エモと考察の狭間で。

エモと考察、バリキャリとゆるキャリ、厭世観と幸福論、事なかれ主義と突発的行動主義。ゆらぎのなかを揺蕩う、某ベンチャーマーケターの手記。

【断食体験記】断食合宿を終えて「食」について考えたら、自分のやるべきことが少し見えてきた(気がする)。

食に関するおまけ的な考察

こんにちは。三部作で書こうと思っていたのに、前後半にしたせいで3記事目がぽっかり浮いてしまったくろえです。

皆様、三連休いかがお過ごしでしょうか。

 

私はというと、
土曜日には昼はパン教室でカレーパンを作り、渋谷のタイ料理を食べ、
日曜日には親愛なる彼氏氏と物件めぐりをし(半分趣味ではないかという疑いもありつつ)、昼は馬場FLATで念願のパンを買い、三茶でタイ料理を食べ、
今日は世田谷パン祭りに行った後昼は三宿のパン屋さん巡りをし、夜は秋の味覚を愉しむ会を自宅にて開催しようとしています。

※ちなみに今日行く世田谷パン祭りはコレ。

setagaya-panmatsuri.com

 

うーん、食欲の秋、ですね・・・。(言い訳)

 

食の煩悩に取り憑かれているのは相変わらずなのですが、
先日の「IARP根府川道場での断食合宿」をきっかけに、
少しずつ、食について考えたので、記載してみることにします。
では、はじまり、はじまり。

※前半はこちら

cloalien.hatenablog.com

※後半はこちら

cloalien.hatenablog.com

 

食欲の煩悩からは開放されるのか?

今回の道場合宿明けにも強く思ったのだが、これは非常に難しい、ということを実感した。

そもそも、下界には食のコンテンツが溢れているし、そうでなくても社会生活は1日3回の「食」を前提として回っている。

学校時代からの規範として、人間はルーティーン的に(それは身体の求めるサインではなくても)無自覚的に食を摂取することを刷り込まれており、社会生活もそのように設計されている。

それが通常である一方で、たまにストレスが高じると、それが過食となったり、拒食になってしまうこともある。

これは食に限らないのかもしれないが、「自らの持つ(明確に欠乏しているわけではないのに無自覚的に求めてしまう、という意味での)狂気のような欲求」を制御するためには、自らの身体や精神への深い理解があった上で、かなりの自制心が必要なのではないかと思う。

(私は前者を認識するのもかなり難しいと思っているが、前者が進んできたとしても、後者はかなり難しいと感じる)

 

食べ物の役割

先のブログのなかでも述べたが、「食べ物はストレスや怨念を受け止める緩衝材なのかもしれない」と思っている。所謂過食症気質があるから尚更そうなのかもしれないが、食べ物というのは業を持っているように感じられることがあって、恐れの気持ちを持つことがある。そして、その呪縛はしっかり体内に取り込まれていく。

私のとても好きな作品のなかに(前回も紹介したが)安野モヨコ先生の「脂肪という名の服を着て」というのがあるのだけど、この中でも主人公のもこちゃんは「強くならなきゃ」と思いながら、食べ物を頬張る。
食べ物を食べることで内側から強くなる、という感覚は、孤独や不安を紛らわす手段として、とても理解できる。自分の弱さや社会に対する恐れの気持ちをごまかすかのように食べてしまう、ということ。

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また、過食・拒食を繰り返す主人公に対して登場するエステの店長は、以下のように切り捨てる。

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これは心にかなりくるものがある。心に醜さがあると、食べ物にすら敵意を向けてしまう。結果として、食そのものに過度に人生を囚われてしまっている状態になる。

 

食べ物とどんな関係を結ぶべきなのか

自分の美醜と食べ物を過度に結びつけてしまうことは、本当であれば、健全な関係とは言えない。ということは分かっている(行動が伴うか、また、美しくなるか、という話とは別だが)。

逆に考えてみると、そもそも、食べることは生きる上で必要なものであるが、もちろんそれだけではなく、ポジティブな要素も多分に含んでいるはずだ。

人とのコミュニケーションを円滑にするだけでなく、五感を刺激することで幸福を感じる物質が分泌されたり、心身の健康を保つために、本来であれば必要なものであるはずだ。

だからこそ、本来であれば「身体を痛めつけないような食べ方で」「過度に孤立せず(自己を攻撃しないために取りうる手段のうちの1つでしかないが)」「ポジティブに食べられる」ことを重視するべきなんだろうな、と思った。

(だがそのことは難しいのは重々承知だ。人前で盛んに食べるキャラクターを演じていると、自己の欲望との乖離が発生し、そのことが身体的に負担をかける可能性だってある。本当に、食の問題は人生に直結する根深い、そして解決困難な課題であると感じる)

 

祈りとしての「食」提供 〜提供者側として作る/作りたいべき体験はなにか

自分にそういう後ろ暗い、今もなお(もちろん、甘ったれていると言われればそこまでなのだが)戦っている「食」に対して、私は「提供者側でありたい」と思っている。それはなぜなのだろう?

 

翻ってみると、前職では「ベーカリー」を立ち上げ、たまに冷凍ベーグルやミスドでドーナッツを買っては、社内のメンバーに販売していた。

これはひとえに「食におけるプラスの側面」を他人に求めたからだ。

食が充実することで人生が豊かになる人が存在することを確かめたかった。

そして、そのような業務外でのサービス提供のなかで、(男性が多い職場だったことや、頭脳労働の職場だったことに起因するのかも知れないが)多くの社員から、それぞれの趣味嗜好を聞いたり、感謝されたりする機会がちょこちょこあった。

これは、今思い返してみると、自分の原点だった。(もちろん自分が作ったわけではないが)本当に嬉しかった。自分の選んだものが、誰かの喜びとなり、そして血肉になるという感覚。

たかが食事、だけど、されど食事だ。

この食事を通じて、少しでも心の豊かさにつながってほしい・・・という願いを込めて、個々人の好きなドーナツのリサーチなども行い、仕入れの精度を上げるなどの活動を行っていった。

そして、前職でのベーカリーのオープンの回数が100回に迫ろうとしていたとき、私は前職をやめた。

 

そして現職では、ついに「それ」を仕事にしてしまった。

弊社の扱っている「オフィスおかん」というサービスは、オフィス内で、弊社が設置した置き型の冷蔵庫に、肉・魚・野菜・カレー・ご飯などのおかずを納品するものだ。従業員は1品100円で食べることが出来る。

このサービスには「従業員が仕事のさなかで食べたいものを、手軽に、安価で、美味しく食べることが出来る」というバリューがある。

そして、これによって、従業員の食生活、ひいてはライフスタイルが少しでも豊かになるのではないか、という祈りを持っている。(これは客観的効果を計測するのは難しく、もはや祈りの範疇だ。)

office.okan.jp

 

私の食との関わり方 〜それでも、食はポジティブなものであってほしい

食の福利厚生を扱っている現職の会社に入り、更に複業としてもパンのマーケティングを扱う会社に少し関わろうとアプローチしている中で、つとに思うのは、

食べ物は人を傷つけるためにあるのではなく、人が人に優しくする・幸せにするために存在するべきだ、ということだ。

これは精神論かもしれないが、自分の中で起こっていることとは別の現象として、もしくはそれを包含した上で、そういうポジティブなものをもたらしたいと思っている。

 

これまで論じてきたとおり、食べ物は揶揄しようと思えばいくらでも揶揄できるし、いくらでもネガティブな捉え方が出来る。

(糖質は悪だ、食品添加物は人をガンにする、動物性脂肪は消化にストレスがかかる、精製した砂糖の大量使用による中毒だ、食による精神の摩耗、トラブル、などなど・・・)

 

でも私はあえて、ポジティブな面に目を向けたい。

誰だって、「身体に良く、心の栄養にもなり、舌にも美味しいと感じられるもの」に出会ったことがあるのではないか。それはあるときには「おふくろの味」なのかもしれないし、辛い時に食べた弁当かも知れないし、居酒屋飯、自分で作ったご飯、ミシュラン三つ星・・・なんでもいい。

(私にとってはなんだろう?精神的に追い込まれていたときに入った、自由が丘駅構内のスープストックトーキョーで食べた生姜スープの滋味深さに、思わず泣いてしまったことがある)

私はどんな食べ物でも良い、誰に対する価値提供でもいい、そこを目指したいんだなって思った。

もちろん味覚は人間の主観だったり、いろいろな要素が絡むので、体験は綿密に設計しないといけない。もちろんそれは対個人かもしれないし、対マスかもしれない、対作り手なのかもしれない。

 

そして、そういう意味では本当は食べ物ではなくても良いのかも知れない。職業選択かも知れない、日々のメンタリングかもしれない、筋トレかも知れない、学習かもしれない。

でも、ここまでどうしようもなく惹かれ、憎み、接し、愛することの出来るものは、「食」だけなのかもしれない、とも思う。

 

・・・という意味で、(関わる全ての人間に対する)様々なところまで作り込んだ体験を、こと「食」というフィールドで実現したい、という想いを強くしたのであった。

【断食体験記】IARP根府川道場に2泊3日で行った話(後編)

後編を始める前に

こんにちは。比較的すぐに現れたくろえです。

再掲になりますが、先日、ずっと行ってみたかった「断食合宿」(というより3食は食べるのでファスティングというほうが近いかも知れない)に参加しましたので、こちらの記録をさせてもらいます。これは後編。

 

以下、[前編][後編]の2部作で、

について語ろうと思います。では、断食明けの日記を、徒然と。

 

断食3日目(解散後から)

さて、何をしようか。そんなことより、下界に降りたら何を食べようか。
そんなことばかり考えながら、東海道線で小田原の駅へ。

眼の前に見える海はきれいだった。あまり海に馴染みがないからか。

小田原駅には大きなお土産屋さんがあり、試食の魔力に耐えられず、かまぼこを片っ端から試食する。

回復食には気をつけろ、ではなかったのか。
いや、しかし、うまい・・・

↑彼氏氏へのお土産。翌朝には半分が私の胃の中に。

↑妹子へのお土産はこちらに。小田原焼美味しかった!おすすめ。

 

道場と実家が近かったので、寄って帰ろう、ということになる。

家に帰ろうと母に駅まで来るまで迎えに来てもらったところ、連れて行かれたのは新装開店したパン屋さん。これが郊外型大型ベーカリーというやつか、嗚呼・・・

パンの焼けた香ばしい匂いが、鼻の奥を刺激する。
ああ、これが、いまの私の大敵、かつ、幸せの源泉なのか、という気持ちになる。

後で食べるんだ、明日以降食べるんだ、と自分に言い聞かせ、パンを5つほど購入。

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買い物などをして帰宅すると、家に豆乳があったため、温めて飲む。
胃がポカポカし、思わずほっこりする。
先程道場の庭でもいだ夏みかんも、むいて食べる。美味しい・・・!

