。

その実験場として、ここを捉えています。よろしくご贔屓に・・・ 

 

  • 仲間を作る。

これは前の記事でも触れたかもしれないが、
自分が共感できる、尊敬できる、仲間だと思える人を増やしていくことは、
自分の生きる意味そのものでもある。

相互にけなしあう、けん制しあう、ディスりあう関係性ではなく、
尊重しあい、単なる甘やかしではない信頼・安心を持ち、それにより自分を信じられるような、
そんな仲間と共に、人生を推進させていく、そして成果を出せるような1年にする。

 

  • 自分を生かせるような環境を整える。

「開放的なストイックを実現できる環境を作る」、ということに尽きるかなと思う。

それが現在のところ実現できていないので、何かを変える必要があり、
このことに取り組むのは、自分の人生にとっても優先度が高いと認識している。

 

人間が変わる方法は3つしかない。1つ目は時間配分を変えること。2つ目は住む場所を変えること。3つ目は付き合う人を変えること。どれかひとつだけ選ぶとしたら、時間配分を変えることが最も効果的。 

 

これは大前研一が言ったことだけど、まさにその通りに思う。

すなわち、

①時間配分=どんな仕事をするか
②住む場所=どこに引っ越し、どんな生活を組み立てるか
③付き合う人=職場、恋人、友人などの関係性

をどのようにチューニングするか、ということかなと思っている。

以下で少しだけ詳しく見ていく。

 

①時間配分

私は前回記事にも述べた通り、自分の関心領域においては異常な執着と粘り強さを発揮できるということが明らかになっている。
これまでの仕事における反省を生かし、自分をより生かせる方法を考えると、自分の強い部分をいかに仕事に織り交ぜられるか、ということに尽きるように思う。

まず、使命感を持って、自分を生かしたい、と思えるものを仕事にする。全部ではなくてもいい、少しずつ。
それから、自分一人で抱え込まないようにすることで極力物事が停滞する時間を減らす。
※ここについては去年までは「上司の時間を使う」ことが課題として設定されていたものの、これは課題とはみなさない、という意思決定。

 

②住む場所

今年の2月で現在の家の契約が切れる。
4年間住んだ大岡山という地はとても居心地が良かった。

しかし、そろそろ環境を変える時期だ。妹も社会人になる。
というわけで、引っ越しを機に、自分の心地よさを定義し、それを具現化する、ということをやっていきたい。

私の周りの人はご存じだと思うが、私はとにかく家にいることが好きではない。
外で疲弊し、休むために外に出る。これは非常に非効率だと認識している。
原因は、住環境が(自分にとっては)あまり良いものではなかったことに起因する。

だから、次の引っ越しを通じて、
自分の身の回りに置くものにもこだわりを持ちたいし、
自分にとっての心地の良い場所・帰る場所を持つことで、
流動性のある/思考する/変化する自分だけではない、
そこに存在する自分そのものを信じられるようになりたい。

 

①に関連することではあるが、これを機に暮らしの習慣も少しずつ変えていきたいとも思う。以下のような感じ。

・家でご飯を作る(それが楽しくなるリビングを作る)
・家で勉強する(それがやりやすい自分の部屋を作る)

 今より楽に生きられる土壌づくりをすることが、自分のやるべきことだと考えている。
(この辺は、我が心の友であるさとじゅり氏に多大な影響を受けている)

 

③付き合う人

今までは人間観察、という意味付けのもと、非常に様々な人間と会ってきたし、
そうすることで自分をすり減らしてきたと共に、喜びも得てきた。

ただ、そろそろ(自分が気付いているもの、そうでないものを含め、)
ストレスフルな時間を減らすほうがいいと感じており、
そうすることで本当に取り組みたいことにまっすぐ向き合えると考える。

対話が徒労になるより、対話が希望や前進につながっている方が、ずっと生産的だからだ。

例えば初対面×事前情報のない面会を減らす、など。これも一種の意思決定。
どうしてもうまの合わない家族の構成員との面会も、極力減らしていく決意をした。

 