 

強く感じたのは、食べ物と体調と精神はきっと強く結びついているということだ。
感受性が高まっていたからだろうか、なぜかエモみが高くなって、普段は全くなついていない母に対しても、正面から向き合えたような気が、少しだけした。

 

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↑実家には年に1,2回しか帰らないので、ほぼタイムマシーン状態である

 

しかし、実家から自宅への帰宅中、猛烈な空腹に耐えられず、パンを食べる。嗚呼・・・なかなかなくならない食欲。食欲が憎い。どうして摂取カロリーを増やしてしまうのか。

 

そして、この身の上に起こった出来事をなんとか伝えるべく、三連休会っていなかった彼氏氏と面会。

彼は牛飯、わたしは付属の味噌汁、追加のサラダを食べる。

こんな社会不適合な食べ物でも許してくれる松屋も、彼氏も、世界も、やさしいなあ、と謎のエモみに浸る。

 

道場でのストレッチ、セルフマッサージがあまりに気持ちよかったので、道具を持参した上で彼氏に啓蒙()する。
うまく説明できないので、本当は自分で行ってほしい、と思うものの、体力モンスターな我が彼氏氏はきっと行きたいとは言わないだろうな、とも思う。

 

終了後1日目

それでも朝にはとてもお腹が空く。
昨日は散々パンに振り回された日だったというのに。

 

朝は小田原でうっかり買ったお土産用のかまぼこを、しっかり半分食べてしまった。

お腹が空いているので、水をがぶ飲み。もしかしたら、水分をたくさん取るくせがついたのは、この合宿の功績の一つかもしれない。

 

会社に向かう道中での貧血・立ちくらみがひどい。ぐぐったら好転反応の一部、と記載があったので、ポジティブに捉える。

昼には生命の危機を感じ、バナナスムージーとオリーブのパンを食べる。私は本当にパンが好きなんだな、と思う。少し呆れる。

 

↑会社近くのカフェで黒糖とバナナのスムージー。滋味深い・・・うまい

帰宅後は特にストレスの溜まる事案が多く、うっかり食に逃げてしまいそうになる。帰宅の道中、過食の衝動を耐えられなくなり、ミックス野菜を蒸して食べる。量食べたくなる欲求は、なかなかなくならないんだなあ。胃もたれしない低カロリーなもので解決するのが良いのだろうか。

 

終了後2日目

やはり、空腹や食欲はなくなることはない。そのことを強く感じる。

 

私は現在は社食の会社におり、試食会などがたまに開かれる。今日じゃなくてもいいのに、と思いつつ、空腹なのでノリノリで参加する。
ここで食欲のスイッチが解禁される。おかずとおこわを食べる。

 

夜はエステに行くなど健康志向を高めたため、スムージーなど飲んで過ごしていたが、夜は家でのトラブルでいらいらが止まらず、妹へのお土産で買ったはずのさっきの小田原焼き(クリームチーズを含んだ魚類のすり身を焼いたもの)を爆食いしてしまう。美味しい、でも、自らを傷つけている感覚は、強い。

↑カロリーは低くないと知りつつ、つい買ってしまう、サンマルクのジュース。

食後、怖くなって便秘薬と脂肪吸収抑制薬(個人輸入したもの、これ飲むと翌日油玉みたいなものが浮き上がってきて怖い半面、罪悪感が軽減する)を飲む。体調は悪くなるが、贖罪のようなものと捉えているきらいがあるのかもしれない。

↑いままでいろいろなサプリメントを試したが、一番効果が感じられたのはこれだった

そういえば合宿から帰ってきてから、泣いてばかりだ。ベッドの中でさめざめと泣いて、寝る、という繰り返しをしている。

この合宿前は、泣きたいことがあっても素直に泣くことができなかったように思う。そんなところまで浄化されているのか。毎日泣きすぎて二重が消滅してしまいそうだが、これも一つの変化と捉えてもいいのかもしれない。

 

終了3日目

いろいろうまくいっておらず、つい食欲に逃げてしまう。体調改善には、精神面での改善が必要で、むしろこちらがボトルネックなんだと気付く。

体重は参加前比で-2kgをキープしているが、そろそろリバウンドしてくるだろうな、と予感する。こわい。そう思うと我慢しよう、と自然となる。我慢しても死なないんだ、という自信がついたのは、良かった。

 

怖気づいて社会に出るのが怖い朝は、弊社商品の角煮とチャンプルーを食べ、自分を勇気づける。デブは食べ物を食べることで、自分を勇気づける側面があると思う(安野モヨコ「脂肪という名の服を着て」参照)。

昼には会社にストックしているオリーブパンを1つ食べ、本当にこれでいいのか、など思う。パンを食べるのは罪悪感があるけど、やめられない。

ネットサーフィンをしていたら、ベーグルと出会ってしまったせいで15kg太った、という話が出ていた。私はベーグル好きだが、太るのは、やっぱり(こんな風貌であっても)怖い。

 

夜はピザが出てきたが、お酒は飲まずに我慢できたので、最低限はクリアしたことにして、自分を褒めようと思った。

回復食期間は徐々に終了し、日常生活に戻ろう。体重をキープできるか不安だが、全てのバランスを取れるよう、毎日の生活に気をつけたい。

 

まとめ

上記、徒然と断食後の日々の状態を記録したものを露出した。

 半ば無理やりなまとめではあるが、今回の断食道場での体験は、総じて自分にとって衝撃的ですらあった。

具体的には、

  • 意外と食べなくても大丈夫
  • 深い呼吸はとても重要
  • 身体と向き合う時間を強制的に取ることで、自分のコンディションを見つめ直せる

ということ。また、上記の直接的な影響だけではなく、

  • 食について改めて冷静に向き合う時間ができたこと
  • 大好きな友人とたくさん話す時間が持てたこと
  • あたたかく素敵な人に出会うきっかけができたこと、
  • 心を穏やかに、軽くすることができたこと

ということが意味合いとして、特に大きかったように思う。

 

もちろんポジティブな気付きだけではなく、自分に失望する瞬間も多々あったものの、前向きに生きていくための力を身体の中に湧きおこさせるきっかけのひとつになったように思う。

 

改めて、IARP根府川道場の皆様、同行してくれた大好きな友人、一緒のタームで時間を過ごした方々、ありがとうございました!

 

※しつこいですがリンクはこちら→ヨーガ断食.COM

【断食体験記】IARP根府川道場に2泊3日で行った話(前編)

はじめに

こんにちは。またまたお久しぶりになってしまいました、くろえです。

先日、ずっと行ってみたかった「断食合宿」(というより3食は食べるのでファスティングというほうが近いかも知れない)に参加しましたので、こちらの記録をさせてもらいます。

 

以下、[前編][後編]の2部作で、

  • [前半]「合宿参加のきっかけ」「道場がどのようなところだったか」「どのような1日を過ごしたか」
  • [後半]「回復食期の自らの変化」「この合宿の意味合い」

について語ろうと思います。では、はじまり、はじまり。 

 

きっかけ

中高時代から仲良くしている大好きな友人が、断食合宿に行った、という話を聞いた。

かねてより、食欲コントロールに問題を抱えており、食との向き合い方を人生の中で考える機会も多く、食の福利厚生に関する企業に入社してしまうくらいには、「食の業」と私の人生の関わりは根深い。

この関係について、今一度見直し、自分の心身の健康について、向き合う機会がほしいと思い、断食道場の門を叩くことにした。

  

IARP根府川道場に決めた理由

まず、今回お伺いしたのはこんなところだ。

IARP根府川 ヨーガ断食.COM

 

断食道場に行こう、ということで、断食の出来る宿泊施設を調べてみると、

  • ラクゼーション(マッサージなど)を重視したもの(リゾート地に多い)
  • ヨガなど、身体を動かすことを前提とした少食
  • 絶食を基本としたもの(有名なのは成田山の断食。ストイックになればなるほど宗教色が強くなる印象)

など、いろいろなものがあった。

 

このなかで、

  • 23日という比較的短期でも参加できる(私はまだ有給がない)
  • 東京から比較的行きやすい(伊豆とかはやや遠い)
  • 価格がリーズナブル(1泊10,000円以内くらいを希望)
  • そこまでストイックではないが、ゆるくもない(ほどほどの厳しさ)
  • 個室がある(集団生活への適応性が驚くほど低いため)

という制約をすべて満たしているのがこの施設だった。

 

(にんじんの酵素ジュース、というのが美味しそうだな、というのも理由の1つではあった。)

(かつ、地元に近く馴染みがあったのも、選定理由のひとつかもしれない。)

 

基本的なスケジュール

HPに記載があったので、こちらにも。
(これは一例だそうで、順番が前後することはままあるようだ)

 

06:00 ~ 世界平和のお祈りと瞑想
07:00 ~ 足揉み・経絡体操など
09:05 ~ 朝食 りんごとにんじんのジュースなど
09:45  掃除(15分程度)・休憩
10:00 ~ チェックアウト & チェックイン
11:00  オプション
13:30 ~ 海や山で玄米おにぎり、その他。
15:30 温泉(90分程度)
17:30 ~ 夕食 サラダと味噌汁、豆乳など
18:30 ヨーガクラス
20:00 瞑想(30分程度)
22:00 消灯

 

というわけで、以下に、実際の体験記を記していく。

 

断食前日

明日から断食!ということで、夜の前職仲間たちとの飲みでは歌舞伎町の温野菜でたらふく鍋を食す。自分の食べたいものだけを食べられる、大好きな肉や野菜を注文しまくる幸せ。

明日からしばし東京を離れるので、彼氏にも会い納めである。喧嘩などしつつ、最後の夜を惜しみつつ楽しむ。

 

断食1日目(移動中)

自宅に立ち寄り、品川から東海道線にて根府川まで移動する。とにかく眠い。当日朝早く起きたからかも知れないが、電車の中では爆睡。

東海道線に乗る品川駅では、とにかく食品類が目につく。電車まで時間があるため、駅ナカのパン屋さんを散々見る。

 ああ、やばいよー。世の中が煩悩に満ちているよー。 

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到着したら、根府川駅まで迎えに来てもらう。怪しくないか?大丈夫か?など、不安を抱えながらも到着。

優しそうな道場長が迎えに来てくれた。なんか、大丈夫そう、という予感を持ち、向かう。

 

断食1日目(到着後)

根府川駅から山の方へ車を走らせると、道場はあった。緑に囲まれた、豪華とは言えないが、すがすがしいところだな、と思った。

 

到着後は(神社という位置づけなので)手を清めてから居間へ。

 

そして到着早々、早速ウォーキングに出かけることに。

圧倒されながら、あれよあれよという間に、林の入り口へ。
道は概ね舗装されているものの、ゴールは11km先のトンネル。ここはどこだろうか。
気温はちょうどよく、歩いていても心地よい。ときおり見える滝や川の音に癒やされながら、友人と話をしながら歩いていた。

 

途中中程で休憩。シートを敷いて、さながら遠足である。

小豆の入っている酵素玄米おにぎりは、3日寝かせたものらしい。空腹に、身体に良さそうなものは、無条件に沁みる。さらにプルーンも。プルーンは苦手だったのだが、腹持ちしそうだし、好きになりそうだ、と感じた。

また、この道場では各食事のときに「生姜湯」が振る舞われるのだが、これが非常に美味。ポットにスライスした生姜を入れて、熱湯を注いだだけのようだが、これが絶妙に胃に心地よく、何度もお代わりしたいと思うような、不思議な飲み物だった。家でも再現したいなあ。

 

 

さて、昼食も終わり、ラストスパート。
みんなに遅れたりしつつ、女子2人お構いなしでエンドレストーク。マイペースながらもなんとかゴールまで到達し、お待ちかねの、湯河原温泉

アメとムチが上手に設計されている・・・!と思った。最高のご褒美!

 

温泉から帰宅してからは、息つく間もなくヨガと瞑想へ。
疲れた体をいたわるような優しいヨガで、身体の詰まりが取れるような気がした。

 ドアを開けると外では金木犀の匂いが。
嗅覚が敏感になっているのだろうか、寒さも相まって、鼻の奥がきゅ、と閉まるような感覚を受けた。

 20時すぎには夕食。サラダがメインなのだが、これが意外とお腹いっぱいになる(そのときは)。でも、その後の空腹が不安で、ドレッシングまで飲み干してしまった。

食後はウォーキングの疲れからか、部屋に帰ったら速攻で眠ってしまったのであった。

 

断食2日目

早朝(3時半!)に予定されていた赤富士見学は、天気により開催とのことで、中止になったようだ(開催時は起こしてくれるらしい・・・!)。

それでも起床は550分。

6時からは世界平和のお祈り。お祈りや般若心経を読む時間。声をだすことで、気持ちが不思議と落ち着く。心がここにある、という感じだ。

まどろみのなかで、肌にひんやりする空気が気持ちよく、また、瞑想中は鳥の声と自分の呼吸だけが聞こえる中、とても心地よい時間を過ごした。

 

その後、朝の体操。2時間程度時間をかけて、じんわりと身体をほぐしていく。
普段なら朝から胃もたれに悩まされているが、感覚としては心地よい眠気と空腹。これは気持ち良いな、と思いながら、贅沢な朝の時間。

 

体操終了後にようやく朝ごはん。にんじんとりんごのジュースは、グラスになみなみ注がれていて、意外にもお腹いっぱいになった。
(ちなみに、お腹いっぱいの秘訣は作り方にもあるらしい。「バイタミクス」というスムージーに適したちょっとお高いブレンダーで作ることで、食材が潰れすぎないような塩梅になっているんだとか。)
(ちなみに奥に見えるのは「スピルリナ」という最近注目のスーパー食材。これのおかげだったのか?元気に過ごせていた感覚があった)

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昼間はオプションのコースも選択できたのだが(山登りかウォーキングの好きな方を選択できる、2500円~)、私達は完全にへたっていたので、近くのヒルトン小田原の温泉に行くことに。

それでも坂道を4.5km1時間弱歩いたのでなかなかの疲れ。

リムジン・・・!

 

というわけで癒やしの昼食はおにぎりとプルーンをまさかのヒルトンで。笑
アフタヌーンティーやブッフェが有名なヒルトンで、おにぎり。笑

それでも自然とお腹が一杯になるのが驚きだった。

 

ヒルトンの成り立ちなどについて友人と話しながら、温泉に浸かり、一息つく。
ヒルトンの休憩所での居眠りは、とても気持ちよかった・・・!笑

その後は道場長に根府川駅まで迎えに来てもらい、昨日同様、2時間程度のヨガと瞑想。

それから、夕食。サラダだけではなく、高野豆腐が出ていたため、食感を楽しみながら食べることができた。

 

・・・ものの、あまり当日は体を動かしていなかったからか、眠れない。
同行者はすやすや寝ているため、電気をつけるわけにもいかない。
所在ないので、ひたすら食べログで美味しそうなパン屋さんを調べる、テロ行為。

「案外食欲は(食べなくても)大丈夫なんだ」という自らの感想に嘘偽りを感じる。

 

断食中は努めて水を飲んでいたので、トイレが近い。日常生活においても、早起きのためには夜のうちの大量な水分摂取が必要なんじゃないか、など、どうでもいいことを考えながら眠りにつく。

 

断食3日目(終了日)

朝、550分に起床。自然と早起きできるようになったことに驚く。

昨日通り、お祈りと体操。コミュ障ではあるものの、じょじょに場に慣れてきて、道場のお兄さん(おじさん?笑)とも楽しく話すことができた。

棒を使って体をほぐすのだが、これが絶妙に気持ち良い。2本で6,000円とのことで、思わず購入してしまった。家でもやれよ、未来の自分。

移動時間には少し海も見え、いい立地だな、としみじみ(昔は木がそこまで高くなかったので、海も一望できたんだとか)。

朝は昨日同様のにんじん・りんごのミックスジュース。美味しい。味覚に対する感度が高くなっているのだろうか。

 

そんなこんなをしているうちに、あっと言う間に解散の時間に。

別れを惜しみつつ、庭になっている夏みかんをもいでもいいと言われ、初の夏みかん狩りを経験する。

他の参加者の人とも話ながら、もっといろいろ話ができたら楽しかったのかな、とも思った(私達は個室、皆さんは大部屋だったため、話す機会は少なかった)。

 

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以上、合宿中の記録でした。

次回も乞うご期待・・・!

だいすきな場所が、なくなる。 〜ぐるぐるベーグル閉店によせて

こんにちは、くろえです。

 

これまたお久しぶり投稿ですし、

次回は転職記事を書きますって言っていましたが、差し込みで。

 

だいすきな場所が、なくなる

 

蒲田にある、私の最愛のベーグルやさん「ぐるぐるベーグル」。

www.gurugurubagel.com

 

201884日(土)で営業を終了されるそうです。

 

gurugurubagels.blog34.fc2.com

 

営業を縮小したり、お休みをされてからの再開、とても嬉しかったのですが、

まさか閉店になるとは思っておらず、その知らせを聞いて、ひとり泣きました。

 

だいすきな場所との交わり

 

ベーグルやさんに魅了されていた学生時代に最初に来訪して以来、

店長のぐるぐるママの人柄とベーグルの美味しさに惹かれ、通い続けていました。

 

毎年クリスマスにはパン作りの教室にも参加。

パンを作る人の人柄の素晴らしさやパンの繊細さ、

そして創り手の温かさに、毎年ほっこりしつつ、

ああ、今年も終わりか・・・なんて思うここ数年でした。

 

大好きな人と会えて、大好きなベーグルに触れ合える場。

私にとってぐるぐるべーぐるはそんな場所でした。

 

ぐるぐるママのお人柄の素晴らしさ

 

(こういうことを公然とブログに書いて良いのかわかりませんが、)

もちろんベーグルはもっちりふかふか、味も最高なんですが、

店長であるぐるぐるママのお人柄に惹かれた部分が大きかったのだな、と思います。

 

www.gurugurubagel.com

 

海外の大学に進学されるなどの素晴らしい知性を持ち、

現地でベーグルの魅力に触れられ、ベーグルを作るようになったぐるぐるママ。

 

作るに際しての思いに触れ、とても感動しました。

 

パン屋さんは朝が早く、体力勝負で、

きっと大変なこともたくさんあっただろう、と思うのですが、

辛い顔をせず、いつもにこにこされているぐるぐるママに、

いつも元気をもらっていました。

 

お客さんへの対応もいつも素晴らしく、

折に触れて相談などをさせていただき、いつも心に温かいものをもらって、

近くの工学院の中庭で美味しいベーグルを頬張ったものです。

 

自分の人生にとってとても大事な人。

いつの間にか、そんなふうに思うようになっていきました。

 

だから、自分にとっての大事なお友達や、そのとき付き合っている彼氏などは、

なるべく誘って行くようにしていました。

 

そういうわけで、わたしにとってぐるぐるママは、

自分の数少ない、憧れの存在でした。

 

できるだけたくさんの人に訪れてほしい・・・けど

 

あと営業日としては3日なのだけど、

本当に素晴らしいお店なので、推せる。

 

ただ、小さな小さなお店なので、

人がたくさん行くと困るな、と思いつつ、

私のことを知る人には、是非行ってほしい。

本当に良いお店で、自分にとって大事な大事なお店なので。

蒲田駅から徒歩5分くらいです。日本工学院のすぐ近く。

 

次はきっと、最後の訪問録を書きます。

 

人生はそれぞれにあり、そして、前を向いて歩いていくしかない

é¢é£ç»å

これは万物に共通することではあるけど、

今回の閉店、というものは、ご体調を崩されたりするなかで、

ぐるぐるママ自身がきっとすごく悩みながら決めたことなんだろうなと思います。

 

でも、どんなことがあっても、

この先ぐるぐるママが素晴らしい人生を送れることを、

そして、ぐるぐるママやぐるぐるベーグルのスタッフの皆様の幸せを

心から願いつつ、今日は筆を置くことにします。

【事後報告】コンサル、辞めました。

お久しぶりです。

すっかりご無沙汰しております、くろえです。

 

しなきゃしなきゃと思っていたのですが、ここでご報告を。

 

コンサル辞めました

4年間お世話になっていたマーケティング系のコンサルティングファームを退職しました。

理由はいろいろあるけど、

  • 事業戦略ではなく組織戦略側の人になりたくなった
  • UX(User Experience)からEX(Employee Experience)の人になりたくなった
  • コンサルではなく事業会社の人になりたくなった
  • 「従業員が幸せに働くとはどういうことか」についてつきつめたいと思った
  • (いわゆる「激務」と「終わりなき労働」に疲れた・・・えふんえふん)

などです。

つまり、現在は「コスプレでコンサル」してません。

名称に偽りあり、ですね・・・

 

ブログタイトルを変更しました←NEW!

というわけなので、名称に偽りがあるのはいかがなものかということで
ブログの名前をね、思い切って変更しました。

 

(旧)「コスプレでコンサルやってますけど」

(新)「コスプレでコンサルやってましたけど」

 

うそじゃないからいいかな、と・・・。

(思考するのが面倒くさかっただけじゃないかというツッコミはNO)

 

社食やさんのマーケターになりました←NEW!