ただ、強調しておきたいのは、
自分に感心・共感を持ってくれた人(特に思想の面で)や、
自分と同じような課題意識を持って人生を生きている人には、
どんなにタフでも、きっちり向き合いたい。
そのための人生だ、ということである。 

 

以上が、2018年の所信表明である。

2018年の終わりには、
「失うものもたくさんあったけど、ちゃんと大事な仲間がいるよ」
と、年初の私に言ってあげられる自分でありたい。

 

特に仕事領域における目標

どんな状態になるか
  • 自分が好きな領域で、ずっと考えても苦でない領域のお仕事をする
  • 仲間を増やすことで、自分の思考をもっともっと促進させる
  • 勉強することも、仕事することも、全部がワクワクする状態を作る
  • 自らの仕事をライスワークだけではなくライフワークにする
どんな仕事をするか
  • ミクロ(従業員の幸福度)とマクロ(企業のミッション・方向性)をつなげる助けになるような方法を考える
    =会社の方向性に自分のやっていたことをアラインさせる仕事?
    (どちらへのアプローチなのかは要検討)
  • 事業戦略を見据えた組織戦略(これをどうやってうまいことつくるか、という仕組みの部分)に思いを馳せる機会を増やす
最終的に自らにどんな変化を起こすか
  • 上記の環境を作ることで、コミットメントを上げる
  • 淡々とした人から「想い」ドリブンの人に回帰する
  • それらによって「傍観者」から「実践者」になる

 

最後に

いまも、いつも、支えてくれる、私の周りにいる皆様、
私もいっぱい返せるように頑張りたいので、
是非とも!今年もよろしくお願いします!

新年の挨拶のイラスト(女性)

【毎年恒例】2017年振り返り ~多動の先にあった「知」

こんばんは。

中国研修の行き帰りの飛行機の中で、自分の1年間の思考を垂れ流しきった私です。
(これの前に上げてたブログたちはそれです)

これでやっと2017年の振り返りができるぜ・・・!

 

総括 ~2017年はどんな1年だったか

私のこの1年を一文字で表すとすれば、「知」になるかなと思います。

3か月単位くらいで来る激動と自己内省の繰り返しにより、
自分を知り、自分に対する期待値が定まったように思っています。 

f:id:cloalien:20180102005836p:plain

 

起こったこと振り返り

この1年を、トピック別にかんたんに振り返ってみます。

 

  • 恋愛への危機感からの婚活→挫折

ゆるやかな心の平安と漠然とした不安のなかで、
「いやこれこのままだとまじで結婚できないわ・・・」という危機感と、
正直誰でもいいんじゃないかという楽観により、突発的な思いつきから
婚活(結婚相談所への登録→お見合い無双)を開始。

「わたしはそもそも自己開示のハードルが高く、かんたんには仲良くならない」
+「近しいコミュニティの人としか深く交わるインセンティブを感じない」
=「(現段階では)婚活による結婚(結婚を目的とした親睦)というシナリオは無理」
という結論に至るなど。

(よくよく考えたら歴代彼氏氏も近しいコミュニティの人しかいないし、
どうして気付かなかった感しかないわけだけど!)

まあかなり高い買い物だったけど、良い学びだったってことで(言い訳)。

 

で、ここから先は仕事関連。
どうしてもマインドシェアがそっち中心。

 

  • 営業~デリバリ一連の担当経験

営業~提案~見積もり交渉~納品まで、自分の提案した案件をデリバリした。

自分の納得いく形でプロジェクト設計をして、
押し付けではなく納得感のあるプロジェクト設計ができたのは、
自分にとってはいい経験だったなと。
お客様からの期待値は高かったものの、それだけ頑張ろうと思えたのは良かった。

 

自分のケイパビリティから外れた(いわゆる苦手なタイプの)案件も。
精緻な作業が苦手な私がひたすら進捗管理と間違え探しをするPJTだったわけだが、
PJT本筋とは他のものに目的を置換して
(今回の場合は後輩との協業やPJT設計の訓練)なんとか完遂。

(苦手な領域をいかに乗り越えようか頭を使うのはよい経験だった一方で、
やっぱりバリューは出にくいので、今後は極力自分に回ってこないようにしようと願ってはいる。)