そういうわけで転職したのですが、こちらの会社になります。

company.okan.jp

 

ぷち社食「オフィスおかん」という
食の福利厚生サービス(全国対応!と謎の宣伝)
を提供しているんですが、

これを通じて弊社のミッションである
「働く人のライフスタイルを豊かにする」というのを
少しずつ実現していけると良いなと思いまして。

転職しました。

 

というわけで、次に転職してみて感じた変化について書いてみようと思います。

(やっと報告できた〜!!!あでゅー!!!)

 

【徒然なるままに、2月。】「自ら変化するべく行動する」方法について、冷静に考えてみた。

※徒然と記録していたものの、放出していなかったものを、短いながらも放出します、のシリーズ3作目。誰かの何らか届くと良いなと願いを込めて。

 

「自らを変化させるためには、変化を起こさないといけない」

私は年初からの数ヶ月、大前研一氏の言う
「自分を変えるために変化させるべきこと」
のネタ(?)に乗っかり、
とにかくやみくもにいろんなものを変えるべく、
自らの意思決定に向けて動こうとしてきました。

 

でも、ここまでいろいろなことを考えてきたり、
人と意見を交わしたりする中で、

「他人のほうがよっぽど自分/その手のことをよく分かっている」
というある種アタリマエのことを痛感しています。

 

それと同時に、こと私に関して言うと、
「考えれば考えるほど、踏み出せなくなる」
「考えすぎてわからなくなると、決断を誤る」
ということもまた、実感したところです。

 

・・・とはいえ、自分の行動や自分の意思決定については
自分しか責任は取れない、というのもまた理としてあり。

「じゃあどうすれば自立を諦めず、より良い決定ができるのか?」
ということを考えてみました。

 

「自ら変化に向けて行動する」プロセスを冷静に考えた

 

で。

 

基本的には以下のようにするといいかなと、現段階では思っています。

 

①まずは以下の人の意見を聞く
・自分をよく知る数名の友人
・困っている領域に関して詳しい知人(あるいはその道のプロ)

上記対象者から情報収集をし、フラットに賛成/反対を観測

③基本的には多数決に基づき意思の方向性を決め、自分の中で納得行く意味付けを行う

④最終的なストーリーを上記の人たちに話し、感触を確かめる

⑤その局面における(自分にとっての)キーパーソンの感触を確かめる

⑥(できればタイムリミットを決めて)実行

 

上記の思考は主にキャリア面についての話だったんだけど、
これ基本的には人生のあらゆる側面で応用が出来るような気がしています。


※わたしの場合、自分自身の熟考の末の判断に不安定感があるので、
他人の言をとっかかりにして進捗させていこうとしているのだけど、
ここの濃淡は人それぞれだなと思いますが

殆どの場合、闇雲に変化を起こすのが良いわけではない

 

と、ここまで、一定大前研一理論(?)を
ある種所与として語ってきたけど、
いくつか気をつけるべきことがあると思う。

まず、何でも変えればいいというわけではない、ということだ。
(言ってしまえば身も蓋もないが・・・)

 

例えばキャリアの話で言えば、
(なんかよくわからない強迫観念を多分に含んではいたと思うけど、)
新卒で就職してから3年以上同じ場所で勤めたこと自体は、
変化が良いことであるという理以上のものをもたらしてくれたと思っているし、
上記だけでなく、例えば男女交際であったとしても、
じゃあ闇雲に交際相手を変化させると良いのかと言うとそんなことはない。
(かつ、この領域において意図的な変化を実践している人は見たことがない。。。笑)

 

わたしは、変化については以下のような場合においては
真面目に検討・行動するに値すると思っている。

・自分の人生において、課題意識があること
・自分の理想状態に近づくために必要なこと

(そのほうが面白い、など、いわゆるポジティブかつ楽観的な
変化を起こすたぐいの人間もいるようだが、私は基本的に
「課題解決ベース」の人間なので、その気持ちは正直あまりわからない)

 

周囲や世界を信用する、ということ


これが何より、すごく大事なことだと思っています。

 

ここまで四半世紀くらい生きてきて、
特に親元を離れて社会人になってから、だんだん、少しずつ、
分かってきたことなのだけど。

 

自分だけで考えきれるほど世の中は甘くないし、
かといって、
他人を頼っちゃいけないほど世界はいじわるでもない、
ということ。

 

世界はたぶん、想像以上に優しい。
そして、前に踏み出そうとする人に対しては
(いくらでもうがった見方は出来るけど)
世界は味方してくれる、と思う。

 

これは一種の信奉、なのかもしれないけど。 

 

 

おわりに

 

変化のしっぽは逃さないで、
でも見切り発車にならないようにする、
そんな超絶難しい人生の局面においても、
肩の力を抜いて、でも柔軟に、生きていきたいです。

いや、そうしよう。少しずつでも。

 

関連画像画像出典:https://www.pakutaso.com/20160703195post-8402.html

【徒然なるままに、2月。】自分の中の「鉱脈」を見つける、ということ。

※徒然と記録していたものの、放出していなかったものを、短いながらも放出します。誰かの何らか届くと良いなと願いを込めて。

 

自分の中の「鉱脈」を見つける

例えば、カラオケに行ったあと、お風呂の中で歌が溢れ出てくること。
例えば、お笑いを見たあと、些細なことでも笑みが溢れること。
例えば、読書をしたあと、文章が湧き出してくること。

 

こういう感覚を持つことはないだろうか。
私は、(上記のような行為が日常的でないからかもしれないが、)とてもある。


人というのは、周囲の環境や刺激に対する反応をすることで
日々を生きているのであるから、

ダイレクトな刺激を受けると、その方向につながる「鉱脈」のようなものが
自分の中を血流みたいに流れ出す感覚を覚えることがある。

 

だからこそ、日々のなかで「自分の中に新たな鉱脈を通す」
ということを意識して生きるのは大事なんだと思う。

 

その契機は別になんだって構わないのだけど、
できれば意図的に(向かいたい方向性に寄与するような、
あるいは好きと言えるような類の)そういう刺激を与えることが、
前向きに生きていくには大事なのではないか。

 

因みに、それをある人は「自分のご機嫌をつくる」と表現していた。
私はそういう言葉を、とても素敵だなと思った。

【徒然なるままに、2月。】美しいものを見る、ということの重要性について。

※徒然と記録していたものの、放出していなかったものを、短いながらも放出します。誰かの何らか届くと良いなと願いを込めて。

 

美しいものを目にすること

日々を漫然と生きすぎてしまうと、自分の延長線上でしか生きられない。

もちろん地を這うようなつらみや、糸を丁寧に紡ぐような毎日も大事だけど、
それと両輪で大事なのは、「美しいもの」「理想の延長線上にあるもの」
に折に触れて出会うことなのかもしれない、と思う。

 

きれいな女優さん、驚異的な活躍をするスポーツ選手、
息を飲むほど美しい景色、ぞくっとするような言葉、
理想とする家や暮らし、など・・・

ぴっと背筋が伸びて、ああ、こういう世界もあるのか、
人生もきっと捨てたもんじゃないし、ここに近づいているかしら、
と意識をぐっと遠くに持っていくことが出来る。

テレビなんかはその際たるだ。
映画だって小説だって、その役割を担えるだろう。

特に、限りなく現実主義者である自分にとっては、
そういう存在を意識的に摂取することが大事かもしれない。

 

・・・なんていうことを、
引越し先でテレビを付けたときに
ふと、思った。

 

以上、羽生結弦石田ゆり子のお話、でした。

【映画感想】「勝手にふるえてろ」を観て ~確かに松岡茉優は最高だ!だが、それだけではない!(ネタバレあり)

こんにちは。くろえです。


ところで新年早々、Twitterで「松岡茉優ちゃんがやばい」なるつぶやきを見まして・・・

綿矢りさ黄金世代ドンピシャのわたくし、参戦してまいりました! 

勝手にふるえてろ」@シネマカリテ!

www.youtube.com

 

評価

総合:★★★★☆ 4.5点/5.0点(2018年1位)
共感:★★★★★★★★★★ 10.0点/5.0点(!)
圧倒:★★☆☆☆ 2.0点/5.0点
ほっこり:★★★☆☆ 3.0点/5.0点

 

おすすめシチュエーション

  • 恋愛話できる友人と
  • これから恋愛したい異性と
  • 最近付き合い始めた恋人と
  • 最近マンネリ気味の恋人と

 

というわけで、以下、感想と考察を記載します。

 

映画概要

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綿矢りさの小説を原作としたラブコメ

雰囲気はポップでシュールでナチュラルで、
ミュージカル調なシーンあり、ほっこりするシーンあり。
こじらせててシリアスなネタも、随所に笑いを織り込んでいて飽きさせない。

ラストのシーンのこじらせ異常っぷりと、それを包み込む二の愛が、
もう本当に、やばいとしか言いようが無い!(語彙力が極端に不足していて悲しい)

(私は最後泣いた。)

 

登場人物 ~とにかくヨシカちゃんが最高!

下馬評通りといえばそうだけど、とにかく松岡茉優ちゃんが・・・やばい。
彼女だから成立した映画、と言っても過言ではない。

アンモナイトタモリ倶楽部が好き。過去に生き、現実から逃げている」
という主人公のキャラクターを、これでもかというほどに上手に表現している。

可愛すぎて息が苦しい。声も、仕草も、狂おしく可愛い。
こういうのを「演技がうまい」というんだろうな。

(細かいところで言うと、ふぁっくふぁっくふぁっく・・・!が可愛すぎて、
抱きしめたすぎる。)

 

そして、渡辺大知が全然好みじゃないけど、じわじわくる。
最初から最後まで、ずっとダサくて、空回りしてて、怪しくて、ちょっと変で、
でも器が大きくて、何よりヨシカのことが大好き。

(彼の気持ちはあまり理解できないけど、こういう人類が
世の中にいたらいいなあ・・・と密かに妄想したのも事実。)

イチもイチで絶妙に拗らせていて、これはこれでいけすかなくてよろしい。

 

ここからは中身の話。

 

不器用で拗らせているけどまっすぐな主人公の愛らしさ

自分への期待値が高いし、
周りへの期待値も高い。
人は好きだ。他者と交わりたい。
でも、人から傷つけられるのは怖いので、
自分で自分を判断し、値踏みして、
外の世界に出ていこうとしない。
一方で、自分語りや持論の展開は超得意。

 特に妄想癖を発揮しまくっているシーンからは、
「いやいやwwwそこまで不器用か!?」
と思ってしまう程度には、不器用だけど、

人は初めてのことに対してここまでピュアで繊細で猪突猛進で、
他人との交わり、主体者として世界に降り立ったときに
こんなに醜くも美しくなるんだ、と思い、
ただただ心が震えた。。。