 

  • いくら楽しくても限界を超えると死ぬ、という学習

9月の繁忙期に大量の案件依頼。

自分の興味範囲の領域だったこともあり、自分を過信してPJTを詰め込んだところ、
耳とか胃とかが変なことに。
耳が聞こえない、とか、原因不明の吐き気とか、正直、怖かった・・・。

「いくら心根は元気でも体はおかしくなることがある」
という自分の身体的限界の存在を知った。

そして、無理し過ぎは周りにも迷惑をかける。

 

  • ひとりぼっちはうまくいかない、という経験

そして、身体のおかしさを少し引きずっての、これ。

(社外の)上司との信頼関係構築および情報連携に失敗し、
精神的不安定状態となり、鬱症状、過食嘔吐などの症状を発症。

私にとって「人とのつながりや信頼関係」は絶対的な仕事の地盤であり、
他の目的などに意味づけすることはできなかったので、
近くにいる他の人(上司や先輩など)に助けを求めて、なんとか完遂した。
(あれは今年一番辛かったかもしれない。。。)

自分は1人で仕事をするのが苦手であるということと、
それ以上に一緒に仕事をするうえでは心理的安全が担保されることが
何より重要であることを知った。

上記2つについてはブログに言及があったので、こちらもどうぞ 

 

  • 「稼ぐ」ということへの関わり方

「ライスワーク、ライクワーク、ライフワーク」の話とか、
友人が突如としてネットワークビジネスにハマってしまった話とか、
ビットコインで大儲けした周囲の人の話とかを通じて、

自分の労働を何と定義し、何を捧げることによって
お金を得るのか、ということを考える機会が多かった。

2個前のブログで「お金の使い方に思い切りがない」話をしたが、
お金は自分の心地よい範囲でいいや、という諦めもついたので、
ガンガン稼いでいくというよりは、自分の思考が豊かにしながら
いかにそれに見合ったと思えるようなお金をいただくかを考えていく必要があるように思う。
(これは2018年への宿題でもある)

 

  • 新しい世界が来るという危機感と期待

現代の若者の行動特性をデジタルデバイスの利用から探る案件をデリバリしたこと、
先週の中国研修in上海で中国の社会が劇的に変革していることを思い知ったこと、
などを通じて、
世界はものすごい勢いで変革していて、日本は我々の意識と関係なく、それに飲み込まれるんだなあ
としみじみ実感しました。頭を鈍器で殴られたような衝撃。

日本人も中国人も、享受している恩恵は同じでも、
向かっている社会の方向性が違う気がして、くらくらするような思いがしたと同時に、
そんな日本で生きていく私/私たちが、
どのような視座・立場・覚悟・目的意識で日本や会社と向き合うかについては、
本当にちゃんと考えないといけないなあ、と思った。
(これはもうちょっと整理してブログ書きます)

 

何が分かったか

4年間社会人として生きてきたなかで、

  • 自分がどんなこと/状態を好むか
  • 自分にどんな行動特性があるか
  • 自分がどんなことができる/できないか
  • 自分はどうしていくべきか
  • 自分は何のために生きているのか

ということが、ようやく、徐々に輪郭を帯びて理解できてきたような気がしています。(もちろん暫定解だけど)

 

上記の内容を少しだけ書いてみます。

 

  • 自分がどんなこと/状態を好むか

思考が捗る状態。
自分で考え、それを(文章かオーラルコミュニケーションで)表にだし、
相手からのフィードバックを取り込みながらさらに前に進めていく状態。

※ただし、捗る思考の領域に関しては割と限定的なのは、
ブログのネタに偏りがあるところを見ても明確。 

 

  • 自分にどんな行動特性があるか

気になった仮説があったら、妥当性を計測する前に、
まずは大量にインプットを収集する。

※ただし、現在はその「分析」のところに課題がある。
折角収集した大量のインプットをうまく整理・構造化しきれていないので、
自分でも改善しつつ人の力を借りつつやっていく部分でもあると認識している

 