 

過去の自分との類似性

それと同時に、まさに自分だ・・・と感じた。

自己肯定感が低いのに自尊心は高いところが、
学生時代~社会人初期の自分に重なることこの上なし。

高校時代、上様(世界史教師♀)が好きだったのは
もはや「そういうキャラ」だったのと同じように、
天然王子は「自分が恋している」ことのアイコンであったのだろうなと。

他人を自分のアイデンティティの一部としていわば「利用する」やりくちは、
すごく理解できるし、人が生きていくために必要な要素だなと思いつつ、
ただただ心が痛かった。
(視野見、できるようになるよね・・・わかる・・・)

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉を強く感じた。

 

「イチを選ぶか、二を選ぶか」という問い

「追う恋愛、追われる恋愛なら、どちらが幸せ?」
という問いは、いわば誰もが対峙する問題であるように思う。
また、過去に似た経験をしたことがある人は少なくないだろう。

こんなことで(と言ったら失礼だが)、人の心はズキズキと痛むし、
それだけ人間関係というのはシンプルだけど難しい。

現実と、生身の人間と、否定されるかもしれない恐怖と
自由奔放に振る舞いたい欲求の間で揺れ動きながら、
それでも人と交わることは、
きっとほんとうに大変なことだから。

 

「名前のないわたし」について

そんな拗らせ系のヨシカに転機が訪れる出来事、それは、
片思いのイチと意気投合してまさに天にも登らんとしている時に発覚した、
「イチがわたしの名前を覚えていない」という事実。

ここに彼女の「イチ」への期待値と、
世界と交わらないでい続けたことの罰、のようなものが
一気に表出している。

そして、彼女の構築していた空想世界が瓦解していく。ああ・・・

(このシーンで、この映画のテーマは「自己との対話」であり、
その中に空想と現実世界を入り組ませるという構図だったことに気付く。)

 

私はいま「名前のない自分」であることに、
さほど抵抗はない程度には他人への期待値が落ちていると感じるけど、
そのことにショックを受ける彼女を見て、
「だから人は世界と交わりたいと思うんだなあ・・・」
としみじみ思った。

 

今後の自分への期待

私は今年の目標を「傍観者から実践者」への移行である、というのは
以前のブログにも記載した通り。

で、上記にも記した通りだが、この映画は、
「現実逃避に近い恋愛(というか妄想)の世界ではなく、
いかに自分の世界(人生)を主体的に生きるべきか」
というテーマだったのだと思う。

 

名前をちゃんと呼び、人と話し、誰かを好きになりたくなる。
不器用でも、世界と交わろうとする。

(もちろん、最後まで不器用なので、それは「交流」ではなく、
自己との対話であるのでは!?という違和感は残り続けるわけだけど・・・)

 これは私の今年の目標でもある「傍観者から実践者へ」というものにもぴったりで、
先人を見た後輩のような気持ちになった。

 

自分の殻にこもり、他人を信じず、自分への期待値が異常に高く、
世界との交わりを避けてきた主人公の姿は、自分のこれまでの姿と重なり、
そして最終的な帰結は、私の思い描く未来でもあるわけで、

私もこの世界でいきたいって思ったし、そうできるような選択を(キャリア・恋愛・人間関係、生きるすべてにおいて)しよう、
と前向な気持ちになれた作品だった。

 

というわけで、この映画、おすすめです!
(特に女子校・男子校とかで拗らせてしまった経験のある人は感じる所も多い作品です)

furuetero-movie.com

  

おまけ ~恋って何?

「恋」が分からない。

仕事柄か、性質ゆえか、
常に(間柄のラベリングは問わず)異性と何らかの関係は持っている方だし、
仲の良い間柄であれば、
「愛おしいなあ」「大事にしたいなあ」「交わり続けたいなあ」
と思うことはしばしば発生するといえば、する。

ただ、友人からは
「(異性間交流を)目的的で殺伐としたものと捉えすぎなのでは?」
「そうやってなんでも意味づけしたり言葉にしようとすると、
それは向き合いきれないし表しきれないし、結局辛いのでは?」
みたいなことも言われた。

それは、「大いなる安心感」を得たことがないからかもしれないし、
「誰かの期待に応え続けたい(そうしないと不安)」という
ある種の長女精神ゆえなのかもしれない。

でもだからこそ、この映画の「二」のような
「すごく辛くて面倒くさくて、よくわからないけど、好き!どこまででも走っていけちゃう!」
みたいなまっすぐな気持ちに憧れる。
だからこの映画が好きだったのかも。

岡崎京子でも読み直すか・・・
(だからこの辺が拗らせの所以なんだよな)

 

f:id:cloalien:20180109064759j:plain映画館にアンモナイトいた。@シネマカリテ

 

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さて!今日から仕事始めです。
(12/27に仕事を納めて、約2週間ぶりの出社!)

2018年も頑張っていきましょう~!

【毎年恒例】2018年目標 ~自分を活かし、物事を良くする「実践者」になる

皆様こんばんは、くろえです。
(もうそろそろ胃もたれですね、分かります。)

毎年恒例、スキー旅行からの父方の実家に帰省しています。

ちょっと悲しいことがあって執筆意欲が湧いているので、
本日(?)3本めの記事をアップすることにします。

というわけで、もはや定例ですが、2018年をどうするかについて。

振り返りは未来の自分をよりよくしていくための処方箋のようなイメージ。
目標は落ち着いて未来を見据えるため、年中を落ち着いて生きるため、
変化を起こす指標とするため、とりあえず方向性だけでも。

 

2018年の目標

2017年に「自分にとっての心地よさ」を定義できたので、
2018年は自分が心地よい環境や自分をを活かせるような環境を作り、
「傍観者」から「実践者」になること、を目標とすることにした。

 

実現に向けて取り組むべきこと

以下に取り組んでいこうと思う。

 

  • 思いを形にする。

私の場合、一番大事だと思っているのは、わかりやすく文章にすること。
アウトプットをすることによって思考は進捗するし、その手段は、
図でも絵でもなく、まずは文章だなと思っている。

現段階では、情熱で大量の文章を書くことはできるが、
それをいかにわかりやすく伝えるのか、というところへの思慮が圧倒的に不足している。

きれいな文章に触れ、とにかく書き、誰かしらの心をゆり動かす
(つかむ?はっとさせる?納得いく?なんでもいいけど)ような文章を紡ぎたい。

(そして、1人で文章を揉むのが苦手なので、これ手伝ってくれる人見つけたい・・・)

 

  • ブログを更新する。

上記を実現するための手段は、ブログである、と認識している。
(仕事でのレポートなどももちろんあるけれど)

継続は力なり、と言いますが、これはずっと続けていきたい。

これについては以下のような役割を意識してやっていこうと思っている。

<対他人>
・関心を持ってくれた人へ自己紹介する場所
・共鳴の発生する場所
・自分の研究発表的な場所
<対自分>
・人生を置いておく場所
・立ち返り、自分自身を愛することのできる場所

たくさん書いて、できれば色んな人からフィードバックもらいたいです。

その実験場として、ここを捉えています。よろしくご贔屓に・・・ 

 

  • 仲間を作る。

これは前の記事でも触れたかもしれないが、
自分が共感できる、尊敬できる、仲間だと思える人を増やしていくことは、
自分の生きる意味そのものでもある。

相互にけなしあう、けん制しあう、ディスりあう関係性ではなく、
尊重しあい、単なる甘やかしではない信頼・安心を持ち、それにより自分を信じられるような、
そんな仲間と共に、人生を推進させていく、そして成果を出せるような1年にする。

 

  • 自分を生かせるような環境を整える。

「開放的なストイックを実現できる環境を作る」、ということに尽きるかなと思う。

それが現在のところ実現できていないので、何かを変える必要があり、
このことに取り組むのは、自分の人生にとっても優先度が高いと認識している。

 

人間が変わる方法は3つしかない。1つ目は時間配分を変えること。2つ目は住む場所を変えること。3つ目は付き合う人を変えること。どれかひとつだけ選ぶとしたら、時間配分を変えることが最も効果的。 

 

これは大前研一が言ったことだけど、まさにその通りに思う。

すなわち、

①時間配分=どんな仕事をするか
②住む場所=どこに引っ越し、どんな生活を組み立てるか
③付き合う人=職場、恋人、友人などの関係性

をどのようにチューニングするか、ということかなと思っている。

以下で少しだけ詳しく見ていく。

 

①時間配分

私は前回記事にも述べた通り、自分の関心領域においては異常な執着と粘り強さを発揮できるということが明らかになっている。
これまでの仕事における反省を生かし、自分をより生かせる方法を考えると、自分の強い部分をいかに仕事に織り交ぜられるか、ということに尽きるように思う。

まず、使命感を持って、自分を生かしたい、と思えるものを仕事にする。全部ではなくてもいい、少しずつ。
それから、自分一人で抱え込まないようにすることで極力物事が停滞する時間を減らす。
※ここについては去年までは「上司の時間を使う」ことが課題として設定されていたものの、これは課題とはみなさない、という意思決定。

 

②住む場所

今年の2月で現在の家の契約が切れる。
4年間住んだ大岡山という地はとても居心地が良かった。

しかし、そろそろ環境を変える時期だ。妹も社会人になる。
というわけで、引っ越しを機に、自分の心地よさを定義し、それを具現化する、ということをやっていきたい。

私の周りの人はご存じだと思うが、私はとにかく家にいることが好きではない。
外で疲弊し、休むために外に出る。これは非常に非効率だと認識している。
原因は、住環境が(自分にとっては)あまり良いものではなかったことに起因する。

だから、次の引っ越しを通じて、
自分の身の回りに置くものにもこだわりを持ちたいし、
自分にとっての心地の良い場所・帰る場所を持つことで、
流動性のある/思考する/変化する自分だけではない、
そこに存在する自分そのものを信じられるようになりたい。

 

①に関連することではあるが、これを機に暮らしの習慣も少しずつ変えていきたいとも思う。以下のような感じ。

・家でご飯を作る(それが楽しくなるリビングを作る)
・家で勉強する(それがやりやすい自分の部屋を作る)

 今より楽に生きられる土壌づくりをすることが、自分のやるべきことだと考えている。
(この辺は、我が心の友であるさとじゅり氏に多大な影響を受けている)

 

③付き合う人

今までは人間観察、という意味付けのもと、非常に様々な人間と会ってきたし、
そうすることで自分をすり減らしてきたと共に、喜びも得てきた。

ただ、そろそろ(自分が気付いているもの、そうでないものを含め、)
ストレスフルな時間を減らすほうがいいと感じており、
そうすることで本当に取り組みたいことにまっすぐ向き合えると考える。