  • 自分がどんなことができる/できないか

やれると思っているのは、
自分が貢献したいと思う相手の役に立とうと思い、相手を理解しようとすること。

特にインプット収集や自分の解釈を相手に伝え、
課題特定から解決に向けての方策に対して正のスパイラルを回すこと。

おもに仮説の精緻化や意思決定支援については、
特に自分の考え詰めてきた領域におけるそれはやっていきたいなあと思っている。

ただ、他人が絡めば強いものの、
自分のことや、自分で意思決定を下すのがめっぽう苦手。

仮説を立てて、それを一次インプットにより補強・精緻化し、
友人などの力を借りながらそのインプットを解釈し、
考察(つまり整理・構造化)していく、というのはできるものの、
結局意思決定ができない。つまり、自分単体で成果を上げることは難しい。

(だから投資とか婚活とか転職なんかもたぶん苦手)

それから、長くことにあたるのは、志や想いがないと難しい。
基本的に刺激反応的にさまざまなことをやっているので、
長く続けるためにはそこに対する特別な思い入れが必要。

で、そのために必要なのは、自分や他人への適切な期待値。
基本的に自分への期待値が高いので、キャパオーバーなことを引き受けたり、
自分でコントロールしないうちに倒れ、無自覚のうちに(あるいは自覚的に)身体を害したりする。

コントロールする仕組みを作ったり、
コントロールを支援してくれる他者が必要だということは本当に痛感している。

 

  • 自分はどうしていくべきか

意思決定が苦手なのは、今まで経験がないということに加え、
やはりどこか物事に対して(自分の人生ですら)傍観者的だったということに端を発するように思う。

いまは他人に決めてもらったり、手伝ってもらったりしながら、少しずつ自分のことも決めていきたい。

※それをどこから手を入れていくのかはわからないが、そのカギになるのは「自己肯定感」と「自己尊厳」であるように思う

自分に対する期待値が適正化されていき、それに伴い他人に対する期待値も
じょじょに適正化され、自分の心の安定がもたらされるようになったように思う。
他人に無茶な幻想を抱いたり、誰かが何とかしてくれるだろうという期待値は抱かなくなった半面、
「これは私のやるべきことではなく、XXのやるべきことなのではないか」という風にもなったのが今年だったかなと。

 

  • 自分は何のために生きているのか

これがクリアになったのが、自分にとっては一番大きかったと思う。

これは後ほどゆっくり書くことにするが、
私は「人生の仲間を作る」ために生きている。
どんな立場の人とも、「お互いにお互いを良くしていける」関係性を求めているし、
そういう仲間を作ることが人生の目的だと思っている。

だからこそ、そういう仲間と一緒にいられるような環境を整えるのが大事そう。

 

・・・っていうこととかを自覚したってところまでが振り返り。

次の記事で2018年について書こうと思います。

 

追記:仕事の振り返り

事実に基づく振り返りもしておこうかと・・・

  • 1月 新上司に心酔
  • 2月 元カレロスからの脱却を図る、PJTは頑張る
  • 3月 納品。とにかく仕事を頑張った
  • 4月 上司ロス、燃え尽き症候群
  • 5月 なんとか持ち直すものの、だれ気味なのをなんとか奮い立たせる
  • 6月 初の大量情報処理案件、初の部下、婚活開始
  • 7月 案件疲れ、婚活疲れ
  • 8月 片思い王子的な人の低血圧に勝手に振り回される、PJT頑張る
  • 9月 PJT充実するも多忙による体調不良、自分の力不足を思い知る
  • 10月 上司との連携不足による精神不安定、退職を覚悟する
  • 11月 若年層行動調査PJTでの成功体験
  • 12月 人生が迷い子→China Tripで方向性が少し見える

【思考日記】ロールモデルは、要らない。 #去年の思考、延長戦

こんばんは。

あけましておめでとうございます、くろえです。
今年もどうぞご贔屓に。よろしくお願いします。

.