対話が徒労になるより、対話が希望や前進につながっている方が、ずっと生産的だからだ。

例えば初対面×事前情報のない面会を減らす、など。これも一種の意思決定。
どうしてもうまの合わない家族の構成員との面会も、極力減らしていく決意をした。

 

ただ、強調しておきたいのは、
自分に感心・共感を持ってくれた人(特に思想の面で)や、
自分と同じような課題意識を持って人生を生きている人には、
どんなにタフでも、きっちり向き合いたい。
そのための人生だ、ということである。 

 

以上が、2018年の所信表明である。

2018年の終わりには、
「失うものもたくさんあったけど、ちゃんと大事な仲間がいるよ」
と、年初の私に言ってあげられる自分でありたい。

 

特に仕事領域における目標

どんな状態になるか
  • 自分が好きな領域で、ずっと考えても苦でない領域のお仕事をする
  • 仲間を増やすことで、自分の思考をもっともっと促進させる
  • 勉強することも、仕事することも、全部がワクワクする状態を作る
  • 自らの仕事をライスワークだけではなくライフワークにする
どんな仕事をするか
  • ミクロ(従業員の幸福度)とマクロ(企業のミッション・方向性)をつなげる助けになるような方法を考える
    =会社の方向性に自分のやっていたことをアラインさせる仕事?
    (どちらへのアプローチなのかは要検討)
  • 事業戦略を見据えた組織戦略(これをどうやってうまいことつくるか、という仕組みの部分)に思いを馳せる機会を増やす
最終的に自らにどんな変化を起こすか
  • 上記の環境を作ることで、コミットメントを上げる
  • 淡々とした人から「想い」ドリブンの人に回帰する
  • それらによって「傍観者」から「実践者」になる

 

最後に

いまも、いつも、支えてくれる、私の周りにいる皆様、
私もいっぱい返せるように頑張りたいので、
是非とも!今年もよろしくお願いします!

新年の挨拶のイラスト(女性)

【毎年恒例】2017年振り返り ~多動の先にあった「知」

こんばんは。

中国研修の行き帰りの飛行機の中で、自分の1年間の思考を垂れ流しきった私です。
(これの前に上げてたブログたちはそれです)

これでやっと2017年の振り返りができるぜ・・・!

 

総括 ~2017年はどんな1年だったか

私のこの1年を一文字で表すとすれば、「知」になるかなと思います。

3か月単位くらいで来る激動と自己内省の繰り返しにより、
自分を知り、自分に対する期待値が定まったように思っています。 

f:id:cloalien:20180102005836p:plain

 

起こったこと振り返り

この1年を、トピック別にかんたんに振り返ってみます。

 

  • 恋愛への危機感からの婚活→挫折

ゆるやかな心の平安と漠然とした不安のなかで、
「いやこれこのままだとまじで結婚できないわ・・・」という危機感と、
正直誰でもいいんじゃないかという楽観により、突発的な思いつきから
婚活(結婚相談所への登録→お見合い無双)を開始。

「わたしはそもそも自己開示のハードルが高く、かんたんには仲良くならない」
+「近しいコミュニティの人としか深く交わるインセンティブを感じない」
=「(現段階では)婚活による結婚(結婚を目的とした親睦)というシナリオは無理」
という結論に至るなど。

(よくよく考えたら歴代彼氏氏も近しいコミュニティの人しかいないし、
どうして気付かなかった感しかないわけだけど!)

まあかなり高い買い物だったけど、良い学びだったってことで(言い訳)。

 

で、ここから先は仕事関連。
どうしてもマインドシェアがそっち中心。

 

  • 営業~デリバリ一連の担当経験

営業~提案~見積もり交渉~納品まで、自分の提案した案件をデリバリした。

自分の納得いく形でプロジェクト設計をして、
押し付けではなく納得感のあるプロジェクト設計ができたのは、
自分にとってはいい経験だったなと。
お客様からの期待値は高かったものの、それだけ頑張ろうと思えたのは良かった。

 

自分のケイパビリティから外れた(いわゆる苦手なタイプの)案件も。
精緻な作業が苦手な私がひたすら進捗管理と間違え探しをするPJTだったわけだが、
PJT本筋とは他のものに目的を置換して
(今回の場合は後輩との協業やPJT設計の訓練)なんとか完遂。

(苦手な領域をいかに乗り越えようか頭を使うのはよい経験だった一方で、
やっぱりバリューは出にくいので、今後は極力自分に回ってこないようにしようと願ってはいる。)

 

  • いくら楽しくても限界を超えると死ぬ、という学習

9月の繁忙期に大量の案件依頼。

自分の興味範囲の領域だったこともあり、自分を過信してPJTを詰め込んだところ、
耳とか胃とかが変なことに。
耳が聞こえない、とか、原因不明の吐き気とか、正直、怖かった・・・。

「いくら心根は元気でも体はおかしくなることがある」
という自分の身体的限界の存在を知った。

そして、無理し過ぎは周りにも迷惑をかける。

 

  • ひとりぼっちはうまくいかない、という経験

そして、身体のおかしさを少し引きずっての、これ。

(社外の)上司との信頼関係構築および情報連携に失敗し、
精神的不安定状態となり、鬱症状、過食嘔吐などの症状を発症。

私にとって「人とのつながりや信頼関係」は絶対的な仕事の地盤であり、
他の目的などに意味づけすることはできなかったので、
近くにいる他の人(上司や先輩など)に助けを求めて、なんとか完遂した。
(あれは今年一番辛かったかもしれない。。。)

自分は1人で仕事をするのが苦手であるということと、
それ以上に一緒に仕事をするうえでは心理的安全が担保されることが
何より重要であることを知った。

※上記2つについてはブログに言及があったので、こちらもどうぞ 

 

  • 「稼ぐ」ということへの関わり方

「ライスワーク、ライクワーク、ライフワーク」の話とか、
友人が突如としてネットワークビジネスにハマってしまった話とか、
ビットコインで大儲けした周囲の人の話とかを通じて、

自分の労働を何と定義し、何を捧げることによって
お金を得るのか、ということを考える機会が多かった。

2個前のブログで「お金の使い方に思い切りがない」話をしたが、
お金は自分の心地よい範囲でいいや、という諦めもついたので、
ガンガン稼いでいくというよりは、自分の思考が豊かにしながら
いかにそれに見合ったと思えるようなお金をいただくかを考えていく必要があるように思う。
(これは2018年への宿題でもある)

 

  • 新しい世界が来るという危機感と期待

現代の若者の行動特性をデジタルデバイスの利用から探る案件をデリバリしたこと、
先週の中国研修in上海で中国の社会が劇的に変革していることを思い知ったこと、
などを通じて、
世界はものすごい勢いで変革していて、日本は我々の意識と関係なく、それに飲み込まれるんだなあ
としみじみ実感しました。頭を鈍器で殴られたような衝撃。

日本人も中国人も、享受している恩恵は同じでも、
向かっている社会の方向性が違う気がして、くらくらするような思いがしたと同時に、
そんな日本で生きていく私/私たちが、
どのような視座・立場・覚悟・目的意識で日本や会社と向き合うかについては、
本当にちゃんと考えないといけないなあ、と思った。
(これはもうちょっと整理してブログ書きます)

 

何が分かったか

4年間社会人として生きてきたなかで、

  • 自分がどんなこと/状態を好むか
  • 自分にどんな行動特性があるか
  • 自分がどんなことができる/できないか
  • 自分はどうしていくべきか
  • 自分は何のために生きているのか

ということが、ようやく、徐々に輪郭を帯びて理解できてきたような気がしています。(もちろん暫定解だけど)

 

上記の内容を少しだけ書いてみます。

 

  • 自分がどんなこと/状態を好むか

思考が捗る状態。
自分で考え、それを(文章かオーラルコミュニケーションで)表にだし、
相手からのフィードバックを取り込みながらさらに前に進めていく状態。

※ただし、捗る思考の領域に関しては割と限定的なのは、
ブログのネタに偏りがあるところを見ても明確。 

 

  • 自分にどんな行動特性があるか

気になった仮説があったら、妥当性を計測する前に、
まずは大量にインプットを収集する。

※ただし、現在はその「分析」のところに課題がある。
折角収集した大量のインプットをうまく整理・構造化しきれていないので、
自分でも改善しつつ人の力を借りつつやっていく部分でもあると認識している

 

  • 自分がどんなことができる/できないか

やれると思っているのは、
自分が貢献したいと思う相手の役に立とうと思い、相手を理解しようとすること。

特にインプット収集や自分の解釈を相手に伝え、
課題特定から解決に向けての方策に対して正のスパイラルを回すこと。

おもに仮説の精緻化や意思決定支援については、
特に自分の考え詰めてきた領域におけるそれはやっていきたいなあと思っている。

ただ、他人が絡めば強いものの、
自分のことや、自分で意思決定を下すのがめっぽう苦手。

仮説を立てて、それを一次インプットにより補強・精緻化し、
友人などの力を借りながらそのインプットを解釈し、
考察(つまり整理・構造化)していく、というのはできるものの、
結局意思決定ができない。つまり、自分単体で成果を上げることは難しい。

(だから投資とか婚活とか転職なんかもたぶん苦手)

それから、長くことにあたるのは、志や想いがないと難しい。
基本的に刺激反応的にさまざまなことをやっているので、
長く続けるためにはそこに対する特別な思い入れが必要。

で、そのために必要なのは、自分や他人への適切な期待値。
基本的に自分への期待値が高いので、キャパオーバーなことを引き受けたり、
自分でコントロールしないうちに倒れ、無自覚のうちに(あるいは自覚的に)身体を害したりする。

コントロールする仕組みを作ったり、
コントロールを支援してくれる他者が必要だということは本当に痛感している。

 

  • 自分はどうしていくべきか

意思決定が苦手なのは、今まで経験がないということに加え、
やはりどこか物事に対して(自分の人生ですら)傍観者的だったということに端を発するように思う。

いまは他人に決めてもらったり、手伝ってもらったりしながら、少しずつ自分のことも決めていきたい。

※それをどこから手を入れていくのかはわからないが、そのカギになるのは「自己肯定感」と「自己尊厳」であるように思う

自分に対する期待値が適正化されていき、それに伴い他人に対する期待値も
じょじょに適正化され、自分の心の安定がもたらされるようになったように思う。
他人に無茶な幻想を抱いたり、誰かが何とかしてくれるだろうという期待値は抱かなくなった半面、
「これは私のやるべきことではなく、XXのやるべきことなのではないか」という風にもなったのが今年だったかなと。

 

  • 自分は何のために生きているのか

これがクリアになったのが、自分にとっては一番大きかったと思う。

これは後ほどゆっくり書くことにするが、
私は「人生の仲間を作る」ために生きている。
どんな立場の人とも、「お互いにお互いを良くしていける」関係性を求めているし、
そういう仲間を作ることが人生の目的だと思っている。

だからこそ、そういう仲間と一緒にいられるような環境を整えるのが大事そう。

 

・・・っていうこととかを自覚したってところまでが振り返り。

次の記事で2018年について書こうと思います。

 

追記:仕事の振り返り

事実に基づく振り返りもしておこうかと・・・

  • 1月 新上司に心酔
  • 2月 元カレロスからの脱却を図る、PJTは頑張る
  • 3月 納品。とにかく仕事を頑張った
  • 4月 上司ロス、燃え尽き症候群
  • 5月 なんとか持ち直すものの、だれ気味なのをなんとか奮い立たせる
  • 6月 初の大量情報処理案件、初の部下、婚活開始
  • 7月 案件疲れ、婚活疲れ
  • 8月 片思い王子的な人の低血圧に勝手に振り回される、PJT頑張る
  • 9月 PJT充実するも多忙による体調不良、自分の力不足を思い知る
  • 10月 上司との連携不足による精神不安定、退職を覚悟する
  • 11月 若年層行動調査PJTでの成功体験
  • 12月 人生が迷い子→China Tripで方向性が少し見える

【思考日記】ロールモデルは、要らない。 #去年の思考、延長戦

こんばんは。

あけましておめでとうございます、くろえです。
今年もどうぞご贔屓に。よろしくお願いします。

.