昨日思考の掃除をしていたわけですが、
紅白の尊い人たち(星野源および岩沢厚治)に目が奪われ、
紅白のあまりの変わらなさに日本の斜陽を憂い、
Eテレのあまりのくだらなさに圧倒され若干ほっこりし・・・
とかやってるうちに、去年のうちに放出できなかったのを、
思い切って排出しておきます。

 

去年、自分の仕事について考えるなかでたどり着いた
にわかに非常に尊敬している知人の記事

courage4u.hatenablog.jp


こちらの記事を見て、思ったこと。

この記事に対して、そうだよなあと思ったので、
自分の立場を記載していくこととする。 

 

わたしにロールモデルは、いない。

現在所属している会社の部署には、女性が私を入れて5名しかいない。
(割合としては1~2割くらいなのかな・・・?)

そのうち自分よりも立場の上な同性は1名。
すごいなと思うけど、理系院卒、パーソナリティもケイパビリティも違いすぎて、
正直全然真似できないだろうし、やり方も全然わからん、って感じの遠い存在。

このように考えると、これまで所属したいかなるコミュニティのなかにも、
(少なくとも同性で)「こんな風になりたい!」と思った先人は
後にも先にもいなかったように思う。

どちらかというと、「社会で活躍しています!」「プロです!」
みたいなことを標榜する人に対する違和感が強いし、
まして自分の母親のように「専業主婦でヨガしてジムして資格とって
友達と楽しく生きてます♡」みたいな人もロールモデルではないと認識している。

 

わたしにロールモデルは、いらない。

私は正直、これまで「真似したい!」「こんな風になりたい!」
という人に会ったことはなかったように思う。

もちろん、尊敬する人はいる。
強くしなやかに生きている親戚、職場にいる先輩、好きな友人など、
自分よりもはるかに人間ができていると思うし、
あの人たちのような大きな器になりたいと憧れることはある。

ただ、その生き方をなぞらえたいかと言われれば答えは「否」だ。
私にないからこそ憧れるわけで、正直自分の延長線上に彼らの存在があるとは思えない。

 

それとは別に、「共感」タイプの他者は存在する。
例えば、会ったことはないが、下田美咲様とまきむう様のような
リベラルで結果を出していて、自分の弱さを出しながらも、自分の強さを持っている芯の強い女性には、
思想の面で共感する部分も多いし、その生き方やライフスタイルには確かに心底憧れる。

ただ、それもまた、「彼女たちのようになりたい」ということはない。
ケイパビリティも顔面偏差値も出自も全く違うからだ。

ここまで見ていくと、私は共感することはあれど、
ロールモデルを持つという思考自体をそこまで持ちあわせていないように思う。

 

上記のように、私自体がロールモデルになるイメージがないのは、

  • 自分の尊敬する人は自分に持っていないものを持っていること
  • 自分の共感する人は、思想が近くても個体として持っているものが大きく異なること(私のような違和感・課題意識ドリブンで生きている人間は特にそうなのかもしれないと思う)

の2点が理由であるといえる。

 

わたしはロールモデルには、ならない。

そういうわけで、誰かの生き方を踏襲して自分を高みに昇らせていくような
生き方を志向していない私は、当然、「誰かのロールモデルになろう」とは思わないし、
なるために何かをするということも多分しないと思う。

※特にこの(コンサルタントなどのプロフェッショナルと言われる仕事)界隈には、
「自分が女性の生き方のロールモデルになるんや!」みたいなことを言っている人がいるし、
自分がそういういわゆるプロフェッショナル的な振る舞いを求められる仕事をしていると、
そういう期待をされることもあるのだが。

 

それは、自分が見本になれるような項目はないと思っているから、
とかいうネガティブな理由ではなく、そういう考え方がしっくりこないから、
というだけだ(もちろん、そういうのもあるかもしれないが)。

 

ブログからの示唆 

もしかしたら上記の『重要な他者』という傾向がとても強い人は『ロールモデル』というものをそもそも意識せずに働くことができるのではないでしょうか。

そして同時に、『重要な他者』という傾向がとても弱い人はそもそも『ロールモデル』のような他者がいても影響を受けにくいので『ロールモデル』がいてもいなくても同じなのではないでしょうか。 