昨日思考の掃除をしていたわけですが、
紅白の尊い人たち(星野源および岩沢厚治)に目が奪われ、
紅白のあまりの変わらなさに日本の斜陽を憂い、
Eテレのあまりのくだらなさに圧倒され若干ほっこりし・・・
とかやってるうちに、去年のうちに放出できなかったのを、
思い切って排出しておきます。

 

去年、自分の仕事について考えるなかでたどり着いた
にわかに非常に尊敬している知人の記事

courage4u.hatenablog.jp


こちらの記事を見て、思ったこと。

この記事に対して、そうだよなあと思ったので、
自分の立場を記載していくこととする。 

 

わたしにロールモデルは、いない。

現在所属している会社の部署には、女性が私を入れて5名しかいない。
(割合としては1~2割くらいなのかな・・・?)

そのうち自分よりも立場の上な同性は1名。
すごいなと思うけど、理系院卒、パーソナリティもケイパビリティも違いすぎて、
正直全然真似できないだろうし、やり方も全然わからん、って感じの遠い存在。

このように考えると、これまで所属したいかなるコミュニティのなかにも、
(少なくとも同性で)「こんな風になりたい!」と思った先人は
後にも先にもいなかったように思う。

どちらかというと、「社会で活躍しています!」「プロです!」
みたいなことを標榜する人に対する違和感が強いし、
まして自分の母親のように「専業主婦でヨガしてジムして資格とって
友達と楽しく生きてます♡」みたいな人もロールモデルではないと認識している。

 

わたしにロールモデルは、いらない。

私は正直、これまで「真似したい!」「こんな風になりたい!」
という人に会ったことはなかったように思う。

もちろん、尊敬する人はいる。
強くしなやかに生きている親戚、職場にいる先輩、好きな友人など、
自分よりもはるかに人間ができていると思うし、
あの人たちのような大きな器になりたいと憧れることはある。

ただ、その生き方をなぞらえたいかと言われれば答えは「否」だ。
私にないからこそ憧れるわけで、正直自分の延長線上に彼らの存在があるとは思えない。

 

それとは別に、「共感」タイプの他者は存在する。
例えば、会ったことはないが、下田美咲様とまきむう様のような
リベラルで結果を出していて、自分の弱さを出しながらも、自分の強さを持っている芯の強い女性には、
思想の面で共感する部分も多いし、その生き方やライフスタイルには確かに心底憧れる。

ただ、それもまた、「彼女たちのようになりたい」ということはない。
ケイパビリティも顔面偏差値も出自も全く違うからだ。

ここまで見ていくと、私は共感することはあれど、
ロールモデルを持つという思考自体をそこまで持ちあわせていないように思う。

 

上記のように、私自体がロールモデルになるイメージがないのは、

  • 自分の尊敬する人は自分に持っていないものを持っていること
  • 自分の共感する人は、思想が近くても個体として持っているものが大きく異なること(私のような違和感・課題意識ドリブンで生きている人間は特にそうなのかもしれないと思う)

の2点が理由であるといえる。

 

わたしはロールモデルには、ならない。

そういうわけで、誰かの生き方を踏襲して自分を高みに昇らせていくような
生き方を志向していない私は、当然、「誰かのロールモデルになろう」とは思わないし、
なるために何かをするということも多分しないと思う。

※特にこの(コンサルタントなどのプロフェッショナルと言われる仕事)界隈には、
「自分が女性の生き方のロールモデルになるんや!」みたいなことを言っている人がいるし、
自分がそういういわゆるプロフェッショナル的な振る舞いを求められる仕事をしていると、
そういう期待をされることもあるのだが。

 

それは、自分が見本になれるような項目はないと思っているから、
とかいうネガティブな理由ではなく、そういう考え方がしっくりこないから、
というだけだ(もちろん、そういうのもあるかもしれないが)。

 

ブログからの示唆 

もしかしたら上記の『重要な他者』という傾向がとても強い人は『ロールモデル』というものをそもそも意識せずに働くことができるのではないでしょうか。

そして同時に、『重要な他者』という傾向がとても弱い人はそもそも『ロールモデル』のような他者がいても影響を受けにくいので『ロールモデル』がいてもいなくても同じなのではないでしょうか。 

これは完全に仮説ですが、もしそうだとしたら、私はこう考えます。

『重要な他者』の傾向がとても強い人ととても弱い人向けには「そんな我が道を創ってあげられる会社の風土」が必要なのかもしれませんし、

どちらにも属さない人向けには「信頼してくれてかつ尊敬できる存在が常にそばにいてあげられる環境」が必要なのかもしれません。

ロールモデル有無適性論』とでも言うのでしょうか。

 

これに近いのかなと。

私はかけがえのない大事な人に貢献できればよいわけで、
そのためにロールモデルは必要ない、ということなんだなという感じ。

---

社会の中で「女性の社会進出」・「女性の活用」などが取り沙汰されていますが、
まあ、そんな別にたいそうなことじゃなく、意識を高く持たないといけない、
みたいな同調圧力はいやだなーと思っているし、
そんなんなくても別にこの界隈で生きていける気がしているし、
そういう社会であって欲しいなー、なんて思ったりする。

 

ロールモデルを持て」「ロールモデルになれ」と言われて
少し生きづらい思いをしている人がもしいたら、そういうのもあるよと。

【思考日記】購買行動とか、過食とか #今年の思考、今年のうちに

こんばんは。2017年も終わりますね、くろえです。

ここで、突然ですが2017年に書いていたブログの下書きを
一気に公開することとします。
(今年の叫びは今年のうちに、ということで・・・。)

 これは12月の中盤に書いたやつ。

 

最近感じた違和感

私の周りの方々はご存知かも知れないが、
私は自分の友人が好きだし、それらと会って話をすることもとても好きだ。

 

だが最近、(特に出自が共通している古い)友人と会うときに
一抹の違和感を覚える機会が増えてきた。

もちろん、その後歩んでいる道がそれぞれであるから、
そういう感覚を覚えるのは当然なのかもしれないが・・・。

特にお金の使い方(金銭に関する価値観のズレ)についてである。


それだけの話なら、見なかったことにしてしまえばいい話なのであるが、
お金や購買行動に関する価値観は、自分の人生を考える上で
不可避な気がするので、書き連ねてみることにする。

 

何に違和感があったのか

旧友と会った。もちろん旧知の仲なので、楽しい時間にはなるのだが、
ちょこちょこ価値観・・・というか、お金の使い方の違いが気になる。

例えばボーナスの使い方。貯金!と言っていた友人もいたが、
バッグや高価なアクセサリー、靴などに思い切ってお金をかけるそうだ。
翻って考えたときに、自分はどうだろうか。

 

私のお金の使い方はどうなっているのか

多分お金は使っていないわけではないが、以下のような特徴があるようだ。

  1. 何を買うにしても、高いものは買わない。

    値段は割と比較して安く変える方法を探す。同じ体験なら安いほうがいいし、逆に安くいい体験ができることに喜びを感じる。5年前くらいのカカクコムユーザのユーザ行動みたい。

  2. 5,000円以内のものなら割と躊躇なく買う。
    洋服にせよ、小物にせよ、セミナーなどにせよ。

  3. 消え物を買う。
    お菓子とかご飯とか。

  4. 自分の身体のメンテナンスのためには分別ない。(高くない範囲で)
    サプリや薬、整体、パーソナルジム、エステ、スポーツなどはやる。
    中長期的な、というよりは短期的なニーズを満たしている感覚。

  5. シリーズでコンプリすることに燃える。
    最近で言うと、ガルボを全味買う、糸井重里の本をシリーズ買い、など。

上記を見てみると、どうやら手元に残す、とか、ひとつのものを大事に使う、
というところにフォーカスが当たっていないようだ。

 

働いている心理は何か

以下のような心理が働いていると考えられる。

  • お金を使うことに罪悪感がある。

お金を得るのは大変だ、という価値観のもと育てられてきた。(その割に家系は元財閥の末裔で割と裕福だったので、ねじれの構造になっているのだが)だから、お金を使うという行為自体に罪悪感がある。

  • お金を使うことに特別感を求める。

少なからず、お金を払うことは期待値を設定することであり、その見返りとして適切だと考える体験が得られることを求める。特に高額な買い物は、特別に期待値が高まってしまうのだが、そこにうまく意味づけができないので、その特別カンを避けようとする。

  • 残るものに対する恐怖感。消えもののほうが気が楽。

残るものには魂が残る。たとえば元カレがくれたプレゼントや、片思いしていた男性がくれた時計など。ものは忘れていたことを思い出すトリガーだ。幸せな思い出だけじゃなくて、自分の人生のふがいなさを認識させられる。ものが持っている歴史そのものに対して怖さを感じているのかもしれない。

  • 意思決定に慣れていない。

今までの人生において、大きな意思決定をする経験に乏しかったという自覚がある。単純に、何かを決めるということに慣れていない。いまの自分が受け取りきれる幸せ(サイズ感として)を享受しようとしていて、中長期的な幸福感を許容できていないからなのかもしれないとも思う。

  • ストレスを買うくらいなら、買わないほうがマシと思う。

上記のように、購買行動に対して精神をすり減らすタイプなので、ショッピングなどに行くと非常に疲れる。そうすると、買わない自分を想像して納得させる傾向がある。
マインドシェアが高くなり、ストレス源になってしまう。そういうわけで、投資などもあまり好まない。元本保証の定期預金くらいで精いっぱい。

 

困ることはあるのか

私は、この傾向はあまり良いとは思えない。買い物というのは一種の意思決定行動である、大きな意思決定をできない、ということはもちろん生活だけではなく、人生全般に置きな影響をもらたすと考えられる。
また、私は「何かを長く大事にする」という思考回路があまりないんじゃないかと怖くなる。そのことは、自分のこと、あるいは自分の周りにある大事なものを大事にできないかもしれないという可能性を秘めているような気がして、自分に対して不安な気持ちを持っているのも事実だ。

 

同じことが「過食嘔吐」のロジックにも言える気がする

ふと、過食嘔吐のロジックに通じるものがあるのではないかと思った。
過食嘔吐は、上記の心理の複合体として表出する現象だとも考えられる。

  • 目の前にある衝動からは逃れられない
    辛いことから逃げたい、美味しいもので身体を満たしたい、周りの期待に応えたい(「おいしくたくさんご飯を食べる健康的な私」というキャラを演じると生じる感情)

  • ふと明日のことを考えて、不安になる
    身体が醜くなる、人から嫌悪の目で見られるかもしれない、というリスクを負うことに(食べてから)気づく。そうなると潜在的な不安は止まらない。

  • すべての嫌なことをなかったことにするために、吐く

いずれも短期的な思索とそれに対する反応の結果、起こっていることだ。

 

悪いことなの?