これは完全に仮説ですが、もしそうだとしたら、私はこう考えます。

『重要な他者』の傾向がとても強い人ととても弱い人向けには「そんな我が道を創ってあげられる会社の風土」が必要なのかもしれませんし、

どちらにも属さない人向けには「信頼してくれてかつ尊敬できる存在が常にそばにいてあげられる環境」が必要なのかもしれません。

ロールモデル有無適性論』とでも言うのでしょうか。

 

これに近いのかなと。

私はかけがえのない大事な人に貢献できればよいわけで、
そのためにロールモデルは必要ない、ということなんだなという感じ。

---

社会の中で「女性の社会進出」・「女性の活用」などが取り沙汰されていますが、
まあ、そんな別にたいそうなことじゃなく、意識を高く持たないといけない、
みたいな同調圧力はいやだなーと思っているし、
そんなんなくても別にこの界隈で生きていける気がしているし、
そういう社会であって欲しいなー、なんて思ったりする。

 

ロールモデルを持て」「ロールモデルになれ」と言われて
少し生きづらい思いをしている人がもしいたら、そういうのもあるよと。

【思考日記】購買行動とか、過食とか #今年の思考、今年のうちに

こんばんは。2017年も終わりますね、くろえです。

ここで、突然ですが2017年に書いていたブログの下書きを
一気に公開することとします。
(今年の叫びは今年のうちに、ということで・・・。)

 これは12月の中盤に書いたやつ。

 

最近感じた違和感

私の周りの方々はご存知かも知れないが、
私は自分の友人が好きだし、それらと会って話をすることもとても好きだ。

 

だが最近、(特に出自が共通している古い)友人と会うときに
一抹の違和感を覚える機会が増えてきた。

もちろん、その後歩んでいる道がそれぞれであるから、
そういう感覚を覚えるのは当然なのかもしれないが・・・。

特にお金の使い方(金銭に関する価値観のズレ)についてである。


それだけの話なら、見なかったことにしてしまえばいい話なのであるが、
お金や購買行動に関する価値観は、自分の人生を考える上で
不可避な気がするので、書き連ねてみることにする。

 

何に違和感があったのか

旧友と会った。もちろん旧知の仲なので、楽しい時間にはなるのだが、
ちょこちょこ価値観・・・というか、お金の使い方の違いが気になる。

例えばボーナスの使い方。貯金!と言っていた友人もいたが、
バッグや高価なアクセサリー、靴などに思い切ってお金をかけるそうだ。
翻って考えたときに、自分はどうだろうか。

 

私のお金の使い方はどうなっているのか

多分お金は使っていないわけではないが、以下のような特徴があるようだ。

  1. 何を買うにしても、高いものは買わない。

    値段は割と比較して安く変える方法を探す。同じ体験なら安いほうがいいし、逆に安くいい体験ができることに喜びを感じる。5年前くらいのカカクコムユーザのユーザ行動みたい。

  2. 5,000円以内のものなら割と躊躇なく買う。
    洋服にせよ、小物にせよ、セミナーなどにせよ。

  3. 消え物を買う。
    お菓子とかご飯とか。

  4. 自分の身体のメンテナンスのためには分別ない。(高くない範囲で)
    サプリや薬、整体、パーソナルジム、エステ、スポーツなどはやる。
    中長期的な、というよりは短期的なニーズを満たしている感覚。

  5. シリーズでコンプリすることに燃える。
    最近で言うと、ガルボを全味買う、糸井重里の本をシリーズ買い、など。

上記を見てみると、どうやら手元に残す、とか、ひとつのものを大事に使う、
というところにフォーカスが当たっていないようだ。

 

働いている心理は何か

以下のような心理が働いていると考えられる。

  • お金を使うことに罪悪感がある。

お金を得るのは大変だ、という価値観のもと育てられてきた。(その割に家系は元財閥の末裔で割と裕福だったので、ねじれの構造になっているのだが)だから、お金を使うという行為自体に罪悪感がある。

  • お金を使うことに特別感を求める。

少なからず、お金を払うことは期待値を設定することであり、その見返りとして適切だと考える体験が得られることを求める。特に高額な買い物は、特別に期待値が高まってしまうのだが、そこにうまく意味づけができないので、その特別カンを避けようとする。

  • 残るものに対する恐怖感。消えもののほうが気が楽。

残るものには魂が残る。たとえば元カレがくれたプレゼントや、片思いしていた男性がくれた時計など。ものは忘れていたことを思い出すトリガーだ。幸せな思い出だけじゃなくて、自分の人生のふがいなさを認識させられる。ものが持っている歴史そのものに対して怖さを感じているのかもしれない。

  • 意思決定に慣れていない。

今までの人生において、大きな意思決定をする経験に乏しかったという自覚がある。単純に、何かを決めるということに慣れていない。いまの自分が受け取りきれる幸せ(サイズ感として)を享受しようとしていて、中長期的な幸福感を許容できていないからなのかもしれないとも思う。

  • ストレスを買うくらいなら、買わないほうがマシと思う。

上記のように、購買行動に対して精神をすり減らすタイプなので、ショッピングなどに行くと非常に疲れる。そうすると、買わない自分を想像して納得させる傾向がある。
マインドシェアが高くなり、ストレス源になってしまう。そういうわけで、投資などもあまり好まない。元本保証の定期預金くらいで精いっぱい。

 

困ることはあるのか

私は、この傾向はあまり良いとは思えない。買い物というのは一種の意思決定行動である、大きな意思決定をできない、ということはもちろん生活だけではなく、人生全般に置きな影響をもらたすと考えられる。
また、私は「何かを長く大事にする」という思考回路があまりないんじゃないかと怖くなる。そのことは、自分のこと、あるいは自分の周りにある大事なものを大事にできないかもしれないという可能性を秘めているような気がして、自分に対して不安な気持ちを持っているのも事実だ。

 

同じことが「過食嘔吐」のロジックにも言える気がする

ふと、過食嘔吐のロジックに通じるものがあるのではないかと思った。
過食嘔吐は、上記の心理の複合体として表出する現象だとも考えられる。

  • 目の前にある衝動からは逃れられない
    辛いことから逃げたい、美味しいもので身体を満たしたい、周りの期待に応えたい(「おいしくたくさんご飯を食べる健康的な私」というキャラを演じると生じる感情)

  • ふと明日のことを考えて、不安になる
    身体が醜くなる、人から嫌悪の目で見られるかもしれない、というリスクを負うことに(食べてから)気づく。そうなると潜在的な不安は止まらない。

  • すべての嫌なことをなかったことにするために、吐く

いずれも短期的な思索とそれに対する反応の結果、起こっていることだ。

 

悪いことなの?

これが必ずしもいけないことだとは思っていない。
自分から不要なものを摂取したとして、それを水際で防ぐのが嘔吐なんだとしたら、
断捨離とかに近い概念のようにも見える。
どちらも、自分に必要ないものを自分から手放す行為。
問題があるとしたら、「後先を考えずに衝動や外部からの要求に過度に反応し、突き動かされてしまう」方だ。

(ただ、その頻度を少なくしていかないと、何らかのダメージは必ずある。
過食嘔吐の副作用?として、逆流性食道炎などが挙げられる。胃や食道の痛みはくせになるので、普通によくない。吐けばいいやと体の中にあらゆるものを吸収するのはおすすめしません)

 

無理をしないこと=健全性を大事にすることが大事。

私のようなパーソナリティの人間は、
つい外部の期待や言われたことを優先して、
後々よくわからんことになる、という経験があると思う。

そこにつける処方箋は「無理をしない」ことなんだけど、
それは限りなく難しいことなので、自分でなんとかしようとせず、
そういう性質をきちんとそれを受け止めてくれる仲間を作ることしかない、と思う。

 

購買行動に戻ると・・・

最後に無理やり購買行動に戻って考えると、
最初は正直ちゃんとしなきゃ、とか、高いもの買わなきゃなのかな、とか、思ったけど、
購買だって無理して周りに合わせる必要はないんだな、と腑に落ちた。

とはいえ、大事にしたい人に関わるものについては
自覚的に、お金をちゃんと使えるようになりたいなと思った。

 

---

あんま明るい話ではないけど、なんとなく、あの経験や感じた疎外感というのは、
私の中の大事な要素でもある気がしたから、残しておこうと思う。
じょじょに、自己愛が少ないのを解決していきたい、という決意と共に。