これが必ずしもいけないことだとは思っていない。
自分から不要なものを摂取したとして、それを水際で防ぐのが嘔吐なんだとしたら、
断捨離とかに近い概念のようにも見える。
どちらも、自分に必要ないものを自分から手放す行為。
問題があるとしたら、「後先を考えずに衝動や外部からの要求に過度に反応し、突き動かされてしまう」方だ。

(ただ、その頻度を少なくしていかないと、何らかのダメージは必ずある。
過食嘔吐の副作用?として、逆流性食道炎などが挙げられる。胃や食道の痛みはくせになるので、普通によくない。吐けばいいやと体の中にあらゆるものを吸収するのはおすすめしません)

 

無理をしないこと=健全性を大事にすることが大事。

私のようなパーソナリティの人間は、
つい外部の期待や言われたことを優先して、
後々よくわからんことになる、という経験があると思う。

そこにつける処方箋は「無理をしない」ことなんだけど、
それは限りなく難しいことなので、自分でなんとかしようとせず、
そういう性質をきちんとそれを受け止めてくれる仲間を作ることしかない、と思う。

 

購買行動に戻ると・・・

最後に無理やり購買行動に戻って考えると、
最初は正直ちゃんとしなきゃ、とか、高いもの買わなきゃなのかな、とか、思ったけど、
購買だって無理して周りに合わせる必要はないんだな、と腑に落ちた。

とはいえ、大事にしたい人に関わるものについては
自覚的に、お金をちゃんと使えるようになりたいなと思った。

 

---

あんま明るい話ではないけど、なんとなく、あの経験や感じた疎外感というのは、
私の中の大事な要素でもある気がしたから、残しておこうと思う。
じょじょに、自己愛が少ないのを解決していきたい、という決意と共に。

どう森ブームに、思うこと。(その2)~ 流動性の高い社会をしあわせに生きる方法

こんばんは。
再び現れました、くろえです。


さて、先程の記事では、SNS上でのシェアによって
どう森が流行していることを実感した、
というお話をしました。

(→以前の記事はこちら:どう森ブームに、思うこと。(その1)~ SNSの影響の大きさを実感した話 - コスプレでコンサルやってますけど

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今回は、この続きのお話をしようと思います。

 

情報過多の世の中で、何を追い、何を知るのが幸せなのか

 

私たちはスマホを手にしたことによって、
圧倒的に情報過多な社会を生きていくことになった。

グローバル化・デジタル化のなかで匿名性が高まり、
個々の人格が次々と代替可能なものに見えるような世の中で、
新しいムーブメントの波にのることでなんとか息をしている。

上記の例もわかりやすく、SNSで拡散した情報が
消費者の行動に伝播していく例として捉えることが出来るだろう。

 

そんな時代のなかで、私たちは時代の波を捉えていることに安心し、
またどこかで、周囲からの影響を受けることに辟易としている。

自我なんて本来的には存在していない、とも思える社会のなかで、
自我を追求しろなんて言われてもよくわからないし、
とはいえ周りに合わせて踊り続けるのは難しすぎる。

 

自分とよく似た属性の個体を集めたところで泳ぐのは比較的容易だが、
だからといって外部環境を見ずして狭い世界で踊り続けていると、
そこにあるのは疲弊と空虚と、茹でガエルになった自分自身だ。

 

じゃあ、どうすれば、「自分」を守りつつ、疲弊せずに生きられるのだろうか。

 

分かって踊る、そして都度達観するという姿勢

 

ここで大事なのは、「主観的満足度を高めること」ただ1つだ。

だって、社会は高めるゲージの尺度すら与えてくれないから。
いい会社だって変わるし、貨幣の価値すら国家に振り回されるし。

とすると、数少なくわかっているのは、
「どうせ踊るなら真剣に!」ということだけだ。
(やりきった感、充実感などの主観的満足が大事、というところから)

 

ただ、流れの早い現代社会においては、
「何を踊るのか?」ということすら問わざるを得なくなる。

とすると、

  • 「踊るものを決める」
  • 「短く(若干狂気的に)踊る」
  • 「短いスパンで(その結果を)振り返る」
  • 「次に踊るものを探す」

というスパイラルをこまめに回すことこそが、
茹でガエル的状況を避けながら楽しく生きるコツなのではなかろうか。

(これ、書いてみてビッチ的だなと思ってドン引きしたけど、
こういうことをしないといけない社会なんだろうな・・・とも思う)
(因みに、家族という血縁に伴う仲間の概念については、
この限りでない、という内容の記事はいつか書く・・・いつか)

 

ずっと何かをしなくてはならないという強迫観念の時代の終焉を、自分にとって良いものとするために

 

社会の変化が早くなったことに伴って、
ますます「ひとつのもの、こと、ひと」に拘泥する必然性がなくなってきている。

そのことは事実ではありつつ、どうせ流されていくのであれば
しなやかに、自分の意に反しない方法で流されていきたい。

そのためにはどうすればいいのか。

  • 何を頼りに決めていくのか、という情報ソースの精度を高める
  • 自分自身のなかの「譲れないこと」の精度を高める

この2つは、主観的満足度を高めて生きるために
ほんとうに必要なことだと思う。

つまるところ、

  • 信頼出来るものをちゃんと自分の近く、もしくは自分の中に持ちましょうね
  • 社会に阿るより、自分を参照したほうが、たぶんミスっても後悔ないよ! 

ということなんだけど。

逆に言えば、それさえ心に決めてれば、あとはどうにでもなるかなと思ったりする。

 

まとまりないけど、もっと具体的なことについては
年末の振り返り記事あたりで書こうと思います。

 

以上、言ってることに驚くほど説得力がないくらい腰が重く、
変化を好まず茹でガエル化していることに定評のあるくろえでした!

どう森ブームに、思うこと。(その1)~ SNSの影響の大きさを実感した話

皆さんこんばんは、くろえです。

結局月イチ更新やないかーい!というセルフつっこみはともかく
少しお久しぶりになってしまいました。

昨日、約1ヶ月間取り組んできた調査案件が終了し、
なんとか形にすることができほっと安堵しているところですが、
早速その内容とデジャブになるようなニュースを目にしたので、
これについての雑感を書こうと思います。

プロジェクトで私が主張したこと

 

今回は、未来のマーケティング戦略立案のような案件。
(細かい内容は書かないが)主に以下の様なことを主張してきた。

  • 利用調査から、現在の都市でのスマホの利用方法は、地方と大きく異なっている
  • 今後の社会においては、スマホにマインドシェアをかなり奪われた都市型のライフスタイルが(地方を含めて)加速していく
  • スマホも使いようによっては便利な道具だが、現代のグローバル化・デジタル化の流れの中では、麻薬のような作用をする可能性が高い

まあ内容自体はごくごく一般的な2050論的なものですね。

 

プロジェクト終了日に起こったこと 

 

ここまで全く題名と関係なかったのですが、
昨日PJT終了し、インスタ廃人に回帰した私の目につくのは
このたぐいの情報ばかり。

「どう森 アプリ」の画像検索結果

 

わたしのインスタ界隈はまだ大学生だったりもするのだが、
学生~新入社員界隈を中心に、ID登録画面を喜々として
ストーリーに晒していた(11/22段階=サービス開始2日目)。

なんだこれは。どうぶつの森か?

 

記憶をたどると、流し見していたが、どうやらこういうのがあったらしい。

 

jp.techcrunch.com

 

確かにYahoo!ニュースの一覧やLINEニュースでは見た気がする。
でも実際にその出来事を認識したのは、インスタを見てからだ。
流石にこれだけたくさんの人が喜々として登録しているのを見ると、
なるほど少し始めたくなってしまう気持ちもわかる。

 

SNSによって体験のきっかけが変わった?

 

つまり、上記の自分の体験を見るに
「自分ごと化」され検討が始まったのは、
LINEニュースのローンチのタイミングではなく、
SNS上での反響を見てからなのだろう。

それだけ我々はSNS上の情報に感化されやすいし、
逆に普段接している情報は量が多すぎて、多くのものを
ザッピングしては流し見している、ということが、
自分で検証していたことなのに、今更強く実感された。

 

たまにプロジェクトが楽しいと思うときは、こういう実感があるとき。

 

でまあ、ここから先は完全に個人の雑感ではあるのだが、
私はtoCに近い領域の仕事のときのほうが楽しいし、
それはなんで楽しいのかというと、
自分の発見したことや実感したことが
ユーザ、いち消費者として実感される瞬間が多いからなんだなと。

こういう感覚を忘れないように、
どういう仕事をしていくのかについても、考えていきたいなと思った。

 

考察記事はその2で更新します。
それでは、あでぃおうす。

 

追記

 

いまTwitterのTLを眺めてたら
「もうどう森飽きた」と言ってる人が複数人いて、
もちろんゲームは複数回のリピーターを獲得するのは
難しいということはわかりつつも、
あっという間に「トレンド」として消費されて
ものすごい勢いで飽きられていくんだなあ、と
少し寂しい気持ちになりました。

(もちろんゲーム会社はそれも分かってて、
それでも一部のロイヤルユーザを作るべく
色々尽力しているのだろうと思うけど・・・)