どう森ブームに、思うこと。(その2)~ 流動性の高い社会をしあわせに生きる方法

こんばんは。
再び現れました、くろえです。


さて、先程の記事では、SNS上でのシェアによって
どう森が流行していることを実感した、
というお話をしました。

(→以前の記事はこちら:どう森ブームに、思うこと。(その1)~ SNSの影響の大きさを実感した話 - コスプレでコンサルやってますけど

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今回は、この続きのお話をしようと思います。

 

情報過多の世の中で、何を追い、何を知るのが幸せなのか

 

私たちはスマホを手にしたことによって、
圧倒的に情報過多な社会を生きていくことになった。

グローバル化・デジタル化のなかで匿名性が高まり、
個々の人格が次々と代替可能なものに見えるような世の中で、
新しいムーブメントの波にのることでなんとか息をしている。

上記の例もわかりやすく、SNSで拡散した情報が
消費者の行動に伝播していく例として捉えることが出来るだろう。

 

そんな時代のなかで、私たちは時代の波を捉えていることに安心し、
またどこかで、周囲からの影響を受けることに辟易としている。

自我なんて本来的には存在していない、とも思える社会のなかで、
自我を追求しろなんて言われてもよくわからないし、
とはいえ周りに合わせて踊り続けるのは難しすぎる。

 

自分とよく似た属性の個体を集めたところで泳ぐのは比較的容易だが、
だからといって外部環境を見ずして狭い世界で踊り続けていると、
そこにあるのは疲弊と空虚と、茹でガエルになった自分自身だ。

 

じゃあ、どうすれば、「自分」を守りつつ、疲弊せずに生きられるのだろうか。

 

分かって踊る、そして都度達観するという姿勢

 

ここで大事なのは、「主観的満足度を高めること」ただ1つだ。

だって、社会は高めるゲージの尺度すら与えてくれないから。
いい会社だって変わるし、貨幣の価値すら国家に振り回されるし。

とすると、数少なくわかっているのは、
「どうせ踊るなら真剣に!」ということだけだ。
(やりきった感、充実感などの主観的満足が大事、というところから)

 

ただ、流れの早い現代社会においては、
「何を踊るのか?」ということすら問わざるを得なくなる。

とすると、

  • 「踊るものを決める」
  • 「短く(若干狂気的に)踊る」
  • 「短いスパンで(その結果を)振り返る」
  • 「次に踊るものを探す」

というスパイラルをこまめに回すことこそが、
茹でガエル的状況を避けながら楽しく生きるコツなのではなかろうか。

(これ、書いてみてビッチ的だなと思ってドン引きしたけど、
こういうことをしないといけない社会なんだろうな・・・とも思う)
(因みに、家族という血縁に伴う仲間の概念については、
この限りでない、という内容の記事はいつか書く・・・いつか)

 

ずっと何かをしなくてはならないという強迫観念の時代の終焉を、自分にとって良いものとするために

 

社会の変化が早くなったことに伴って、
ますます「ひとつのもの、こと、ひと」に拘泥する必然性がなくなってきている。

そのことは事実ではありつつ、どうせ流されていくのであれば
しなやかに、自分の意に反しない方法で流されていきたい。

そのためにはどうすればいいのか。

  • 何を頼りに決めていくのか、という情報ソースの精度を高める
  • 自分自身のなかの「譲れないこと」の精度を高める

この2つは、主観的満足度を高めて生きるために
ほんとうに必要なことだと思う。

つまるところ、

  • 信頼出来るものをちゃんと自分の近く、もしくは自分の中に持ちましょうね
  • 社会に阿るより、自分を参照したほうが、たぶんミスっても後悔ないよ! 

ということなんだけど。

逆に言えば、それさえ心に決めてれば、あとはどうにでもなるかなと思ったりする。

 

まとまりないけど、もっと具体的なことについては
年末の振り返り記事あたりで書こうと思います。

 

以上、言ってることに驚くほど説得力がないくらい腰が重く、
変化を好まず茹でガエル化していることに定評のあるくろえでした!